鏡の中に映す本質
鏡を調べても無駄だと分かったので、何とか脱出方法を探るべく、僕と萌は手を繫いで校内を歩き回る事にした。
―――柔らかい、柔らかいよおおほほおおおおおおお!
内裏の邪魔だったり、部長の邪魔だったり色々あったが、今、この瞬間の為に生きていたのだと思えば、それらの行動は全て許せる。萌の手はとても柔らかかった。僕が今まで触ってきた女の子の手と言うと、女の子ではないが、母親くらいしか無い。
しかも柔らかいだけじゃない。ハリもある。萌の手を触ったのは別に初めての事ではないが、二人きりで、誰の邪魔も入らないとすれば、初めてだ。女性のおててと言う奴はこんなにも温かく……僕の手に吸い付いて離さないものなのか。
倫理観はまともに持ち合わせているつもりだったが、もしここが鏡の中だとするならば、仮に萌を襲ったとしても、誰も僕の行いを邪魔する奴はいない。僕は僕の満足するまで萌を……好き放題出来る。
僕という人間はどうしようもなく運命を愛している人間だ。それ故にどんな障害が在ろうとも必ず運命の糸を掴み取る。もしこの世界を脱してしまえば再び幾多もの障害が僕と萌の関係を阻むというのなら、ここで一つ既成事実を作るのもアリではないだろうか。写メに納めて突きつければ、萌も僕の言う事を聞かざるを得ない。
「うーん。一体どうすれば出られるのかな…………」
「も、萌。さっきはごめん。あんな事言って」
「あんな事……? あ、別に気にしてないからいいよ。藤浪君は私を気遣ってくれただけって分かってるから!」
萌…………!
そうなんだよ、僕は君を気遣っているだけなんだ!
流石は将来的に僕の妻となる女。それ程交流していないのにも拘らず僕の事が分かってしまう。『シュウキ』だか何だか知らないが、萌と一緒に居られるなら何処からでもかかってくるが良い。鏡の中に入ってしまった以上、そんな奴が居ない……というつもりは僕でもない。携帯は圏外だし、内裏も居なければ他の気配すらない。さっきの今で突然状況がここまで変化してしまう事さえ、本来なら非現実的と断じても良いくらいだ。それが実際的に起こっているなら、信じる信じないを論じる段階はとうの昔に過ぎている。信じるしかないのだ。非現実的な状況に身を置かれている今だけは。
「そ。そういえばさ。他の鏡を探せば出られるんじゃないかなッ」
「他の鏡って事は……別の階段に行ってみるって事? うーん、あんまり良い案とは思えないけど、行ってみよっか!」
「なんか……気が進まなそうだけど、どうしてだ?」
「―――怪異の媒体って何も一つじゃないの。まず前提として、私達だけがシュウキに遭遇してる。そんな状態で鏡に取り込まれたって事は、この世界そのものがシュウキによって生み出された世界の可能性が高いって事。合わせ鏡は霊道になるってのは有名な話だけど、この学校そのものが怪異のテリトリーだったとしたら……普通の鏡でも、影響を及ぼし得る」
「……つまり?」
「他の鏡も駄目な可能性が高いって事ッ! でも考えてばかりじゃ仕方ないし、だから行ってみようかなって。藤浪君、私から離れちゃ駄目だよッ」
「あ、ああ勿論! 絶対に離れないよ!」
恐らくだが、萌は怖くて、僕に守ってもらいたいのだと考えられる。その証拠に、出遅れた僕の手を彼女は一生懸命引っ張っているではないか。これを僕への信頼の証と見ずして何と見る。悪印象を与えてしまったかと思わないでも無かったが、やはり萌は僕の事を分かっているし、きっと彼女も確信している。
僕との運命の赤い糸という奴を。
「ここから一番近い階段は……こっちだね」
「今更言っても遅いけど、こっちに来た瞬間に思いつけば良かったよ。そうすれば一階降りるだけで確かめられたのに」
「あーそうだね! でも仕方ないよ。私も心を落ち着かせるのに少し時間が掛かったから……っと着いたッ」
怖がっているとは思えない程、軽い足取りで萌は無防備に鏡の前に立って手を突いた。しかし彼女の手は鏡を透過しないし、誰かが引っ張る、映るという事も無かった。只の鏡だ。
「…………うーん」
「どうかしたの?」
「ここは駄目みたい。他の所に行ってみる?」
「いや、まだだ。僕が試すから、萌はどいててくれ」
「触る以外に調べる方法でもあるの?」
「百聞は一見に如かず、一見は一触に如かず、だよ。萌のを見ただけじゃ実際どうか分からない。僕は他人の事を信用してないんだ」
愛している癖に疑うのか、と他人は僕に尋ねるだろうが、それとこれとは話が別だし、愛しているからこそ疑うって事もある。萌には僕の知る範囲での行動を、僕が理解出来る範囲で何かしてもらいたい。僕の知らない事をしている時は、たとえ好きな人と言えども信用出来ない。
時にこれを束縛、と宣う人間も居るかもしれないが、これは束縛ではなく、愛情故の拘束だ。何も萌を全身ぐるぐる巻きに縛り付けたいと言っているわけではなく、首輪をつけたいだけだ。それは束縛と……言えるか?
「んーーーーーーー! んーーーーーーー! …………駄目だ」
さて、踏ん張ってみたが、押そうが引こうが喚こうが、鏡は鏡のままで、僕に何の影響も与えてこなかった。
「やっぱり? そうなると、どうしよっか。鏡を通ってこっち側に来たから、普通に考えれば鏡を使えばいいんだけど、それが使えないって事だと―――」
―――もしかしたら一生出られないかもしれない。
萌と二人きりで居られる事に幸せを感じている僕だが、流石に一生出られないのは嫌だ。脳内では懐妊した萌が学校をやめる所まで進んでいるが、一生出られないと言う事は、即ちそれらの想像が全て妄想として終わるという事だ。
萌と僕くらい体格に差があれば、どんなタイミングでも襲う事は出来る。だから僕は一先ず協力して脱出手段を探しているのだ。その方が好感度も稼げるし、我ながら素晴らしく合理的な判断だと思っている。
「萌、怖いかい?」
僕は彼女に寄り添うつもりで、尋ねた。やはり将来的に妻となる人間を理解しておくのは夫たる僕の務めだ。想定外の返しが恐ろしいが、大丈夫だ。イエスと答えられてもノーと答えられても僕には返しの用意が出来ている。さあ、どんな言葉でも言ってみろ!
「……怖いかって? うん、怖い。傍に部長がいてくれたらどんなにか安心出来るだろうって思ってる。でもそれ以上に、楽しいのが本音かな!」
「―――た、楽しい?」
イエスでもノーでもない答えに、僕の脳は理解を拒絶した。
「こういうイレギュラーな事態が楽しいから、私はオカルト部に入ったの! 藤浪君もオカルト好きなんだよね? だったら、楽しいんじゃないッ?」
「…………」
「あ、勿論死にたいとか怪我したいって言ってる訳じゃないよッ? 私だって平和な方が好きだし、安全に事が終わるならその方が良いのは分かってる。でもね、すっごくワクワクするの! どんな怪異がここには居るんだろう、都市伝説は本当なのか、嘘なのか! 何だか冒険してるみたいで、すっごくすっごく胸がときめくんだッ!」
「………………」
(理解が追いつかないので言葉も出ない)呆然と見つめ続けられて、萌は微かに頬を染めた。
「あ…………ご、ごめん! 押し付けるつもりは無いよ? 藤浪君には藤浪君の楽しみ方があっていいと思う! …………あれ? 藤浪君?」
分からない。
やはり僕はオカルトが嫌いだ。
理解を示そうとしても、オカルトというものはまるで深淵の如き広がりを見せてくる。嘘と真の入り混じる世界への理解は、余程頭のネジが外れていなければ出来ないだろう。残念ながら僕の頭は勉強で凝り固まってしまって、ネジなどまず外れない。とっくに錆び付いてしまった。今まではそれでも良いと思っていたが―――これは、不味い。
女性の会話は共感を求める会話が多いと聞く。一方で男性の会話は結論を求める会話が多い。そのせいで男女が会話したとき、会話としてすれ違うというのは良く耳にするケースだ。要は女性の好感度を稼ぎたければ共感してやればよいのだが、理解不能もここまで来ればいっそ清々しい。我ながら遅すぎる危惧が僕の頭を過った。
―――もしかして僕が変わらないと、萌とは結ばれなかったりするのか?
勉強も恋も、自分が幸せになる為にするものだ。心が健全ならわざわざ不幸になりたがる奴はいない。仮に僕がここで萌を襲い、既成事実を作ったり、或いは懐妊させたりしても、その後はどうだろう。僕達の中は良好のままだろうか。いや、そんな訳ない。
部長を下し、内裏も排除して、無事に萌と結ばれたとしても、このままの状態では、遅かれ早かれ何処かで関係が破綻する。目から鱗だった。恋路の邪魔をする奴らへの排除ばかり考えていて、それ以外の事など全く考えていなかった。僕は己が秀才だという自覚を持っているが、こればかりは非を認めるしかない。僕が間違っていた。
大事なのは萌だ。敵じゃない。極論、萌との愛を限界まで深める事が出来れば―――即ち、萌の方からも僕と結ばれたいと思ってくれれば、恋路の邪魔をする奴は居なくなる。
「…………なあ、萌」
「どうかした?」
「現時点で良いんだ。率直な感想を聞かせて欲しい。僕の事―――恋愛対象として見れるか?」
「え。急に……? 藤浪君が恋愛対象…………うーん。優しい人だとは思ってるけど、恋愛かあ。考えた事もないや」
「く、クオン部長は?」
「部長ッ? 部長は見れないよ! 尊敬はしてるけど……内裏君も別に恋愛対象って訳じゃ―――うん、分からない! ごめんね、あははは!」
前言撤回。
何だ、別に変わる必要ないじゃないか。あー焦った。
「いやああああああああ! 来ないで、来ないでください! け、警察! 警察をよびますわよ! いや、やだ! 助けて! 部長さん!? どこですのッ! 私を一人にしないでえええええ!」
藤浪は基本的に人の話を一切聞いてません。自分の理性が同意したもの以外信じるなという理屈に生きています。