安房の真鯛 the fish from tai-no-ura
明和二年(1765)暮、浅草鳥越の料亭いちまつは、辺り一帯の家屋敷とともに灰燼に帰した。年の瀬、いちまつの若女将おりんは、母親おまさと共に、雇い人全員に手伝わせて焼け跡の片付けに追われた。母子は焼け残った元鳥越町の鳥越明神の裏に貸家を見つけ、そこで仮住まいをすることになった。
おりんには腹違いの兄がいた。おりんの父親、下総白子浜の網元山田次郎衛門が土地の漁師の娘おくまを孕ませ産んだ子で、名を絃太と言った。絃太は荒くれた漁師に混じり、幼いころから地曳き網を引いて育ったためか、柄が大きくて、膂力が強く、力自慢だった。絃太は村の子供らと良く浜で相撲を取ったが、誰も適うものがおらず、腕に自信のある大人を相手に相撲をとっても負けることが無かった。絃太の強さは評判になり、たまたま国入りした下総関宿藩主、久世広明の耳に止まった。広明は次郎衛門を呼び、十六歳の絃太を藩の力士として召抱えると宣した。晴れて力士となった絃太は、江戸新堀町久世大和守の屋敷からも近い本所回向院下の相生町の長屋に住むことになった。その頃の相撲興行は富岡八幡宮境内で催され、寺社奉行の管轄下にあった。春秋二回の興行のたび、八幡宮に出向いて相撲をとるのである。絃太は二十歳となった時、殿様から四股名を賜り、長柄山と名乗った。長柄山はめきめき番付を上げ、この年早くも幕内に上がっていた。
絃太が住む相生町と鳥越のおりんの店とは大川を挟んで対岸にあり、両国橋を渡ると目と鼻の先である。絃太は火事が収まるとおまさの仮住まいへ見舞いに出向き、母子の無事を喜んだ。
「義母様。おりん殿。ご無事でなによりでごわす。心配ェしちょりました」
「義兄さん。お見舞いありがとう。あたし危なかったのよ。火に巻かれ危うく命を落としそうになったとき、火消しの次郎吉さんが駆けつけて来て、助け出してくれたの」
「次郎吉さんって言やあ、以前おりん殿が川で溺れかかった時も、助けてくれたお人じゃ無ェんですか。一度ならず二度までも、命を救ってくだすった大恩人。きちんとお礼はしたんですか?」
「それが・・・火事の後始末に追われ、未だ出来ておりません。松が明けたら母上と一緒に、次郎吉さんを火消し屋敷に訪ねようと思っています」
「おりん殿が義理を欠くとは思っちゃおりやせんが、身体を張って助けてくれたお人だ。生半可な気持ちで行ったらいけませんぜ」
二人の話を黙って聞いていたおまさが口を挟む。
「そうだねえ。火事で皆焼けちまったから、差し上げるものなど何にも無いし、店で招待する訳にはいかない。おりん。次郎吉さんはお前のことが好きだ。いっそ身体を差し上げたらどうだい」
「かぁさん。冗談は言わないで。そんなことをしても次郎吉さんは喜ぶとも思えません」
おまさは仕切りと何か考え込んでいるようだった。
年が明け明和三年正月、晴れ上がって暖かいほどの日和が続いた。おまさとおりんはやっとのことで持ち出せた、少ない着物の中から一番良い着物を選んで身に着けた。火事以来行けなかった湯屋や髪結いに行き、化粧師から念入りに化粧してもらう。助けてもらった人のところへ赴くのに、みすぼらしい姿は憚られるからだ。元気で明るい姿を見せれば、次郎吉はきっと喜んでくれるに違いない。
駕籠を呼び深川六間堀の火消し屋敷を訪れる。屋敷の中は間口の広い土間になっており、ずらりと提灯や梯子、鳶口、差又、水桶などの火消し道具が壁に下がっている。馴染みになった火消しの半纏が吊るされ、次郎吉が先頭で振る纏が何本か束ねられ置いてあった。
「もうし。こちら哲次さんのお屋敷でございますか?」
出てきたのは十七、八の若者だ。威勢がいい。
「はいな。頭は二階ェだ。どちらさんでござんすか?男ばかりの詰め所には相応しく無ェキレェな姐さんとお嬢様の二人連れ」
「は、はい。申し遅れました。昨年暮れの大火事の時、この組の皆様がイの一番に駆けつけてくださった、鳥越いちまつの女将おまさでございます。それとこちらは危ういところを救い出していただいた娘のおりんでございます。本日は頭と纏振りの次郎吉さん始め皆様へお礼のご挨拶に伺いました」
「そりゃ、ご丁寧なこって。今、頭と次郎吉を呼びます。頭ぁ、下に鳥越のおまささんとおりんさんが来ていますぜ。降りて来てくだせえ」
どどっと階段を走り降りる音がして、頭と次郎吉が顔を出した。次郎吉は身体中に火傷の痕があり、膏薬を貼っている。
「お、おりんちゃん。火傷の方はどうですかい?」
「これ。まずは挨拶せえ。折角遠くから訪ねてくだすったんだ」
「へい。おまさ様。おりんちゃん、お元気そうで何よりでござんす。ここじゃ、話も出来やせん。向かいにけちな小料理屋があります。頭。そちらでお話を伺うのはどうでしょう」
「次郎吉。お前ェにしちゃあ上出来だ。どうでがす。おまささん、おりんちゃん。ちょっくらそちらまで足を運んでくだせえまし」
哲次に即され、四人揃って向かいの小料理屋へ。運よく二階の小座敷が空いていた。
「名代の鳥越の料亭の女将と若女将に出せるような代物の料理はありやせんが、ご勘弁ください」
「お頭。次郎吉さん。この度の命がけの救助、言葉もございません。これでおりんは次郎吉さんに二度まで命を救っていただきました。篤く篤く御礼申し上げます。恥ずかしながら、生憎火災で何もかも失ってしまい、本来差し上げるべきお礼の品、何もございません。どうぞお許しくださいまし」
「いや。元気なお二人の顔を拝めるだけでうれしゅうござんす。それが何よりの礼と申すもの」
頭と女将の話の間、おりんはじっと次郎吉の顔を見つめていた。
「俺ぁ、鳥越が火事と聞いて身の毛がよだった。おりんちゃんがどうにかなったら生きていけねえ。だから死に物狂いで走った」
「次郎吉さん・・・・」
おりんは嗚咽し泣き崩れる。頭とおまさは別室に消えた。二人だけの空間を作ってやりたかった。
翌日おまさは本所深川一帯を仕切る博徒の元締め、門仲の研吾郎を訪ねた。おまさは若いころ芸妓をしていたが、その時一度だけ、この親分に抱かれたことがある。研吾郎はでっぷりと肥え、大した貫禄である。傘下の杯を受けた子分衆だけで三百人。十ある堵場は毎晩のように開かれ、その上がりは莫大である。この辺りで親分と対等に口を利けるものは誰一人おらず、本祭りや相撲の興行など本所、深川のありとあらゆる行事で研吾郎の息がかからぬものは無いとまで言われる。
「おまさか。相変わらず色っぺえナ。お前ェんとこ、この前の火事で焼けたと聞いた。気の毒だった」
「はい。命だけは何とか助かりました。色っぽいなんて嫌ですよ。妾ぁもう三十七。大年増もいいところ。実はネ、親分。お願いがあって参上しました」
「そう言うと思った。お前ェが儂に抱かれるため遣って来たとも思えねえ。何だ。言ってみねえ」
「大火事で店が紅蓮の炎に包まれ焼け落ちそうになった時です。逃げ遅れた娘のおりんは、店の二階で助けを求めて、泣き叫んでいました。皆がもう駄目と思い、口々に南無大師遍照金剛とお題目を唱えておりましたその時です。疾風のように猛然と駆けつけた人がおりました。その人は燃え盛り、焼け落ちる梁や柱を掻い潜って、火の中に飛び込み、娘を救い出してくれました。六間堀の火消し次郎吉さんでございました」
「聞いている。瓦版にもでかでかと出ていた。奴の果敢な活躍は深川の誇りだ。火消しはアアじゃなくっちゃいけねえ」
「実は親分。おりんは次郎吉さんに二度命を救われています。一度目は昨年母子で江戸に出てきたその日、乗っていた猪牙船が川筏と衝突転覆し、おりんは投げ出されて溺れかけました。冷たい大川に飛び込んで救い上げてくれたのも、この次郎吉さんなのです。でも生憎火事で何もかも焼けてしまって、お礼の品一つも差し上げられず、肩身の狭い思いをしております」
「仕方無ェんじゃないか。焼け出されたんだから」
「親分。それでは義理が立たないんじゃござんせんか。二度も命を助けられながら・・・で、考えました。ウチを始め、間も無く焼けた家々を建て直す普請があちこちで始まると聞きました。普請の土台造りや材木の手配、建前など一切を次郎吉さんの里親、哲次さんの鳶の組に請け負わせてもらえたら、僅かでもお礼の足しになるのかと思いつきました」
「おまさ。ソイツはちょびっと難儀な願ェだ。お前ェんとこは鳥越だろ。鳥越の普請場に深川の鳶がうろちょろしたんじゃ、鳥越の奴等が黙っちゃいねえ。アスコは花川戸の辰五郎のシマだ。いくら儂でも手が出せねえ」
「充分承知の上のお願いでございます。親分には長年一角ならぬお世話になっておりますが、もう一肌脱いでいただけませんでしょうか。おまさ一生のお願いです」
涙目で必死に訴える様子は、二十年前、駆け出しの芸妓だったおまさを若頭になりたての若き日の研吾郎が始めて抱いた時のうぶな姿と二重写しになった。
「そこまで言うか。解った。何とかしよう。おい、代貸の政五郎と壷振りに、すぐ来るように言え」
政五郎と壷振りの理慧がやってきた。政五郎は痩せぎすで目つきが鋭く、三十半ばで代貸に伸し上がった男だけに挙措に隙がない。壷振りの理慧は女郎蜘蛛と異名をとる名手、婀娜な色気たっぷりな年増だ。
「おい。政。直近に開帳する賭場は何処だ」
「へい。五日後冬木の新行寺で開かれるのが最初でござんす」
「その賭場に花川戸の辰五郎を呼んでくれ。存分に遊んで貰う。いいか、理慧。最後は辰五郎が勝つよう壷を振れ」
「親分。そりゃご法度です。いかさまが露見したら、いくら親分であっても命が危ねえ」
「絶対ばれぬように遣れ。天下の女郎蜘蛛なら出来るだろう」
「そんだけ持ち上げらちゃあ、あたいも遣るって言わなきゃなんねえ。ようござんす。腕に縒りをかけて壷振らしていただきます」
「いいか。辰五郎のシマじゃ札差や蔵宿、金貸しなど金が唸ってる旦那方が遊ぶ。一晩何百両ものお宝が飛び交う賭場ばかりだ。新行寺の賭場の客は木場の旦那衆や砂村の大地主など大金持ちを集めるんだ」
「仕出はウチの板前、鐡蔵に遣らせてください」
「承知した」
深川冬木町の新行寺は普段人が訪れることも無い荒れ寺で住持はいない。研吾郎はこの寺を借り受け、改装して十年前から度々賭場を開帳している。この日招かれたのは木場の豪商五代目奈良屋茂左衛門、砂村新田の二代砂村新左衛門、深川櫓下の遊郭主人濱屋浦太郎、それと浅草花川戸の大侠客辰五郎の四人。何れ劣らぬ錚々(そうそう)たる人物である。これだけの人間をたった五日で集めた代貸の政五郎の手腕は大したものだ。寺の本堂の須弥壇や仏像は取り払われ、代わりに真新しい畳が敷かれ、四隅に分厚い座布団と真っ赤に熾きた炭が入った手あぶり、百目蝋燭が銘々の客用に置いてある。仏像のあった正面には、既に胡坐をかいて座った貸元、研吾郎。代貸の政五郎、壷振りの理慧が控えている。堂々たる押し出しの四人が座に着くと、上等な煎茶が供される。
「お忙しい正月明けの最中、ご参集いただき誠にご苦労さんでござんす。本日の駒札は特別に一枚百両とさせていただく。存分に張って、遊んでくだせえ」
普段一両の駒札が今日は百両。それでも客の面々は顔色一つ変えぬ。勝負が始まった。壷振りの理慧は片袖を脱いで、白い肌に彫られた女郎蜘蛛の刺青を見せ、膝を立てて壷を振る。誰もが勝負に駒札五枚以上賭けている。一回五百両の勝負だ。豪商や大地主は大勝負に慣れているのだろうか、次々と大金を賭けた勝負に挑む。博打が本職の辰五郎の負けが混んで来た。少し客人達に疲れが溜まっていると見た代貸の政五郎が目配せをする。直ぐに三下の子分達が、大盆に乗せた料理を運び入れた。いずれも熱々で湯気が立っている。皆手あぶりはあるが、膝下は寒く火を足して欲しいと催促しようと思っていた矢先である。
「研吾郎の。気が利くじゃないか。滅法美味ェぜ。これは近場の仕出し屋から取った料理じゃ無ェな」
「流石辰五郎の兄ィ。この間焼けた、鳥越のいちまつの花板に来てもらって拵えた料理だ」「道理で美味いはずだ。儂も何度かいちまつを利用させて貰ったことがあるが、何でも板前は深川土橋の平清で修業した男だと聞いた」
「茂左衛門さん。詳しいな。その板前が裏に居る。おい、政五郎。鐡蔵を此方へ」
呼ばれた鐡蔵が挨拶に出てくる。
「板前の鐡蔵でございます。今宵の小料理如何でしたか」
「道具も材料もロクに揃わねえ、この荒れ寺で良く造りなすった。どれも旨かった」
舌の肥えた面々が見事な料理だと口を揃えた。
「有難う存じます。此度いちまつは焼けてしまいましたが、女将もすぐに建て直し、新いちまつとして今秋にも開業させると申しております。皆様方のご贔屓引き続きお願い申し上げます」
「そん時は大いに応援するぜ。皆の衆も頼みますぜ」
「親分に言われなくともそうするよ」
博打が再開された。辰五郎は残った駒札三十枚全て半に賭けた。残った三人の豪商たちは夫々丁方に十枚づつ張る。座が静まり返った。壷振りの理慧は藤蔓を編んで漆を塗った壷を胸元に持ち、中を見せた。四人の男が固唾を呑んでじっと見守る。
「丁半駒揃いました。よござんすね。勝負!」
素早く手が交差し、賽が壷に放り込まれ、空中で強く振られる。壷が盆茣蓙に伏せられた。鮮やかな手つきだ。その場にいる全員が見ほれ、理慧が壷を伏せる瞬間、目敏く賽の目を読み、壷の口に張った一本の髪の毛で目を変えてしまったことに気づかない。毛転がしという秘儀だ。
「開けます!三二の半!」
「ぐびっ。儂も長らく勝負の世界に身を置いているが、一回の勝負で三千両も取るのは初めてだ」
「辰五郎親分。きっと大ツキが廻ったんでござんしょう」
負けた三人は夫々千両を負ったにも関らず、何事も無かったように静かに帰った。残った辰五郎は研吾郎と祝杯を挙げる。
「凄ェ勝負だった。久しぶりに冷や汗かいたよ」
鐡蔵がつまみを運んでくる。
「辰五郎。勝ったお前ェは気分がいいに違いねえ。頼みがある。鳥越の焼け跡の普請場、深川の鳶、哲次って野郎に請け負わせて貰えねえか」
辰五郎は即答した。
「いいだろう。浅草の鳶は他にやることがある。鳥越にゃあ、一切関るなと言おう。今晩は楽しませて貰った。ありがとさんよ」
かくして鳥越の当座の普請場二十棟分は哲次の組が請け負うことになった。哲次は自分の組下の鳶だけでは足らず、他の組にも声を掛け応援を出してもらった。
おまさとおりんは店を建て直す為、火災の被害を受けなかった主な得意先に奉加帳を回し、冥加金を募った。いちまつの料理と雰囲気、女将の心意気が大好きな顧客達は喜んで寄進を決めた。奉加帳を持って、おまさ、おりん、鐡蔵が打ち揃って浅草一帯を仕切る辰五郎を訪れたのは、一月の下旬である。親分の屋形は浅草寺の東、大川沿いの花川戸だ。一帯は町屋や店舗、長屋などが立ち並ぶごみごみした場所だが、浅草寺や他の多くの寺社詣、盛り場目当ての客、吉原に遊ぶ人間たちなどいつも大勢の人間で溢れ、渡世人が必要不可欠の街なのである。為に、渡世人同士の縄張り争いは絶えない。聖天町、今戸、下谷、鳥越などの町には、夫々親分がいるが、一帯の親分衆を束ね君臨しているのが、花川戸の辰五郎である。辰五郎の屋敷は広壮で立派だった。
三人が慇懃に挨拶すると、辰五郎の居室に通された。
「本日は誠に不躾で恥ずかしいお願いで参りました。昨年暮れの大火事で手前共の鳥越の料亭いちまつを失いました。今まで大勢のお客様に助けられ、どうにか遣ってきた店でございます。皆様のご愛顧に応えるためにも、是非店を建て直そうと決心致しました。此処に奉加帳を持参しました。もし私共の志にご賛同下されば、寄進していただこうと厚かましく、お得意様を廻っております」
辰五郎は何も言わず、硯と筆を持ってこさせた。
「奉加帳を開いてくれ」
おまさはおずおずと差し出す。辰五郎は筆にたっぷり墨を含ませ一気に黒々と金千五百両、花川戸辰五郎と書いた。ずらっと並んだ他の寄進者は一両か二両、研吾郎親分でさえ五十両である。驚嘆したおまさはそれでも顔色を変えず一礼、おりんと鐡蔵もそれに倣った。
喧嘩やいざこざ、やくざ同士の出入りがしょっちゅうのこの浅草の町を、文句一つ言わさずぴたっと収めてしまう、大親分の器量である。
「鐡蔵。博打場の料理美味かったぜ。おまさにおりん。今まで以上のモノ食わせなかったら承知しねえ。おりんはもうちっと色気を磨くんだな」
「は、はい。承知仕りました」
店再興の寄進集めは大成功だった。寄進の総額は千八百両である。店の再建と仕込みには千両でおつりが来る。おまさはとなりの土地を買い取り、店や庭を以前のものより立派にしようと思った。
哲次と次郎吉は巨額な請負に面食らいながら、仲間を集め、二十軒もの整地や土台作りに取り掛かった。いちまつの再建工事は次郎吉の担当である。整地が終わり、土台を据える時地鎮の式を行う。ついで木場で材木を仕入れ、材木屋が所定の寸法に裁断、大工がその材木の仕口を刻み、鉋で仕上げる。これを現場で組み上げるのが鳶の仕事である。建前という。主な柱梁が立ち、屋根が掛かるのが上棟。節目毎に施主や職人が集まり神主を呼んで普請の安全を願う。おりんは颯爽と鳶達を指揮する次郎吉が見たくて、毎日普請場に通った。手作りの弁当を持ってきて、普請場の片隅で二人並んで食べるのである。
「次郎吉さん。この前花川戸の辰五郎親分のところへ行ったら、あたしにネ、もっとお色気をつけろと言われたの。どう思う?」
「そうだなあ。おりんちゃんは困った時も明るい笑顔を見せてくれる。それでいいと思う。色気なんかきっと自然に身につくものなんじゃないかな」
明和三年秋、新いちまつは竣工した。地所は倍近くに広がったが、店の大きさはそう変えなかったので、その分庭が増えた。堀の水を引き込んで池を造り、池に張り出すように建物が建っている。次郎吉の発案である。
開業すると、それまで待たされた大勢の顧客や新規の客が押し寄せ、大賑わい。一段落した翌年の正月、巨漢に一杯の汗をかいて、おりんの義兄、羽織を着た関取長柄山がやってきた。
「あら、義兄さん。立派になっちゃって」
「ずっと巡業であちこち廻ってたんで、火事見舞いや新築祝いにも来られんかった。すまん」
「お相撲さんは稽古が一番。この前の場所、とっても良い成績だったと聞いたわ」
「店、凄く立派になった。前より広くて綺麗だ」
「そりゃそうよ。新しい建物なんだから。地所も広くなったのよ」
「じ、実はな、おりん殿」
「兄弟じゃないの。殿はいらないわ」
「じゃおりん。困ったことが起きた」
「何よ。困ったことって」
「儂がいる部屋の部屋頭は天下の大関(当時の最高位)養老川関だ。儂は先場所十勝五敗の好成績をあげ、前頭五枚目に上がる。大関は儂を褒め、一席設けてくだすった。初めてだったんで儂すっかり舞い上がっちまって、飲んだ勢いでトンだこと言っちまった」
「義兄さんは酔うと気がおおきくなるもんね。で、なんて言ったの?」
「食い物の話になった。大関は真鯛の刺身が大の好物だという。儂は妹が鳥越で料亭の若女将を務めてる。ご馳走させてくださいなんて言った」
「ばか。義兄さんの馬鹿。ウチで出しているのは近海ものの甘鯛よ。真鯛は鮮度が大事だから、安房の鯛が有名だけど、早舟で運んだものでも痛んでしまって、ウチでは出せないの」
「俺りゃ、てっきり義母さんに、前頭の分際でこのいちまさで招待することを怒られれば済むと思ってた。鯛違いか。とんでも無ェことになった」
「どうしよう。義兄さん是まで一生懸命頑張ってきたものね」
「おりん。話は終わらねえ。大関は場所後、部屋の抱え主の関宿藩主、久世大和守様に挨拶に行った。その時、故郷房州の話がはずみ、自分は今度鳥越のいちまつという料亭で鯛の浦の真鯛を馳走になると、藩主に話してしまった。藩主は国許でも鯛を食べたことが無く、一度食べてみたいと思っていたから、大乗り気になって自分も相伴したいと申された」
「まぁ、大変。お殿様までが、食べたいと仰られては、後に引けないわ。鐡蔵さんに相談してみよう」
呼ばれた鐡蔵が顔を出す。
「どうなすったんで。二人とも青い顔して」
「親方。この人真鯛の刺身を大関養老川と下総関宿藩主、久世大和守様にご馳走するなんて言ってしまったの」
「そりゃ、大事だ。真鯛の刺身は浜の漁師じゃねえと食えねえ筈だ。一日置くとモオ身がだらけて不味くなっちまう。天下の大将軍、徳川家康様が出された鯛を食って死んでしまったのは、あまりに有名です。将軍家でさえ鮮度の良い鯛を手に入れることは適わねえ」
「捕ってからどの位の間なら美味しいの?」
「そうでござんすねえ。釣り上げた鯛をその場で生き締めにすりゃあ、半日は大ェ丈夫でござんしょう」
「た、たったの半日?」
「左様です。良い鯛が釣れるのは、安房鯛の浦。江戸からぁ三十里以上離れてる。船じゃ三日以上かかるし、馬では揺れて身が痛んじまう。とても無理だ・・・・・・ま、待てよ・・・・今思いついた。次郎吉さんに走って届けて貰ったらどうですかい。或いは間に合うかも知れん」
「駄目。絶対駄目。次郎吉さんは私を助けるため二度も死ぬ思いをしているの。頼める訳無いじゃないの」
「そうですか。長柄山関。すっぱり諦めておくんなさい。あんたが腹を切ればいいことだ」
「うっ、うっ、うっ」
「あれっ。でかい図体の関取が泣いてやがる」
相撲取りの巨体を縮めて、泣きべそをかく長柄山におりんはとうとう根負けした。次郎吉に頼みに行くのは、とても許されることではないが、相談するだけだと自分に言い聞かせて次郎吉のもとを訪ねることにした。本当は逢って話がしたかっただけかも知れぬ。
新しく買ったとびきりの着物と乙女らしい髪型にしておりんは次郎吉の住む火消し屋敷を訪れた。
「こんにちは。次郎吉さんいらっしゃいますか」
「おりんちゃん・・・久しぶりだネ。逢いたかったヨ」
「開業でお店とっても忙しかったの。ごめんね。でもね、こんなに早く開業できたの皆次郎吉さんのおかげよ。ありがと」
「頭もあんな大きくて大量の仕事、請け負ったのは初めてで、喜んでる。おりんちゃんやおまささんが研吾郎親分に頼んでくれたそうですね」
「貴方にはいくら感謝しても仕切れないわ。この間の小料理屋さんに行きましょうよ。相談があるの」
おりんの相談って何だろう。ひょっとしても、申し込み?まさかネ。にやけそうになる顔を堪え、小料理屋の門を潜った。この前の部屋に入ることが出来た。
「おりんちゃん。今日もとっても可愛いよ」
「お世辞いわないの。いつもと変わらないよ」
「お色気が出てきた感じがする」
「そうお?嬉しいわ。あのね、昨日ね、あたしの義理の兄が店に来たの」
「確かお相撲さんだったよね」
「今度前頭五枚目になるって言ってた」
「凄いじゃないか。立派な関取だ」
何故かおりんは目に一杯涙を浮かべている。そして突然わっと泣き崩れ、次郎吉は困惑した。
「ど、どうしました?おりんちゃん。何があったんですか?話してご覧」
おりんは泣きながら、長柄山の訴えを話した。最初の勘違いの発言が途方も無い大事に発展し、最早逃れるすべが無いことを。
「おりんちゃん。俺はお前ェが哀しむ姿なんか見たかねえ。三十里が何ほどのことか。あと二月ある。それまでその距離を走れるよう鍛錬する」
「三十里も続けて走ったら、心の臓が破裂して死んじゃうよ。あたし十五のとき母と下総白子浜から江戸に出ました。山又山の難儀な道で、雇った馬も泡を吹いて倒れる有様でした。七日掛かりました。とても半日で走れる距離ではありません」
また泣き崩れる。
「おりんちゃん。泣いてばかりいてもしょうがないよ。やらなきゃならないんだろう」
「で、でも馬鹿な義兄の為に、貴方を危険に晒すわけにはいけない。義兄に死んでもらいます」
「おりん。お前ェ本当にそう思っているのか。義理と言っても父親が同じ兄弟じゃ無ェか。アニさんは追い込まれ困りきった挙句、お前ェに相談に来たに違ィねえ」
二度まで我が身を死の危険にさらし、自分を救ってくれた男、その男が再び自分のために命がけで挑んでくれる、おりんは次郎吉の無償の優しさと自分を想う気持ちの強さを思い、泣きじゃくって甘える他無かった。
安房鯛の浦から江戸浅草鳥越までの三十里余を半日で走り抜けなければならなくなった、次郎吉のもとに佐賀町の火消し権次が遣ってきた。権次は昨年暮れ、おりんが若女将を務める料亭いちまつが罹災した際、どちらが早く火事場まで駆けつけられるかを競い、寸手のところで次郎吉に破れた男だ。
「珍しいな。どうした、権次」
「俺は町内一の早駆けを誇っていた。だが大ェ事な浅草の大火事の時、走り負けた。お前ェだけにゃあ、負けたく無ェと思っていたが、完膚ねえ位ェに打ち負かされた。今まで偉そうに威張り、お前ェ達を小馬鹿にしていた俺を許してくれ。今日からお前ェを兄ィと呼ばせてもらう」
「照れるぜ、権次。お前ェは俺より三つも年上。ソイツから兄ィと呼ばれるなんざあ、こそばゆい」
「今まで反目しあっていたが、これからぁ、町内の為協力しよう」
「有難てェ。義兄弟の盃の前ェだが、早速頼みがある。火事ン時助け出した娘、おりんちゃんって言うんだが、おりんちゃんの義理の兄貴の面子を立てるため、三十里余走って鯛を運ばにゃならん。荷は五貫を超し、一人じゃあ運べねえ。お前ェ一緒に走ってくれねえか」
「三十里っていやあ、半端な距離じゃ無ェが、俺と兄ィなら遣れる気がする。引き受けた」
「出発は再来月の三月十五日。まだ二月以上ある。長ェ距離走る鍛錬は充分出来る」
「で、どこをどう走るんでえ?」
おりんから話を聞いた次郎吉は、地図や名所図会、地誌などを集め研究を重ねていた。
「鯛が上がる安房鯛の浦は館山藩因幡様の御城下のさみしい浜だ。そこから印南房総往還で勝浦に出る。三里十二丁。海岸沿いの道と聞く。勝浦からは大多喜街道と呼ぶ下総国を横切る山坂。十三里二十五丁で濱野。大多喜藩だ。此処から濱街道と呼ぶ江戸湾沿いの道を走り十一里二十五丁で行徳。行徳から中川船番所までは船。あとは一里半で浅草だ。合計三十里二十五丁(百二十三粁)の長丁場。これを四刻(八時間)で走る」
「物凄ェ計画だ。血が沸くぜ」
「二人歩調を併せ走らにゃならん。荷は大鋸屑を詰めた長持ちだ。鯛の他鮑や蝦、若布なども積む」
「梯子や龍吐水を二人掛かりで運ぶことにゃあ、慣れているが、今度は下にぶるさげるンじゃ無くて、担いで走るんだろ。駕籠屋にでも修行に出るか」
「俺もそれを考えていた。只駕籠屋はそう長距離は走らん。前世話になった飛脚の伝吉さんにも教えを請おう」
「駕籠屋と飛脚から走りの極意を教えてもらう。良い考えだ」
「実際走る前、きちんと鯛が上がるよう白子の網元善衛門様に頼みに行く。おりんちゃんの実の父親だ。白子濱から少し足を伸ばせば、鯛の浦。足で確かめる」
飛脚伝吉に長距離の走り方、駕籠屋から息を合わせ荷を担いで走る呼吸を伝授してもらった。権蔵は駕籠を作る指物師に二人が担ぐ長柄や長持ち、調子を取る息杖、水を飲む竹筒などを注文した。伝吉に聞いた頑丈な草履、脚絆、袖無半纏、ぱっちなども特別に誂える。二人は空身の駕籠を担いで走る練習を始めた。
決行の半月前、次郎吉はおりんと白子濱へ旅立った。まず亀戸天神に詣で、道中の無事を祈願する。
「おりんちゃん。走りの鍛錬は順調に行っている。だがまだ解決しなきゃならん問題が幾つもある。関所の三箇所を短時間で通過し、行徳から船堀川を通って中川番所に渡る船に都合よく乗り、決行の日鯛が無事釣り上げられるかどうかだ」
「そのことなら大丈夫と思う。義兄長柄山が大関養老川を通じ、久世藩のご用人様に関所御免の免状を貰い、優先的に船を出すようお達しを出して貰ったの。鯛のことは父上に良く頼みましょう」
「大事になってきた」
「それだけじゃ無いわ。貴方と権蔵さんが走って鯛を届けることが、大々的に瓦版が取り上げたの。それがあってか、関宿藩のご用人様は行路に当たっている大多喜藩松平様や忍藩の松平様のご担当役人と語らい、行路に当たる道の整備や五里毎に水場を設けるようお達しを出されたのよ。藩は元より沿道の町民にも大変な評判がたって、見物客が押し寄せそう。義挙だと言うのよ」
「義挙だなんて。失敗は許されないな」
二人は旅篭に泊まりながら五日後、安房小湊鯛の浦に着いた。大多喜街道は起伏のある山中を貫いていく道だが、整備が行き届き走りやすそうだった。だが困難なのは平坦と思っていた、海岸沿いの印南房総往還だった。道は狭い曲りくねった断崖を縫うように走り、酷く険しい場所が幾つもある。走り始めたら最初でへばってしまいそうな難路である。歩いただけで息が上がる。
別れ道では間違えぬよう付近の立木に用意した目印の布を巻いていった。
帰りは勝浦より真っ直ぐ往還を上り、長い海岸線の続く白子濱の網元、山田善衛門を訪ねた。おりんの実の父親である。善衛門はおりんをこよなく愛している。
「父上。おりんです。長らくご無沙汰致しました」
「お前達が出て行って三年になる。息災に過ごしているのか」
「はい。私も母も元気です。手がけております浅草の料亭、昨年暮れ火災に会いましたが、昨年秋再建し繁盛しております」
「連れの男は誰だ。大層な男前では無いか」
「は、はい。申し遅れました。昨年の火事の時、焼け死にそうになった私を助け出してくれた火消しの次郎吉さんです」
おりんは義兄の長柄山のことから始め、今度鯛の浦から浅草まで鯛を走って届けねばならぬことなど、善衛門に詳しく話した。
「そうか。今回は走りの下見と言うわけだな。相解った。鯛の浦の漁師達にその日の暁闇、腕利きの漁師全員が船を出し、鯛を釣るよう申し付ける。恐らく七ツ半(午前五時)には出立できるはずだ」
「父上。ありがとう存じます」
「なんの。偶には顔を見せてくれ。おまさには黙っておったが、お前達が出て行ってから、寡暮らしに耐え切れず、長柄山の母親おくまを家に入れ共に暮らしている。おまさも江戸で良き男を見つけたら共に暮らせと言ってくれ」
「身勝手な父上。でも私達も強引に江戸へ出てしまったんだから、仕方ないよね」
「おりんはこの次郎吉と一緒になる積りか。仲が良さそうに見える。もう共に寝たのであろう」
おりんは真っ赤になって否定する。
「ば、馬鹿なこと言わないで。私と次郎吉さんは何もありません。共に清い身体です」
「結ばれるのは時間の問題だと儂は診た」
おりんと次郎吉は恥ずかしく顔が上げられぬ。だが、善衛門から許諾同然の言葉が出て嬉しくもあった。
帰りは船で江戸に戻った。
頑丈な長柄や長持ちが出来た。毎日二人は長持ちに倍の十貫の荷を乗せ走った。山坂に耐えて走れるよう起伏の多い上野の寛永寺や谷中、王子権現付近にも足を伸ばした。始めもつれ気味だった二人の歩調は次第に合ってきた。先棒は権次、後棒が次郎吉である。後棒が速度や行路を差配する。おりんは毎日練習を見守り応援を続けた。
出立の日が迫った。往路は疲れを貯めぬよう船便を利用した。三月十四日、二人は鯛の浦に入った。網元の号令は行き届いており、明暁闇に漁をしてくれる漁師は二十人もいた。生餌にする芝蝦を捕ったり、釣竿や仕掛けの準備に追われている。濱には大きな篝火が焚かれ、夜明け前に出港する。丑三つには一斉に船を出し、漁場に向かった。鯛の浦は古来より真鯛が滞留する聖地で、本来深海を回遊する鯛がここでは十尋前後の浅瀬に群生している。普段漁師はここで鯛を釣ることは許されぬ。藩主が固くこれを止め保護しているからだ。張り切った漁師達は竿を入れ、糸を手繰った。
刻限の七ツ(午前四時)、何艘かの魚船が戻って来た。釣れた鯛の内、美味いとされる尺五寸程度の生きの良いもの三尾を厳選する。釣った直後血を抜き腸を取り去る生き締めが完璧に施されている。昨晩頼んでおいた鮑、伊勢海老、若布と共に、大鋸屑の詰まった長持ちに詰め、愈々出発である。時刻は七ツ半(午前五時)丁度。夜明け前で真っ暗。提灯を灯し、前棒の権次は息杖の代わりに、丸に鷹羽の久世大和守の紋所と筆黒々と書いた下総関宿藩御用の旗を掲げている。
担ぎ上げるとずしりと肩に重みが架かる。春一番の風が強く吹きつけ、旗が翩翻とはためき、バタバタ音を立てる。
「いくぜ。権次」
「おうっ」
大勢の漁師や家族が見守っている。
「頑張れよおっ」「無事届けてくれェ」
「えいっ」
「ほおっ」
掛け声を唱和させ二人は走り出した。滅法速い。
「崖沿いの山道だ。しっかり踏んで走れ。俺は後ろから方向を定める。お前ェは曲がり角で右、左と叫べ」
「おおっ。解ったぁ」
屈曲が続く険しい山道を走り抜く。下りは特に剣呑だ。権次は背が高く、次郎吉は小柄なので丁度良い。速度を落とさず急速に廻る。波打ち際では逆巻く波が打ち寄せ、飛沫が掛かる。
「えいっ。今度は右。かなりキツイ曲がりだ」
「ほおっ」
次郎吉は大きく梶棒を左に振って、曲がりを助ける。急な山坂が続くが、二人とも息の乱れは無い。厳しい鍛錬のお陰だ。
「浮石や木の根に注意しろ。引っ掛けたら終わりだ」
「おうっ。踵を高く上げて走っているぜ。後ろのお前ェも注意して走れ」
鐡蔵からは遅くとも九ツ半(一時)までに着かねば間に合わぬと言われている。掛けられる時間は四刻(八時間)が限度である。関所や船で少しでも時間が掛かれば間に合わぬ。均して七里半(三十粁)を一刻(二時間)で走らねばならぬ。限界に近かった。
招待が決まってから、鳥越の料亭いちまつでは女将のおまさ、若女将のおりん、板前の鐡蔵が武鑑を前に真剣な表情で協議が続けられた。
「鐡蔵。今度お迎えする久世大和守様とはどのような殿様なのでしょうか」
「ご存知の通り将軍家は十二代家慶様。久世様はお名前を広明様と申され、お小姓から累進を重ね、今はご老中筆頭の実力者。本屋敷は日本橋新堀町、下屋敷は深川清澄にございます。清澄の下屋敷はかの紀伊国屋文左衛門の屋敷を買い取ったもので、巷間噂になりました。本国関宿は大利根と江戸川の分岐する下総葛飾郡にあり、石高五万石の譜代大名です」
「そのような大層なお大名がこんな町屋の料亭にお迎えするのは恐れ多いことです。お部屋の設えや献立などどのようにすれば良いものか」
「久世様にはこんな逸話もございます。家慶様お側近く伺候にされていたとき、家慶様は御膳を召し上がられておりました。汁椀の蓋を取ると、そこに大きな青虫があり、驚愕した家慶様が箸で挟んで取り除こうとされました。すると久世様はツツっと家慶様のお側近くに罷り出、両手でその青虫を受け、その侭ご自身の口中に投げ入れ食べてしまわれたのです。大殿はじめお付の一同、その豪気に感心しお褒めを預かったそうです」
「左程の剛の殿様は、どのような品をお好みでしょうか」
「久世様は以前御膳番を務めるなど、大変な食通とも聞いております。関宿は有数の醤油の産地で知られ、一帯が低湿地で鰻や鮒などの川魚類は豊富に採れると聞いております。この度は鯛の刺身を食されたいとの御所望ですので、是は外せません。醤油にも吟味を重ねる必要があります。鯛料理を中心に、色んな料理も加え、盛り付けにも一層の工夫をせねばなりますまい」
「殿様や大関の接待は私で良いのでしょうか」
「いや、おりん様にやっていただきましょう。おりん様は恋をして若さがあふれ、華やかで殿様のお気に召すかと思います」
「まぁ、女将の私はどうせ大年増ですよ。おりん。花板からの指名だ。お前が先頭に立ち立派に接待するのじゃ。私は陰でささえましょう」
「ご老中様や天下の大関の前に出るんですか。緊張するわ」
「おりん様なら大丈夫でございます。物怖じしないし、快活で明るい。それに何より美しさが身体中から滲みでております」
「私が殿様のお気に召したらどうしましょう。私は奥女中や側女に上がるのは絶対嫌です」
「気が早すぎます」
接待する座敷は池に大きく迫り出した大広間で行う。広い縁からは鯉や鮒の泳ぐ様を見ることが出来る。店は新築したばかりで、何処も綺麗であるが、屏風や脇息、敷物などは新規に発注する。器の幾つかは鐡蔵自ら陶芸家のもとを訪れ、焼いて貰った。
必死の走りは続いた。険しい断崖の道はまだまだ続き、遅れ気味。三里半の勝浦に着いたのは、予定を上回る六ツ(六時)。陽が差してきた。行き手を遮る突風は強くなる一方だ。勝浦からは海岸を離れ山に入る。大多喜街道である。藩主が参勤交代で使う道なので整備されている。徐々に速度を上げる。折り重なる低い山に若葉が萌え始めている。街道は山々の狭間を縫って行く。谷戸には水を張った田圃や耕して黒土が表れた畑地が広がった。鯛の浦より凡そ五里の白井久保には、約定通り大多喜藩の藩士が水場を設けて呉れている。二人は速度を落とさず走りながら、水の入った竹筒を取り、飲むとそれを投げ捨て走り続ける。街道には付近の百姓が並びだした。皆驚くべき速さで駆け抜ける二人を、呆れたように見送る。
「えいっ」「ほおっ」「えいっ」「ほおっ」「えいっ」「ほおっ」
勇ましい掛け声が絶え間なく上がっている。陽が上がるにつれ、暑くなってくる。脚の筋肉がこわばり痛みも出た。息が苦しい。
「権蔵。気持ちを強くもて。しっかり腿を上げ、腕を振るんだ」
次の水場では竹筒に入った水を頭や身体に浴びせ、体温を下げる。往還の険しい道で消費した時間を取り戻さねばならぬ。走り出しより十里の地点大多喜には五ツ(八時)を少し越えた時刻に着く。ここで僅かな休憩を取る。藩士が用意してくれた焼餅を食い水を飲む。八分の一刻(十五分)ほど休んで再び走る。僅かながら休息を取ったので、速度が上がる。その後平坦な道をひた走り江戸湾に面する濱野に着いたのは四ツ(十時)。江戸湾沿いに走って行徳に着いたのは、九ツ(十二時近く)前。かなり遅れている。あと半刻(一時間)で着かねば間に合わぬ。行徳の船着場には関宿藩の御用船、帆を張った五丁櫓の高瀬舟が用意されており、二人が乗り込むと直ぐに走り出す。目指す船堀川と中川の合流点までは凡そ二里半。そこから鳥越までは一里三十一丁。追い風に助けられて船は飛ぶように走り、たったの四半刻(三十分)で中川船番所に着いた。ご老中久世大和守からの達しがあり、二人は一切の取調べを受けることもなく上陸した。中川の土手を一気に堅川まで上り、房総往還(千葉街道)の広い通りに出る。沿道にはいろは四十八組、本所深川十六組の町火消し達が揃いの半被でずらりと並んで、押し寄せる見物人の整理に当たっている。
いちまつでは、早朝から皆が目の廻る忙しさだった。女中達は、店の内外の徹底的な清掃に余念が無かったし、鐡蔵は今日出す料理の献立に最後の手を入れた。弟子達は厨房の隅々まで水洗いし、包丁の研ぎ出しや鍋釜を磨き上げていた。
おまさは度胸を決め、落ち着いて仲居や女中に指示を出していた。前の日から今日やらねばならぬ仕事を抜書きしていたのである。一方おりんは、次郎吉が無事刻限までに走りきることを、鳥越の明神様へ願掛けした。今日は自分が客のおもてなしの主役である。与えられた使命の大きさに震えながらも、どのように振舞えば良いか考え抜いていた。髪結いと化粧師を呼んだ。
「華美に陥らず、凛とした気品を出してください。だが女としての、そこはかない色気や弱さも持ち合わせているということにも留意し化粧してください」
「難しいご注文でございますね」
「今日は幕閣の最高位に位する久世大和守様のご接待です。生半可な化粧では失笑を買うでしょう。難しい注文をだしましたが、要は私が尤も私らしくなるよう装えば宜しいのです」
「良く解りました。おりん様の性格は良く承知しております。全身全霊を篭め、お化粧させていただきます」
髪結いが丹念に髪を梳き、結い上げる。おりんの細い首とうなじの美しさを際立たせる割れしのぶ。金の簪を挿す。化粧は顔全体に薄く白粉を塗り、頬紅で淡く色づけする。眉は幾分くっきりと描いて、黛は薔薇色。唇は茜色。睫毛は濃い焦げ茶。注文通りの見事な出来栄え。鏡を見てにっこり微笑む。着付け師に新しい京友禅の振袖を着せてもらう。萌黄色の地に春の野花をあしらった上品で清楚な本振袖。帯は金に白い蝶が飛ぶ絵柄だ。誰もがうっとりする。派手では無く、落ち着いているが艶やかさが滲み出る。おりんはこの衣装はご老中のためでは無く、今おりんのため懸命に走っている次郎吉のために装ったと自らに言い聞かせていた。
権次と次郎吉が、狭い中川の土手から広い房総往還に出た途端、歓声が上がった。火消し達が一斉に纏を振り、鉦を鳴らした。
「もう少しだっ。頑張れェ」
次郎吉はやや疲れが見える権蔵の逞しい背中を見つめていた。一時は反目し互いを嫌悪していた男だ。それがこうして一緒に協力しあいながら長い道程を走っている。権蔵は生まれながら身体が大きく、走る才に恵まれていた。一方自分は小さく華奢で弱く、毎日鍛錬を続け漸く昨年、権蔵に走りで勝つことができた。そんな次郎吉の弛まぬの努力が、慢心した権蔵に打ち勝ったと思ったに違いない。だから、辞を低くして弟分になると願い出た。この道程は権蔵の男気や火消し同士の友情を感じさせるに充分だった。
大群衆に見守られ、二人は最後の力を振り絞って駆けていた。両国橋が見える位置まできた。もうほんの少し。
道に老いた赤犬がよろよろと出て、権蔵の前を横切ろうとした。刹那、避けようと急に右に曲がろうとする。後棒の次郎吉には犬が見えず、そのまま押した。権蔵ががくっとよろけ、脚をもつらせ、転んでしまった。見物人から悲鳴が上がる。最後の最後で権蔵は脚を挫いて、血を出して蹲る。
「次郎吉。すまん」
「俺の方こそ、すまねえ。お前はよくやった」
次郎吉は長柄から長持ちを外すと、肩に担ぎ上げ、一人で走り出した。あと十四丁。残った力を全て吐き出す。猛然と速度を速め走る。三味線堀の広い通りには首尾を見届けようと鈴なりの群集が押し寄せている。地鳴りのような歓声。いちまつの門前にたどり着いたのは九ツ半少し前。間に合ったのだ。果たした責任の大きさと安堵は荷を渡した途端倒れこんだ次郎吉が再び立ち上がるのを許さなかった。
「おりん。無事届けたぜ」
荷を受け取った女中が大声で到着を告げる。鐡蔵が喜色を浮かべ寄り付きへ出てくる。これからは次郎吉に変わり鐡蔵の戦いだ。弟子に荷を開けさせ、運んできた鯛を取り上げる。鯛の目は黒く光り、先ほどまで泳いでいたかのように新鮮である。手早く鱗と鰭を落とし、頭を付けたまま三枚に下ろし、皮を湯引きして冷水に晒す。鐡蔵は次郎吉の辛苦を感じながら慎重に包丁を使った。
おりんは化粧を整え、着物を着、帯を締め自分の部屋で静かに時をまった。動悸が止まらず、何を話して良いか頭の中は真っ白のまま。仲居頭のお由紀が小走りに部屋に入って来た。
「おりん様。たった今次郎吉さんが鯛を届けてくれました」
かぁっと身体中が熱くなる。次の瞬間、自分のため走りぬいた次郎吉の気持ちが胸を強く衝いた。背がしゃんとなり、胸のつかえが抜けた。次郎吉さんが、正に自分の為だけに、遥か遠い道程を走りきり、刻限違わず届けきった。おりんの気持ちは定まり、目を閉じた。
八ツ。約束の刻限どおり、筆頭老中久世大和守の豪勢な大名駕籠がいちまさ門前に到着した。おりんは門の前に出て、殿様を出迎える。見物人たちから溜息が漏れる。おりんの凄さまじいばかりの美貌と凛とした姿勢。卑屈にならず胸をはって老中を迎え、案内する。
「さすがいちまつの若女将を張るだけのことはある。おりんちゃん未だ十八だと言うじゃないか」
「見事だ。久世様といやあ、幕府最高の実力者。ここだけの話だが、大殿家慶様はそうせい様とまで言われる暗愚なお方。久世様の意向で世の中が動いとる。それを落ち着いて笑顔で出迎えるなんざ、ナミの女将じゃ出来ますめえ」
「するてえと、近い将来この浅草や深川の料亭を仕切るンは、こちらの若女将になると違うンけ」
続いて大関養老川、前頭長柄山が相次いで到着、座敷に案内される。
正面御座所には歌川広重描く中川口の六双の絵屏風。屏風左右に山桜を配した雪洞。分厚い座布団の豪華な脇息が置かれ、大和守はそこへ誘われる。殿の眼前でおりんが平伏している。目の先には巧みを凝らした庭園と広大な池が広がる。久世はこの時三十四歳で、若くして高位についた、聡明でやり手の大名だった。
「女将。苦しゅうない。頭を揚げてくれ。本日は無理を言い、相すまぬことであった。元はここにいる関取達が儂に、ここで安房の真鯛が食えると吹聴しおってな。儂は元来食いしん坊での。押しかけた次第じゃ。許せ」
「いちまさの若女将おりんにございます。ご所望により今朝安房鯛の浦で釣り上げた真鯛をご賞味くださいませ」
「な、何。今日捕れた鯛とな。偽りを申すでない」
藩主は次郎吉が走って鯛を届けることを初めて知ったらしい。用人は失敗した場合を恐れ藩主に報告を上げなかったようだ。
「偽りではございませぬ。権次と次郎吉と申す二人の深川の火消しが、三十里余を走りぬいて、先ほど届けてくれました。さあ、料理が参りました。お箸をお着けくださいませ」
大和守は鯛の刺身を一切れ摘んで口に入れた。
「美味いぞ。嘗て味わったことの無い味じゃ。身はプリプリし、弾力があり、且つ頗る美味である。もそっと呉れ」
殿様は出された刺身を存分に食い、鯛と若布の炊き合わせ、鯛飯に鮑を混ぜ込んだもの、潮汁など他の料理も全部平らげた。関取達も相伴に預かり大いに食べた。
「おりんと申したの。面白い話を聞かせてくれた。走りきたった男に逢うてみたいものだ」
おりんは部屋で休ませている次郎吉を呼んで来るよう命じた。次郎吉が走った時の姿のまま、罷り出た。
「次郎吉と申すか。三十里余を四刻足らずで走りきったと聞いた。大事ないか」
「は、はっ。これまで鍛錬を重ねてまいった故、些か疲れてはおりますが、大丈夫でございます」
「儂の国は下総関宿。だから道程は良く存じておる。大変な山坂もあり、極めて長丁場だ。良く走った。褒めて遣わす。これぞ文字通りの馳走と申すべきもの」
「恐れながら申し上げます。私はここにいる若女将おりんを好いております。おりんのため走りぬきました」
「ふむ。おりんは稀に見る美貌。お主は走りの達人。その方らは恋仲とみゆる。婚礼の暁には儂が仲立ちをしようぞ」
「は、はっ。有難き幸せ」
(つづく)
韋駄天次郎吉の続編。下町に住む人々の人情と意地。おりんと次郎吉の恋模様に決着はつくのか?更なる続編を書く予定です。