ヒトと精霊と
わたしの声、聞こえないの。
それが、フアナがウィリアムに語った、自分の口で話さない理由だった。当然ウィリアムには意味がわからなかった、何せ彼にはきちんと彼女の声が聞こえていたのだから。
だが違うのだと彼女は言った。昨夜のあなたには聞こえなかったはずだと。そして先ほどまでここに居た娘にも聞こえていなかったはずだと。
「それって、どういう…」
「声を、奪われてしまったの」
「声を、奪う?」
「わたしの、ご先祖さま」
200年前、1人の旅の楽士がいた。彼は笛も竪琴も取ったが、何より歌を愛した。その歌声はヒトの心を慰め、癒し、励ましたと言う。彼は ”奇跡の楽士” と謳われていた。彼の楽を聞いた者たちが、次々とその望みを叶えていったからだ。彼は楽士ではあったが魔法使いではなかった。つまりそれは彼が何かの魔法を使ったとかそういうことではなく、彼の楽に活力を得た者たちが本来の力を発揮したに他ならなかった。彼は皆にそう説明して回り、己には過ぎた呼び名で呼ぶのはどうかやめてほしいと言ったが、皆は ”その楽が勇気になったのは事実だ” と言って引き下がらなかった。
ある時、ある街の郊外で楽士は1人の女に行き会った。ひどく頼りなげな様子で木陰に座り込んでいた女に楽士は声を掛けた。女1人がこのようにひと気の無い所で何をしている、何か悲しいことがあったのなら訳を聞いてやるからとかくお立ちなさい、と。女はそれには答えず楽士に問うた、あなたが奇跡の楽士か、と。楽士が答える間も無く、女は続けざまに楽士にその歌を乞うた。楽士が怪訝に思ったのは一瞬で、ああこの女は語れぬほどにつらく苦しいことが有ったのだな、私の歌がこの女の癒しになるのなら喜んで、と優しい歌を歌った。その歌が終わると女は手を叩いて喜んだ。それを楽士も嬉しく思っていると、女はぽそりと何事か呟いた。よく聞き取れなかった楽士がもう一度と言う前に、女は声の色を変えぬままはっきりと言った。妬ましい、と。その呪いの言葉と共に女の姿は立ち消えてしまった。楽士は覚えた怖気を振り払おうと、とびきり明るく楽しい歌を歌いながら街に向かって再び歩き出した。
幾ばくもしない内に楽士は異変を覚えた。道行く人々が奇異な眼差しで己を見るのだ。それが歌を歌う楽士に対する好奇の視線で無いと気づくのに時間は掛からなかった。楽士を見てひそひそと言葉を交わす者達の言葉が楽士の耳にも届いたのだ。
「なんだ? 口ばっかりパクパク動かして気味の悪い」
「よせ、声を失くした楽士が歌を恋しがってんだろうよ」
誰かのその言葉をきっかけに奇異な眼差しは同情の眼差しに変わった。楽士の耳には、楽士の声が聞こえているのにどういうことなのか。楽士は唐突に理解した、あの女の仕業だと。楽士は弾かれたように来た道を引き返し、女が立ち消えた場所まで来るとあらん限りの声で叫んだ。私の声を返してくれ、と。その声に答えたのは先の女の声ではなく、重く深い、若さを失くした男の声だった。影も形も無いその声が精霊のものであると楽士は察し、また声の主もそれを肯定した。
その精霊は、楽士の声を奪ったのは音の精霊クアンであると言った。そしてある条件を満たせば、その声はヒトの耳にも届くとも。しかしその条件は楽士ではなく、聞くヒトが満たさなくてはならない条件だった。
フアナはそこまで語ると息を吐いて、コップを呷った。
「疲れたか?」
「ううん、平気」
本当は平気ではなかった。長く語ることに慣れない喉は痛み出していた。しかしフアナは語り続ける。
「条件は、聞きたいって思うこと」
「聞きたい?」
「そう。奇跡の楽士の歌声じゃなくて、楽士そのヒトの声を、楽士そのヒトだから聞きたいって、そう心から強く望むこと。それが、楽士の声を聞く条件」
「………え」
声を聞きたいと、強く望む。それはつまり、日常の雑多なやり取りを便利にするためだとか、ましてや奇跡を望むためだとかでは、決して楽士の声は聞こえないということ。楽士という存在に心から向き合いたいと望んだものだけがその声を聞くことが出来ると、そういうこと。
ウィリアムは自分の頬が熱くなっていくのを自覚した。何故ならそれはつまり。
「ええ……っと、あー…、フアナ…さん?」
「なに、ウィル?」
今度はちゃんと呼ばれた己の愛称になんとなく感動した。
「ウィル?」
「ああ、いやえっと…、」
フアナが首を傾げるのを見て、それどころでなかったことを思い出す。
「その、楽士っていうのがさ、フアナのご先祖…なんだよな?」
「うん、そう」
ということは、つまり。
「フアナの声が聞こえない、ていうのは…」
「楽士と、おんなじ理由。わたしの声を聞きたいって、心から望んでくれるヒトじゃないと、わたしの声は聞こえない」
「……っ!!」
がんっ!!!
ウィリアムはテーブルに突っ伏した。その派手な音にフアナは肩を跳ね上げ、その衝撃で倒れて落ちそうになるコップをミトの尻尾が器用に受け止めた。
「あの…ウィル?だい、じょうぶ?」
「あー…うん、ちょっと…待って」
「う、うん」
死にそうなほどに恥ずかしいというのは本当にあるのだと、ウィリアムは今身を以って実感していた。
頭を抱え出したウィリアムをいよいよ心配するフアナにコップを預け、ミトはウィリアムの頭を尻尾でつつく。そろそろと頭を上げたウィリアムと目が合うとミトは、
「ふっ」
「ミトてめぇええええ!!」
鼻で嗤った。
掴み掛からんとするウィリアムと、その手からひらひらと逃れるミトのじゃれ合うような姿をぼうっと眺めていたフアナが不意にくすくすと笑い出す。
「やっぱり、仲良し」
「っフアナぁ」
その声と笑顔の楽しそうなことに一瞬喉を詰まらせたが、すぐに情けない声でフアナに訂正を求める。しかしフアナはやはり、くすくすと笑うばかり。ウィリアムももう、諦めて苦笑するしかなかった。
「ところで、さあ」
フアナの笑いが収まったのを見計らって、ウィリアムは話の途中で浮かんだ疑問を投げる。
「もしかして話に出てきた音のじゃない方の精霊ってさ…、」
「ああ、それはわしじゃの」
「…やっぱ精霊なんじゃねえかよ」
「なんじゃ、わしが精霊じゃと何ぞ不満か?」
「さっきはずいぶん回りくどい言い方してたじゃねえか」
「ああ、まあわしにも思うところがあっての」
ぷいっと顔を背けたミトの喉を、フアナが指を伸ばして擽る。ごろごろと喉を鳴らすミトに代わって、フアナは怪訝な顔をするウィリアムに説明する。
「精霊族にとってヒトっていうのは、下等な種族。関わるのは時間の無駄で、とても愚かなこと」
「ミトがオレを心底ばかにしてるってのはわかる」
「ううん、そうじゃなくて。精霊族は、本来ならヒトなんか相手にしない。何をして、何を喋ろうと、自分たちの邪魔にならなければ無関心」
「無関心?」
ウィリアムは機嫌良さそうにフアナの指に擦りつくミトに目をやる。見る限りミトはフアナをとても好いているし、自分を小ばかにしたりなんだりと、とても無関心には見えないし、どころかそのやり取りを楽しんでいるようにさえ思える。
「お前、ヒトが好きなのか?」
「おお、お主のようなばかは好きじゃぞ」
ミトの答えに、ウィリアムはかちんと来た。しかしそんなことを気にも留めずミトは続ける。
「己が愛しく、私利私欲のためならばどんな酷いことも厭わない。ヒトとは本来そういうものじゃ。じゃがいつの世にも例外は在っての。見知らぬ誰かであってもその者が困っていると見るや、自分の何を捨て置いても手を差し伸べずにはおれん者が必ず在る。わしが愛しゅうてならんのは、そういうばかじゃよ」
「へー、そんなばか、そうは居ないと思うけどね」
「…そうじゃな。ばかな者は得てして己をばかとは思っとらんものじゃからの」
軽く流すように言ってのけるばかを見上げてミトが優しく微笑んだことに、ウィリアムは気がつかなかった。
「ん? じゃあミトってもしかして、精霊の中じゃ変わりモン?」
「まあそうじゃの。お陰で苦労したもんじゃ」
「苦労って?」
「棲家を追われたり、実体化しとる時にうっかり殺されかけたり、まあ色々じゃな。いやあ、真名を知られた時は流石にこれまでかと思ったわ」
「ま、まな?」
「精霊族が個々に持つ真の名じゃ。これをヒトに知られるということは、存在の全てを握られるということに等しい」
「存在を、握られる?」
「生かすも殺すもそ奴しだいということじゃ。まあわしほどの精霊を並みのヒトがどうこうしようなどと、片腹痛い話じゃがな」
「今思いっきり、これまでかと思ったとか言ってたじゃねえか」
「何か言ったかの」
「いや別に? ああ、もう1個良いか?」
きろりと睨み付けるミトを受け流し、ウィリアムはフアナに向き直った。
「声を奪われたのはフアナの先祖の楽士だろ? なんでフアナの声まで、楽士みたいになってるんだ?」
「お主、良くもそんなことをそう軽く…」
「え?」
呆れ返ったミトの背中をフアナはゆるりと撫でた。
「クアンが干渉できるのは音だけで、音の発生源の方じゃないの」
「ごめん、さっぱり」
「クアンというのは、頭が悪くて大雑把な性格での」
「は?」
フアナの説明を聞いて、無理だと判断したミトが言葉を継ぐ。
「例えば、ギターとリュートの違いがわからなかったり、或いはヴァイオリンとチェロの違いがわからなかったりするのじゃ。お主とて、ヴァイオリンとヴィオラの違いはわからなくても、チェロとなら違いがわかるじゃろう」
「チェロって確か…、あのでっかい、地面に立てて弾くヴァイオリンに似たやつだっけか?」
「そう、お主でもその程度の理解はしておる。じゃがクアンは形が似ていれば全て同じだと思っとる」
「うん、ついでのようなお手軽さでオレのことばかにすんな? …あれ?てことは、」
「あれが人間を、その姿で個を判断しておったら全ての人間が同じ存在じゃったろうな」
「…姿じゃなかったら、何で判断してるんだよ?」
「魂じゃよ、精霊族には魂が見えるからの。精霊族には人間と獣人の違いはわかっても、人間と人間、獣人と獣人の区別がつかない者がほとんどじゃ。じゃから精霊族はその魂の形でその存在を区別しておる。そして魂は全ての存在が形を異にしておるが、血縁の中では似るものが多いのじゃ」
「じゃあその精霊は、楽士の魂と似た形のやつ全員の声を奪ったってことか?」
「まあ近いの。奪うのではなく、聞こえなくしたのじゃ。あ奴のことじゃからどうせ、”こんな形の魂の声は聞こえなくなってしまえ”といった具合に適当に呪ったのじゃろう」
「んな勝手なっ!?」
「勝手を嘆くでないぞ、ヒトの仔よ。お主らとてそこいらの木を伐ったり岩を砕いたりして己のために使っておろう」
「………オレらは精霊からすりゃ、木や岩と変わんねえってことか?」
「そういうことじゃ」
肯定されてしまった自分の認識に、不意に目の前の猫を象る精霊の存在が遠く感じたウィリアム。ヒトと精霊との認識の差、価値観の差、存在の差は途方も無く、埋めようの無いものに思われた。
そしてふと、フアナを見やる。彼女は、どうやらヒトの社会から外れたところでミトと共に生きてきたらしい。
ならフアナは、いったいどう認識して、どういう価値観を持つ存在なんだ。
自分の中に生まれた疑問に、ウィリアムはどうしうよもなく恐怖した。