最期の日
私の世界は「静寂」と共にあった。
春にはヤマザクラの慎まやかな淡紅。夏は仲間達が雄々しく主張する濃緑。
秋は紅葉の燃え立つような紅赤。冬は剛柔併せ持つ白銀の雪。
頃合いを見て山々の表情は移ろいゆくが、何の兆しもなく忍び寄り、そして立ち去っていく。
そんな世界で私は生を受け、仲間と共に成長を遂げた。
育ててくれた大地の恩に報いるために腰を下ろして、淡々とした時の中を生きるのだろう。
今までも、そしてこれからも…
その運命も「偶然」によって狂わされてしまう。
紅から白へと彩が変わりつつあったあの日、静けさを踏みにじる音に眠りが妨げられた。
足下からけたたましい不協和音が響きわたる。
共にせりあがってくる妙な昂ぶりが、私が置かれている状況がとても危険なものである事を伝えている。
しかし長年腰を据え続けてきたのが祟ってか、全く身動きが取れないでいた。
血の気が一気に薄れてゆく感覚だけが全身を駆け巡るがどうにもできない。
あ、これが大変だ…と思ったその時、ぷつっと意識が途切れ暗闇の中へと墜ちていった。
「よーし、このまま運んでいくぞ」という言葉が私の心に刻まれた。
天と地がひっくり返る感覚は、こういう事を指しているのかもしれない。
そんな事を考える余裕ができるぐらいの時間まで、私は普段考えられない格好で何かに揺らされている。
あの不協和音を境目にして私の世界は一変した。
頃合によって彩を変える山々は、今となっては忘却の彼方。
静寂の世界はすっかり遠のき、大量の音が雪崩のように押し寄せてくる。
聞くまいと念じていたが忍耐も途切れると、初めて聞いた不協和音と較べてもマシだと悟った。
つとめて冷静になろうとするが山にいた頃とは全く異なる感情が私を支配してゆく。
呼吸をして背を伸ばそうとしても伸びている感覚は戻ってこない。その違和感が私の中を駆け巡り、
それが1つの答えを導き出した。
そうか、私は人間に伐り殺されたんだと。
目眩を呼び起こすような光の波と、派手な音が満ちている世界に私は取り残された。
全身をきつく縛られる感覚は不快でしかない。大量の電飾はこの身に重くのしかかり、
電飾が放たれる華やかな明かりは人々を眩しい世界へと導いていく。
仲間達の姿は既になく、私よりも背の高い建物からの視線は妙なむず痒さを感じてしまう。
注目を集められる事は少しの高揚感を覚えるが、噴き出した黒い感情がそれをすぐに吞み込んだ。
人間の思惑で命を絶たれ、知らない所へと連れてこられ、
重々としたものを吊り下げられ、街行く人の見世物扱いにされている。
人通りの多さで自ずと解る事がある。行き着く先は廃棄への道しか残されていないのだろう。
人間に左右された私の生涯、ふつふつとした恨みだけが積みあがっていった。
最後の抵抗を試みるために重さに耐えながら、静かに気が満ちるのを待つ。
人混みが街角を埋め尽くし誰も動けない状況になった瞬間、
この身を折って雑踏に倒れ込み何人か道連れにしようと。
痛みを伴うが伐られた時の痛みに較べればかわいいものだ。
何度も聞かされた鐘の音に合わせて、流れる音楽も電飾の色も切り替わるだろう。
そのタイミングで倒れ込むのに心の準備を着々と進める。
あと1分…30秒…15秒と時は進み、そして一段と重々しい音が鳴り響いた。
観客からあがった声が街角を包む。
しかしそれは雰囲気を引き裂く悲鳴ではない。普段通りの歓声だった。
確かに数秒前までは殺意に満ち溢れていた。
そしてその瞬間、私を見上げている子供達の姿が目に止まる。
嬉しそうで無垢な瞳が私の心を打った。はっとして雑踏に目を凝らす。
二人連れも家族連れも友達同士も、建物の中にいる人までも表情が緩んでいる。
風に乗ってか子供の声が聞こえてくる。
「ここにきてくれてありがとう、もみのきさん」
純粋な言葉が黒い感情を洗い流し、それに変わって暖かなものが沁み込んでくる。
誰もが同じ思いを持っていると感じるのはおこがましい。
だが、たった一人でも私の悔しさをねぎらってくれる人がいるのなら、
私の最期の日も決して悪いものではないと思う事にしよう。