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道標(みちしるべ)

作者: 紅海

 ――世界は混沌に満ちていた。

   盗み、殺人、放火……あらゆる罪が、そこにはあった。

   世界は闇に包まれていた。

   人は闇から逃れようと罪を犯し、更なる闇へと堕ちていった。


       *  *  *


 闇の中。二人の人間が、対峙していた。一人は三十路(みそじ)ほどの男。立派に手入れされた刀を、中段に構えている。構えに隙は無く、かなりの使い手だということが分かる。しかし今は、じっと相手の様子を窺っていた。

 もう一人は、まだ十一、二歳程の少年。体格は小柄な方だろう。しかし顔つきには子供らしさがほとんど無く、無表情に近い。色素の薄い長めの髪は、首の後ろで一つに束ねてあった。少年の手に握られているのは、やはり良く手入れされた刀。男の物より少し短く細身だが、その刀身は氷のように鋭く、それが少年のまとう空気によく合っていた。そして少年もまた、相手の男をじっと、しかし様子を窺うというよりはむしろ、威圧するように見ている。

 二人は対峙したまま、そして睨み合ったまま動かなかった。しかし男の表情に比べ、少年のそれからはだいぶ余裕が感じられる。と、男の首に一筋の汗が流れた。男はこの少年に、気迫負けしていた。男に焦りが生まれる。自分はこの少年に勝てない――男はそう、直感していた。しかし、このまま引き下がるわけにもいかない。そんなことは自尊心が許さなかった。

(一か八か……)

 男の切っ先が、わずかに下がり。そしてそのまま少年に斬りかかる――はずだった。

 しかし。

 刹那、少年が動いた。そして次の瞬間には、男はその場から一歩も動くことが出来ないまま、切り伏せられていた。

 少年は表情を少しも崩さずに刃に付着した血を拭うと、刀を鞘に収める。自らも少々の返り血を浴びていたのだが、少年はさほど気にしていないようだった。そしてそのまま男に目もくれず、少年はこの路地を後にする。

 後に残されたのは、切り伏せられた男と、それを包む闇だけだった。


 翌日。夜の間闇に支配されていた町も、夜明けと共にその支配から抜け出していく。闇は町の一角にわずかに留まるのみとなり、町は光に包まれつつあった。

 そんな中、町の表通りから少し入った所にある食堂――といっても長屋の一角を改装したものだが――では、既に昨夜の出来事の噂で盛り上がっていた。

 一人の男が、近くにいた若い男に話し掛けた。

「よお、またアイツが一人()ったらしいな」

「アイツ? アイツって誰だよ?」

 相手の態度に、男は呆れたように肩をすくめた。

「何だ、お前知らねえのか? アイツ、霧刃(きりは)の奴だよ」

「霧刃……ああ、アイツか。『掃除屋』をやってるっていう……」

 それを聞いて、白ひげを蓄えた初老の男も会話に加わってきた。

「まだガキのくせに、恐ろしく強えんだ。この辺じゃ、アイツに敵う奴ぁいねえって話だぞ」

 さらに始めの男は、恐ろしそうに声を低くしていった。

「それだけじゃねえ。あの野郎、人間を殺っときながらまるっきり無表情でいやがる。アイツには血も涙もねえに違えねえ」

 その時、扉の開く音がした。食堂にいた人々の視線がそこに集まり、そして一瞬のざわめきの後、沈黙が降りた。

 そこには、一人の少年が立っていた。長屋の子供たちのような色柄の可愛らしい着物ではなく、全く染めていない木綿の着物に動きやすい袴。薄墨色の長い髪を後ろで束ね、腰には刀を帯びている。そしてその表情はやはり、子供らしさを感じさせない無表情。

 少年が店の奥に歩み始めると、次第にあちこちで呟き、囁き合う声が聞こえてくる。

「アイツだ」「霧刃が来た」

 少年――霧刃はそれらを気にする素振りも見せず、奥へ進んでいった。人々の好奇と恐れの入り混じった視線が、霧刃の背を追いかけていく。その視線を感じながらも、霧刃はやはり、無表情だった。

 店の一番奥、いつもの席に座ると、霧刃は簡単な食事を注文する。その間も、客や店員の視線は霧刃に集中していた。霧刃はそれが鬱陶しかったのか、気だるそうに彼らを見返す。霧刃自身としては軽く視線を動かしただけなのだが、それを受けた店内の人々は震え上がった。それ程に、霧刃の視線は鋭かったのだ。霧刃は、一転して怯えたように身を縮めている人々を一瞥すると、小さく吐き捨てるように呟いた。

「……くだらない」

 その呟きは誰にも聞き取られなかった。


 霧刃は食堂を出ると、真っ直ぐに自分の住家としている場所へ向かった。そこは町の中でも治安の悪い一角で、霧刃はそこにある小さな長屋に無断で住んでいた。

 ギギィ、と軋んだ音を立てる扉を開き、霧刃は中へ入って行く。その物音を聞いてか、奥から一人の少年が出て来て霧刃を出迎えた。

「霧。おかえり」

 そう言って笑顔を見せる少年。長い黒髪を高い位置で一つに結っていて、人なつこそうな雰囲気が感じられる。実際には霧刃と同い年くらいなのだろうが、大きな漆黒の瞳が、いっそう少年を幼く見せていた。

「……ただいま、弓月(ゆづき)

 少年の言葉にそう返して、霧刃は家の奥へと向かう。

 弓月と呼ばれたその少年は、本名を月代(つきしろ)と言う。「弓月」は、霧刃だけの呼び方だ。同じように、弓月だけが霧刃を「霧」と呼ぶ。

「昨夜も仕事、お疲れ様。ねえ霧、ご飯はもう食べたの?」

 弓月は、霧刃の後に付いて奥に向かいながら尋ねた。

「食べたけど、どうして?」

「うーん……今日は味噌汁が美味しく出来たから、霧にも食べてもらおうと思ったんだけど。でも、お腹いっぱいならいいや」

 そうは言うものの、弓月はやはり残念そうな顔をしている。そんなあからさまな顔をする弓月を見て、霧刃は笑みをこぼした。

「お腹いっぱいっていう訳でもないし……もらおうかな、弓月の自信作」

 それを聞いて、弓月はぱっと顔を輝かせる。

「本当!? なら、すぐに用意するね」

 そう言うが早いか、弓月は台所へぱたぱたと走っていった。霧刃はそれを見送って、くすっと笑う。

 霧刃がこのような笑顔――表情と言った方が正しいのだが――を見せるのは、弓月の前でだけだった。


 霧刃と弓月は、物心付いた時から一緒に育ってきた。と言うのも、霧刃も弓月も、三、四歳の頃、街角に捨てられていたからだ。理由はおそらく貧困だろうが、彼らには知る由も無かった。そして二人は出会い、それからずっと、協力し合って生きてきた。このような治安の悪い所では、彼らのような子供が一人で生きていくことは不可能だからだ。霧刃は自分以外には弓月しか信用していないし、それは弓月も同じだった。

 生き抜くために、二人は強くなろうとした。霧刃は剣術を、弓月は弓術を、それぞれ大人が顔負けする程の腕前にまで高めた。事実、この町で二人に敵う者はほとんどいない。そして現在、二人はその腕で「掃除屋」として稼いでいる。つまり、暗殺などの“裏”の仕事をしているのだ。実際に仕事をするのは主に霧刃で、弓月は主にその補助か仕事探しをしていた。


「はい、霧。僕の自信作」

 しばらくして、弓月が湯気を立てている味噌汁を持って来た。霧刃はそれを受け取り、一口飲む。そして顔を上げた霧刃は弓月の方を見て、微笑(わら)って言った。

「うん。おいしいよ、弓月」

 それを聞いて、弓月も満足そうに笑った。

 それは、殺伐とした日々の中の、僅かな安らぎ。霧刃も弓月も、こんな生活がずっと続くような気がしていた。


「ねえ、霧……」

 ある日の夕暮れ、弓月がいつもの笑顔を消し、霧刃に話し掛けた。その表情を見て、霧刃はすぐに何の話かを悟る。弓月は仕事の話をする時、いつも今のような、少し辛そうな顔をするのだ。

 元々弓月は心根が優しく、人を傷つけることを嫌う。「掃除」の仕事を主に霧刃が受け持っているのも、そういった理由からだ。

 霧刃は横になっていた体を起こし、弓月に向き直る。

「何だい、弓月? 次の仕事でも入った?」

 霧刃が尋ねると、弓月は首を振った。

「そうじゃないんだ。霧、仕事の方、しばらく休まない?」

「休む? ……どうして」

 霧刃は、急にこんなことを言い出した弓月を訝しく思った。そして、ここ数日の疲れからか、口調が少しきつくなる。それを感じ取ったのか、弓月は少しきまり悪そうに声を小さくして、言った。

「霧、今までたくさん『仕事』してきたでしょ? だから、いろんな人に恨まれてるんじゃないかって……」

「まあ、それはしょうがないね」

 霧刃はあっさりと肯定して話を終わりにしようとしたが、弓月は引き下がらなかった。

「でも僕、心配なんだよ。それで霧が危ない目に遭うんじゃないかって……」

 弓月の様子に霧刃は溜め息を一つ吐いた。無意識のうちにぞんざいな言い方になる。

「弓月は心配しすぎだよ。僕はそんなに弱くない。それくらい大丈夫さ。僕は仕事を続けるよ」

「でも、霧……」

「しつこいよ。嫌なら、僕だけでも続けるさ。君はやらなくていい」

 そう言われ、弓月は俯いて黙ってしまう。霧刃はそんな弓月に、今まで感じたことのない苛立ちを感じていた。そしてそのまま、何も言わずに外へ向かう。

「あ、霧? どこ、行くの……?」

 慌てたように弓月が追ってくるが、霧刃は振り向きもせずに

「仕事」

 それだけ吐き捨てるように言うと、そのまま家を出てしまった。


――なんで弓月はあんな態度を取るんだろう。何か僕に言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいじゃないか。それにあんな仕事(こと)をしてる以上、危険なんて最初から分かってるはずなのに……。

 歩きながらも、はっきりしない弓月の態度に苛立ちを感じていた霧刃。しかし先のやり取りを幾度も反芻するうちに、霧刃は自分の言った言葉、取った態度に気が付いた。

 弓月は明らかに霧刃を心配していただけだ。それに対して霧刃が取った行動は、それを踏みにじるものではなかったか。あまりにも無神経ではなかったか。

 そして思い出したのは、数日前の瓦版。霧刃たちと同じように「掃除屋」をしていた男が、以前の仕事で殺めた相手の仲間に報復された、という内容だった。それを見た時も、弓月はしきりに霧刃の心配をしていた。その場は霧刃の「大丈夫」という言葉で収まったと思っていたが、弓月の心配は消えていなかったのだろう。この数日弓月は一人考え続け、あの結論――仕事を休むこと――に至ったのかもしれない。

 そこまで考えて、霧刃は先ほどのことを激しく後悔していた。どうしてあんなことを言ってしまったのか、なぜあれほど苛立ったのか、霧刃は自分自身が分からなかった。


 それから数日が経っても、霧刃の後悔の思いは薄れることは無かった。無神経だった自分を責めるが、その後どうしていいか分からない。というのも、霧刃と弓月が喧嘩をしたのはこれが初めてで、二人ともお互い以外に友人や知り合いがいなかったからだ。謝ればいいということだけは分かるのだが、ただ悩んでいるうちに時間が経ってしまい、言い出す機会もつかめない。弓月と顔を合わせることすら気まずくて、自然と家にいる時間も短くなっている。

――疲れて苛々してて、だからつい、きついこと言ったなんて、言い訳にもならないよな……。

 散歩などにかこつけて外を歩きながら、霧刃はそんなことをずっと考えていた。あれ以来、仕事中にもそのことを考えてしまう。そのためか、いつものように集中できず、普段なら絶対にしないような――小さいとはいえ傷を負ったり、相手の動きを読み違えたりと、失敗ばかりしてしまっていた。

 それでも霧刃と弓月が会話らしい会話をすることはほとんどなく、霧刃の悩みを置き去りに、ただ時間だけが過ぎていた。


 そんな日が幾週か続いたある日。霧刃はその日、特に当ても無く街を歩いていた。

 朝早くに仕事に向かい、昼頃に一度戻ったのだが、家に弓月の姿は無かった。誰もいない家にいるのも何となく嫌だったので、霧刃も家を出た。

――弓月はたぶん、買い物にでも行ったんだろうな……。

 そう思う霧刃の足は、自然と商店の多く並ぶ表通りを避けていた。そして無意識に幾つもの角を曲がり、裏路地の奥の奥、誰も知らない、誰も来ないような場所に行き着いた。霧刃はそこに打ち捨ててあった、古いがまだしっかりしている、木の文机(ふづくえ)に腰掛ける。

――弓月は僕のこと、怒ってる……よな……。

 当然だ、と霧刃は思った。あんなにひどいことを言ったのだから。霧刃は膝を抱えて俯いた。考えれば考えるほど、弓月に会い辛くなっていく。

 そのまま、霧刃はそこから動かなかった。食事のことも仕事のことも頭に無い。ただ、自分がしてしまったことと、弓月のことだけを考えていた。

 会いたい。けど、会えない。

 謝りたい。けど、何て言っていいのか分からない。

 きっと『ごめん』の一言で済むことなのに、その一言が言えない。

 どうしていいか分からなくて、どうしようもなくて、でも、どうにかしたい。どうにかしなくちゃいけない。


――ねえ弓月、僕はどうすればいい?

 何度こうして呼び掛けたか分からない。しかしその度に、霧刃は激しい後悔と自己嫌悪に襲われるのだった。

 悲しい、辛い、苦しい。しかし、弓月はもっと悲しかったはずだ。そして今もきっと、辛い思いをしている。自分のせいで、苦しんでいる。そう考えると、今まで感じたことの無いような痛みが、霧刃の胸を締め付ける。

 ふと右腕に目を落とす。目に入ったのは、今朝の仕事で受けた傷。多少の出血があったが、今は、痛みはほぼない。体の傷は簡単に直り、痛みもなくなる。けれど、今感じている痛みは。数週間も前にできた傷なのに、ずっと変わらず、むしろ徐々に強くなっている。

 初めて感じた、胸の痛み。この痛みを、もしかしたらこれよりもっと深い痛みを、弓月も抱えているのだろうか。彼も今、独りで。

 霧刃は、ただ自分の愚かさを責めることしか出来なかった。


 辺りが闇に包まれても、そして闇が薄れても、霧刃はその場から動かない。他の全てから忘れられたように、この場所には人はおろか動物一匹やってこない。文机に腰かけたままで、霧刃は寝食も忘れただ思い悩んでいた。そして三度目の昼を迎えた頃、霧刃は不意に強い眠気に襲われる。この場所に辿り着いてからろくに眠っていなかったので、当然かもしれない。霧刃はそのまま、眠りに落ちていった。


 何もない場所。どこまでも広がっているような空間。

 そこには何もなく、ただ様々な色だけがある。桜色、鳩羽色(はとばいろ)、象牙色に青鈍(あおにび)、抹茶色、白藍(しらあい)などあらゆる色が絵の具のように混じり合っていて、だから霧刃は、ここが夢の中だと分かった。霧刃がぼんやりする頭で辺りを見渡していると、後ろから声をかけられる。

「こんにちは、霧刃」

 見ると、背の高い青年が立っていた。姿は影のようにぼやけていてよく分からないが、その声は妙に、まるで頭の中に直接響いているようにはっきりしている。

――誰だ?

 霧刃は声を出したつもりだったが、音は発せられていない。しかし相手には聞こえているらしく、青年は少し笑ったようだった。

「まあ、そんなことはどうだっていいだろう。ところで霧刃、君のタカラモノは何だい?」

 唐突にそう問われる。霧刃には、青年が何を言わんとしているのか分からなかった。

「『タカラモノ』っていうのは、人によって違う。まあ、当たり前だね。ある人にとってはお金かもしれないし、またある人にとってはちっぽけな石がそれだ。大切な物、大切な人、大切な場所。なんだっていい。

 霧刃、君のタカラモノは何かな?」

――タカラモノ……

 霧刃の口から出るのは、先程と同じ、声にならない声。青年の影は、軽く頷いたように見えた。

「そう。命ある者達は皆、タカラモノを探して生きているんだ。他の何にも代えられない、全てを賭けてでも手に入れたい、守りたい。たった一つの、自分だけのタカラモノを、ね」

 霧刃は何だか居た堪れなくなって、青年から視線を外した。そんな霧刃の様子を見て、青年は溜め息を一つ吐く。そして、小さな子供に言い聞かせるように続けた。

「霧刃。君はもう、それを持っているんだろう? 君自身も分かっているはずだ。そのことをしっかり受け止めないと、いつかそれをなくしてしまうよ」

 霧刃は尚も黙っている。霧刃には、もう青年の言おうとしていることが痛いほど分かっていた。しかし、彼が言う程簡単には受け止められない。そんな霧刃に、青年は諭すように言う。

「なくしてしまってからでは遅いんだ。さあ、霧刃」

 青年が言葉を切ったその一瞬、色の混じり合った世界に、一筋の淡い光が走った。その光に照らされ、青年の影に輪郭が宿り。

「君のタカラモノは、何だい?」

――僕の、タカラモノは……


 霧刃ははっと目を覚ました。辺りは既に暗くなりかけている。

――夢……。

 妙にはっきりした夢だった。

 影のような青年、そして『タカラモノ』。なぜ彼は、自分の名前を知っていたのか。なぜ自分のことを、あれ程までに知っていたのか。霧刃自身ですら気付いていない心の奥まで見透かしたように。そして、最後に一瞬だけ見えた彼の顔。見覚えがあるような気がしたのだが、どうしても思い出せない。

 分からないことだらけだったが、一つだけ、はっきりと分かったことがあった。それは。

「僕のタカラモノは、弓月だ」

 夢の中の青年に応えるように、自分の心を確かめるように、声に出してみる。少しだが心が軽くなったように感じた。

――タカラモノを失うのは、嫌だ。

 弓月に、謝りに行こう。

 霧刃はそう決心して、家へ向かって駆け出した。


 どうやって今いる場所へ来たのか覚えていなかったので、見覚えのある道に出るまで少し時間がかかった。刻々と過ぎていく時間をもどかしく感じながら、家への道を走る。そしてやっと家へ辿り着いた時には、すっかり辺りが暗くなっていた。

 家の中に弓月の姿を捜したが、家の中はやけに静まり返っていて、呼びかけても返事はない。居間の扉を開けると、食卓の上には刀が置かれていた。霧刃が普段、仕事で使っている刀。出かける前は、居間の隅の床に置いておいたはずなのだが。

――弓月が?

 おかしい、と霧刃は思う。弓月はいつも、「食事する所に武器なんか置かないで」と言っていたからだ。不審に感じながら刀に手を伸ばす。と、その下に紙があった。刀に伸ばした手で紙を取る。そこには弓月の小さな字で、こう記されていた。


『霧へ

 ごめんね、霧。仕事に行きます。仲直りできなくて残念だけど、もう無理かもしれない。今日の仕事、罠だったんだ。だから、霧の代わりに僕が行く。

 本当に、ごめんね。今までありがとう。さよなら。

                                   弓月』


 読んでいるのに、意味が頭に入ってこない。視線は、文字の上を何度も行き来している。

 霧刃は一度天井を仰ぎ、息を吐いた。少し、気持ちが落ち着く。再度手紙に視線を戻し、一つずつ、言葉を辿った。

 仕事。

――そういえば、今夜一つ入ってたっけ。すっかり忘れてたけど……

 罠。

――確か、暗殺の依頼だったな。それが、罠?

 どういうことなのか。それよりも。

――『さよなら』? 弓月、一体何を……?

 まさか。


 霧刃は刀を掴むと、家を飛び出した。

――罠。

 今夜の仕事、指定されていた場所に急ぐ。

――自分の代わりに。

 指定場所は、町外れの、人目につかない路地。

――弓月の弓が、なかった。

 指定時間はとうに過ぎている。

――本当になくす前に。

 走って、走って。

 やっとその場所に辿り着いた、霧刃の目に入ったのは。




 霧刃が路地裏に辿り着いた日、弓月は気を紛らわせるために街へ買い物に行っていた。また霧刃のために何か美味しい物でも作って、それが霧刃と話をするきっかけになれば、と思ったのだ。

 弓月自身も、最近の霧刃の不調の原因が、あの喧嘩にあることは分かっていた。霧刃に何か言葉をかけたい、何か言わなければ、と何度も思う。しかしその度に、気まずさと、また霧刃を怒らせてしまうのではという怖さとで、何も言えないままだった。

 何を作ろうか考えながら商店街を歩いていると、ふと路地の奥の方にいる数人の男が目に留まった。男達は周囲を警戒しながら、こそこそと話し合っている。男達の風体や表情を見るに、穏やかではない話をしているようだ。

(あの奥のお店に行きたかったんだけど、今は近寄らない方が良さそう)

 弓月は違う店へ向かおうと、男達に背を向ける。が、その時、男達の会話が微かに聞こえてきた。

(ん?)

 会話の中に「霧刃」という言葉を聞き取った弓月は、思わず聞き耳を立てた。その後も何度か霧刃の名前が出ており、どうやら聞き間違いではないらしい。察するに、霧刃にとってあまり良い話ではなさそうだ。先日の瓦版の件もある。弓月は近くにある八百屋の軒先で野菜を選ぶ振りをしつつ、会話をしばらく盗み聞いてみることにした。

「それで、計画の方は順調なのだろうな。今回は失敗した、では済まされんのだぞ」

 苦々しげに口を開いたのは、五十半ばほどの初老の男。その場にいる男達の親玉といったところだろうか。他には、二十から三十代くらいの男が四人。ちらりと盗み見た限り、初老の男以外はお世辞にも立派とは言えない身なりだ。しかしそれぞれ刀を帯びているところから、恐らく浪人か、あるいはならず者の類だろう。

 若い男の一人が、初老の男に応える。

「ええ、準備は完了しております。あとは実行の日を待つばかり」

「実行の日、確か三日後でしたね。その日を過ぎれば、もうあの霧刃とかいう奴のようなガキが幅を利かせることも無くなる訳ですね」

「ああ、あのガキ、ちょっと腕が立つからって偉そうにしやがって。この間なんて、道で擦れ違った時俺のこと思いっきり睨んで行きやがったんだ」

 若い男達が、霧刃を悪く言っている。計画というのはやはり、霧刃に何か害をなすものらしい。もっとも普段の霧刃の腕なら、この男達全員に襲われたところで傷一つ負うことはないだろう。しかし、今の霧刃ではどうか。他に仲間がいる可能性もある。数が多ければ、万が一ということもあるかもしれない。

(でも、どこで何をされるかさえ分かっていれば……。計画って何をする気なのか、確認しておかなくちゃ)

 と、今まで黙っていたもう一人の男が、心配そうな声を上げる。

「しかし……本当にあの計画で大丈夫なんでしょうか? あの霧刃という奴、かなり腕が立つようです。不意打ちで、しかも多勢に無勢とはいえ、あの霧刃がおとなしく殺されるとは思えません」

 それを聞いて、弓月の鼓動が高くなった。

(霧を、殺す……?)

 予想していたはずなのに、重く響く言葉。速くなる鼓動。

 初老の男が再び口を開いた。

「心配は無用だ。いくら奴といえども、依頼主である儂にやられるとは思ってはおらんだろうさ。その隙を突くのだ。必ず上手くいく」

 その言葉を聞いて、弓月は思い出した。

(あの人、この前仕事の依頼に来た人だ!)

 霧刃が請け負った仕事。ある男を始末してほしいという、内容としてはよくあるものだった。しかし思い返してみれば、今そこにいる若い男の一人。その男は、初老の男が始末してほしいと言っていた対象の人物ではないか。

 男達はまだ話を続けているが、ほとんど弓月の耳には入っていなかった。代わりに心臓の音が、耳の奥に響いてくる。掌に汗がにじむ。うるさいくらいに響く鼓動。うまく考えられない。

 霧刃を殺す。男達。依頼主。罠。

「……それでは、計画通りに」

 二番目の若い男の声で、弓月は我に返った。見ると、男達がそれぞれに分かれ、立ち去って行く。

(とにかく、霧に知らせなくちゃ!)

 弓月は家に向かって駆け出した。

 商店街から家までは、歩いて四半刻。走ればその半分で着く。息を切らせて家に着いた弓月は、霧刃の姿を捜した。しかしどこかへ出かけているのか、見当たらない。仕方なく、弓月は帰りを待つことにした。その間に、請け負った仕事の覚書を探す。

「あった!」

 初老の男から受けた仕事。やはりあの男達の中の一人が、始末の対象だった。依頼内容は、指定する日時に指定した場所へ行き、対象を始末すること。男達は初めから、霧刃を罠にはめようとしていたのだ。

(指定された日は三日後の夜。その日になったら、霧は仕事に行っちゃう。それまでに伝えなくちゃ!)

 しかし弓月の思いも虚しく、その日、霧刃が家に戻ることは無かった。


 弓月はそれから三日間ずっと、家で霧刃を待ち続けていた。しかし、仕事当日、夕刻を過ぎても霧刃は戻って来ない。居間に置かれた刀も同じく主人の帰りを待っているようだが、一向に帰ってくる気配はなかった。

 指定の時間まで、あと一刻ほど。

(霧の刀はここにある。だから霧は仕事の前、必ず一回はここに戻って来る。もう仕事場所に行ってるってことは無い……)

 弓月は決心した。そして筆を執り、霧刃に宛てて手紙を書く。

(霧は絶対、この手紙を見てくれる)

 弓月は書き終えた手紙と霧刃の刀を卓上に置くと、愛用の弓と矢を手に、急ぎ足で家を出て行った。


 指定された場所、路地裏へ続く道。依頼主の男は、路地の入口で霧刃を待っているようだ。弓月はその周囲を注意深く確認する。すると思った通り、対象の男とその仲間達が、数か所で待ち伏せをしていた。その数、およそ十数人。

(奇襲、しかないな)

 霧刃や男達の持つ刀とは違い、弓月の使う弓矢は遠距離攻撃を主とする武器だ。当然、相手との距離が遠い程有利となるが、弓の射程にも限りがある。護身用の短刀も持ってはいるが、扱いにはあまり慣れいていない。一対多数なら間違いなく不利になる。だから、なるべく遠くから、敵に気付かれる前に、少しでも数を減らす。それが、弓月の作戦だった。

 矢筒から三本の矢を取り、一本ずつつがえて、放つ。遠くで男が一人二人と、悲鳴を上げる間もなく、倒れる。三本目を放った時、相手もこちらに気付いたようだ。声を上げる。

「おい、あそこだ!」

 その声で、残り十人近い数の男達が、一斉に弓月の方へ向き直る。

「矢、ということは月代か。霧刃も近くにいるかもしれん、探せ!」

「あいつの弓を封じろ、距離を詰めるんだ」

 相手も弓使いへの対抗法は分かっている。ここからは、いかに相手より速く動けるかが勝負だ。小さく、軽く改良した、愛用の弓。連射の速さは誰にも負けない自信がある。しかし、相手が多い。相手に気付かれた今となっては狙いをつける間もないから、矢一本で仕留めることも難しい。良くて一人仕留めるのに三本。用意できた数の矢で、あとどれだけ倒せるか。

「何とか近付け!」

 叫ぶのは、依頼主の男。仲間の男達は、落ちていた板や布切れ等で矢を防ぎながら、徐々に弓月との距離を詰めてくる。

「霧刃はいない、一人だ!」

「油断するな、後ろもふさげ!」

 そして、四人目を仕留めたところで。

 矢が、尽きた。


 その後は、もう必死だった。短刀を構えるが、相手の獲物との長さが圧倒的に違う。まして扱いなれない弓月と、慣れている男達。瞬く間に囲まれてしまった。

(ここまでか……)

 幾度となく繰り出される斬撃。そのいくつかを短刀で打ち払うのがやっとで、致命傷になるような傷こそないが、腕も足も、体のあちこちから出血している。

(ごめん、霧……)

 せめて、刺し違えてでも、相手の数を減らす。そう覚悟して、短刀を握り直した、その時。

「弓月!」

 声が。




 やっとその場所に辿り着いた霧刃の目に入ったのは、路地の家壁にもたれて苦しそうに息をしている弓月、そして、その周りを取り囲んでいる六人の男達だった。

 弓月は男達を睨み付け、短刀を構えてはいるが、かなりひどい傷を負っている。愛用の弓は右肩にかけているだけで、矢筒も空だ。対して男達は刀を持っており、幾つか矢傷を負ってはいるが、弓月に比べれば軽傷だった。男達の後ろの方には、弓月が仕留めたらしい男も複数。横たわって動かない者もいれば、傷を負ってうずくまっている者もいる。弓で奇襲をかけたが、相手が多すぎたのだろう。達人級の腕前を持っていようと、狭く入り組んだ路地で、弓使い一人では不利だ。

「弓月!!」

 霧刃は叫んで、弓月に駆け寄ろうとする。しかしその声で、男達も霧刃に気付いた。すぐに道を阻まれてしまう。

「ちっ、来やがったか。もう少しでコイツを片付けられたってのによ」

「まあいいじゃねえか、元々こっちが本命なんだから」

「霧刃は月代より手強い。気を抜くなよ」

 男達のうち五人が、霧刃の方に向き直った。弓月に対しては、初老の男だけが刀を突きつけている。手負いの弓月を牽制する程度、一人で充分だということだろう。

 霧刃は六人を睨みつけた。そのうちの一人、弓月に相対している初老の男は、霧刃にこの仕事を依頼した張本人。そしてもう一人、自分に刀を向けている五人の真ん中にいる若い男は、初老の男が始末してほしいと言っていた男だ。

 それを見て取った霧刃は、「罠」の意味を理解した。この男達は、一芝居打って霧刃を騙し、殺すつもりだったのだろう。依頼主として霧刃を案内し、敵と挟み撃ちにでもするつもりだったのか。

 霧刃の内に、怒りが込み上げてくる。男達に対する怒りはもちろんだが、自分に対しても、どうしようもない程の憤りを感じていた。

「まあいいさ。二人仲良く始末してやる!」

 そう言って男達が身構えるよりも早く、霧刃は刀を抜き放つ。一閃、そして風を斬る音。打ち合うことすらなく瞬く間に五人を切り伏せると、弓月に刀を突きつけていた初老の男を睨み付ける。

「ちぃっ、やはり少な過ぎたか」

 男は舌打ちをした。弓月に仕留められた男達を含めて、総数は十数人。霧刃一人を相手にするには十分なはずの数だった。しかし弓月の働きによってその数は半数にまで減らされ、残るは自分と手負いの数人のみ。自分の腕、そしてこの人数では、霧刃には敵わない。だが、霧刃との間には、まだだいぶ距離がある。

「お前だけでも始末してやる!」

 男は叫ぶと、弓月を、霧刃の方へ突き飛ばした。体の小さい弓月はよろけてバランスを崩す。その隙に間合いを取って、弓月に斬りかかる。刀を振りかぶり、右足で踏み込み――そこまでだった。男の刀が振り下ろされる前に、霧刃の刀が、男を逆袈裟に斬り裂いていた。

「ば、かな……」

 絞るような声でそれだけ言うと、男はその場に倒れる。振り上げられたままだった刀も、耳障りな金属音と共に地に落ちた。霧刃はそれを見届けることもせず、今度は手負いの男達に視線を向ける。

「ひっ……」

 彼等は息を呑む様な悲鳴を上げると、皆脱兎のように走り去っていった。普段の霧刃なら口封じのため、追ってでも止めを刺すところだが。

「弓月!」

 男達には構わず、弓月の傍に駆け寄る。傷は深かったが、命に別状は無いようだ。それを確認して、霧刃は少し安堵した。

「来て、くれたんだね。霧……」

 弓月はそう言って、弱々しく笑う。その顔を見て、霧刃は胸が熱くなるのを感じた。同時に、目から涙が溢れる。

「霧……?」

 弓月でさえ初めて見る、霧刃の涙。霧刃は慌てて顔を隠すように下を向き、手の甲で涙を拭った。俯いたまま、搾り出すような声で言う。

「良かった……弓月が、生きてて」

「霧……」

 しばらくの間、二人とも無言だった。

「帰ろう」

 霧刃はそう言うと、弓月に肩を貸す。弓月も頷き、二人は路地を後にした。


 家に着くとすぐ、霧刃は薬や包帯を出し、弓月の傷の手当てをした。ほとんど言葉はなく、ただ黙々と、作業を行う。最後に残った腕の傷に包帯を巻き終えた時、やっと霧刃が口を開いた。

「……ごめん、弓月」

 そう言われた弓月の方は、一瞬きょとんとした顔をする。しかしすぐに思い当たったようで、

「ううん、霧が悪いんじゃない。僕だって、霧を捜しに行けば良かったのに」

 弓月もまた俯いて、そしてすこし小さな声で続けた。

「……霧に会うのが、怖かったんだ。何て言っていいか分からなかったし、何より、霧に嫌われるのが怖かった。家の中で悩んでることしか出来なかった。

 僕の方こそ、ごめんね、霧」

 その声は少し泣きそうで、そして申し訳無さと後悔が伝わってくる。霧刃は何だか、ほっとしたようなおかしいような、そして、また泣きたいような、変な気分になった。二人とも同じ様に悩んで、同じ様に自分を責めて、相手に思いを伝えられないでいたのだ。

――弓月も、同じだったんだ。

 そう思った時、ここ何日か抱え込んでいた重い気持ちが、すっと軽くなったように感じた。

「こんなに簡単なこと、だったんだ」

 霧刃は胸のつかえが取れたように笑って言った。それにつられて、弓月も笑う。こうして二人で笑い合うのは、いつぶりだっただろう。随分長いこと、自分も弓月も笑っていなかった気がする。

「良かった、また霧とこうやって話せて。最強コンビ復活、だね」

 弓月は悪戯っぽく言った。そんな弓月を見て、霧刃は夢の中の言葉を思い出す。他の何にも代えられない、全てを賭けてでも手に入れたい、守りたい。たった一つの、自分だけの『タカラモノ』。胸に、温かいものが込み上げてくる。自然と顔がほころぶ。

「やっぱり、僕の『タカラモノ』は弓月なんだな……」

 小さな呟き。微かに聞こえたのか、弓月が不思議そうな顔をする。

「え、何か言った? 霧」

「いや、何でもないよ」

「ふうん?」

 弓月はまだ少し不思議そうだったが、ふと思い付いたように話題を変えた。

「『仕事』してる時の霧もカッコいいけど、やっぱり僕はいつもの霧の方が好きだな。笑ったり、怒ったりしてる霧の方が」

 そう言って微笑う弓月。その笑顔を見て、霧刃は思う。

――それは弓月がいるからだよ。

 君がいるから、僕は笑える。君がいるから、僕は僕でいられるんだ。そう、噛みしめるように、自分の心に刻み込むように。

「感謝してるよ、弓月」

 霧刃はまた、小さく呟いた。そして、弓月に明るい声で言う。

「ねえ弓月、仕事をしばらく休んで、どこか旅行にでも行こうか?」


――君は僕のタカラモノだよ。


       *  *  *


 ――世界は混沌に満ちていた。

   盗み、放火、殺人……あらゆる罪が、そこにはあった。

   世界は闇に包まれていた。

   人は闇から逃れようと罪を犯し、更なる闇へと堕ちていった。

   その闇の中でも、人は光に焦がれ、それを求め続けた。

   永久(とわ)の闇に暮らす人の、たった一つの道標(タカラモノ)を――。

(どこに入れるか迷った挙句後書きに突っ込んでみる挿絵)


挿絵(By みてみん)

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