第十四話 準備
既に夜は明けた。
太陽は既に半分ほど顔を見せており、祭りが終わって静寂とした街の中にも人がちらほらと現れ、馬車も少しずつ走っている。だが、こんなにも早い時間に精を出すのは商人が多いだろう。開店準備に勤しむ者や荷物を運ぶ者。それぞれが一生懸命になりながら働いている。
そんな中、街中を歩くナダは異質であった。
皆の注目を浴びていた。
それもそのはず。まずは恰好がおかしい。今は冬で寒いというのに、ナダは上半身が裸のままでズボンしかはいていない。そんな状態で道の真ん中をポケットに手を入れながら堂々と歩くのだ。
だが、そんなナダであっても声をかけるものはいない。いなかった。
まず体の大きさが一般人とは違い、上半身には無数の傷がついている。あらゆるところに様々な傷が。切り傷。火傷、または円形の傷跡が爛れた痕まで。堅気の人とは思えなかった。
冒険者とは華やかな職業であり憧れる者も多いが、市井の者にとっては武力を持った恐ろしい存在である。それは有名な迷宮がある王都に住む民でも違いはなかった。
だから誰もナダに話しかけない。奇妙な姿をしていても、まるでいない人物かのように扱っていた。
そんな中、ナダは走ることはなかったが、足並みは少しずつ速くなっている。寒いからではない。不思議な事に服をほとんど来ていないのにも関わらず寒くないのだ。
左胸が熱を放っているからだろうか?
痛みはまだない。ないが、確かにそこにはしこりがあり、熱い血液を全身に送っている。そのおかげか薄着であってもナダは熱いとさえ思うようになった。まるで体自体が発熱しているかのような。
それでいて、頭は冴えていた。体も十二分に動く。
向かう先は一つ――ニレナの実家だった。
ナダは少し前に馬車で中に入った大きな屋敷についた。道は覚えていた。そもそもヴィオレッタ家は王都の中でも有名だ。王城の次に大きな屋敷として名前が挙がる一つだろう。
大通りで分かりやすい先にあった。
ニレナの家の門は開いていない。
そもそも防犯のために開いている筈がないのだ。
ナダは親しい先輩の家であるが、勝手に入るほど恥知らずではない。
まずは門についてあったベルを鳴らすことにする。
甲高い音がむなしく響いた。
誰も現れる様子はなかったが、暫く待つと奥から一人の老執事が出てきた。ニレナの屋敷に滞在しているときに見た顔だ。
「どちら様でしょうか?」
肩眼鏡をつけた白髪の執事は朝早く現れた無礼者であるナダに対しても最初に会った時と変わらない礼儀正しい態度であった。
「ナダだよ。この顔に見覚えはないか?」
ナダは不躾な態度で言った。
「あなた様は……ニレナ様の……どうしてこんな時間に、そもそもその恰好はどうなされたのですか……?」
老執事は門の向こう側で驚きのあまり目を見開いたまましっかりとナダを見た。
だが、老執事の記憶にあるナダの姿はタキシードを着こなしたいい冒険者だったのだが、今の姿はみすぼらしい浮浪者にしか見えない。
「ちょっと野暮用でな。着替えも持たずに出かけたんだ。通してくれよ。いいだろう?」
「ええ。構いませんが――」
老執事は門を開けた。
「助かる――」
ナダはそれからニレナの屋敷の敷地内を老執事と一緒に歩く。
だが、老執事はナダの三歩前を歩きながらもちらちらと何度も振り返る。やはり不思議に思っているのだろう。昨日はニレナと一緒に宝玉祭へと出かけたはずなのに帰ってきたのはニレナ一人で、ナダはこんなにも朝が早い時間に帰ってきた。
疑問に思うのも無理はなかった。
「――ああ、そうだ。執事さん。ちょっと頼みがあるんだが、いいか?」
ナダは無邪気に笑いながらもどこか剣呑な雰囲気があった。
有無を言わせないような態度。
「……なんでしょうか?」
「ニレナさんと会わしてくれ――」
「……ご存じだとは思いますが、ニレナ様は就寝中です。それまで待っていただいても宜しいでしょうか?」
老執事は立ち止まって毅然とした態度で告げた。
例え冒険者として目つきが鋭いナダであってもおびえる様子はなく、その姿は長年の貴族に使えている執事としては素晴らしい行動だろう。
ナダはその忠誠心に敬意を覚えるが、今度は強い口調で言った。
「いいから、今すぐニレナさんと会わしてくれ――」
「ナダ様、あなた様がニレナ様から招待された事は知っております。ですけれども、女性の、それも貴族の女性の睡眠は邪魔するものではないと私は思っておりますが――」
「ああ。それは俺も分かっている。だけどな、俺は貴族としてのニレナさんに会いたいんじゃないんだよ。冒険者としてのニレナさんに会いたいんだ。無礼なのは知っている。だが、時間がねえんだ。すぐに通せ――」
今のナダをまるで獣のようだと老執事は思った。
ナダは、嗤っているのだ。
ニレナは大貴族であるヴィオレッタ家のご息女であり、そもそもが平民とは関わりの持てないような天高い地位に属する方だということを知っていて、こんな無茶なお願いをしているのに、一切引く気はないような態度だった。
今にも噛みつかれそうな空気に、老執事は冷や汗をかいて後ろに下がった。
本来なら主人を守る存在であるはずの執事が、得体のしれない若者に恐怖を覚えたのだ。
「……もしもそれを私が断った場合はどうするのでしょうか?」
「別にどうもしねえよ。このまま真っすぐニレナさんのもとに行くだけだ。簡単だろう?」
「それがどういう意味を持つのかご存じですか?」
「ああ。だからこうして頼んでいるんだ。さっさとニレナさんを起こせ。これはお願いじゃねえんだ。早くしろ――」
ナダは老執事を睨みながら言った。
老執事はため息を一つ吐き、屋敷の中まで入るとまた別の若い執事を呼んだ。そしてナダに向かって頭を下げる。
「ナダ様、今からニレナ様を起こしますが、やはり寝ている女性の方の寝室に訪れるのを私たちは許容するわけにはいけません。ですから申し訳ありませんが、応接室にてお待ちしていただいて宜しいでしょうか? 一刻も早くニレナ様をお連れ致しますから――」
「分かった――」
「ナダ様、それと一つお願いがあるのですが、お嬢様とお会いになるのなら服を着替えてもらっても宜しいですか? おそらくそれぐらいの時間はあるでしょう?」
「ああ。別に構わないぜ」
「では、案内をよろしくお願いします」
それからナダは若い執事につれられるようにまずは更衣室へと移動する。
◆◆◆
それからほどなくして白いシャツと灰色のスラックスというそれぞれが素材の伸びる動きやすい服に着替えたナダは、応接室に移動して若い執事が淹れる紅茶を一口飲んでいると、扉の外からどたばたと走るような足音が聞こえてからニレナはやってきた。
起きたばかりでまだ白いネグリジェのようだったが、上に一枚のカーディガンを羽織っている。おそらく寒いのだろう。まだ冬の朝だ。
ぼさぼさな髪は後ろで一つに纏めており、目には少しだけくまが浮かんでいる。そして寝起きなので目はうつろであるが、それでもナダの座る前のソファーに座ると怒りの表情でニレナは言った。
「――ナダさん、昨日は私と別れてから、どこに行っていたのですか?」
ニレナは嗤っている。
だが、これは確実に怒っていた。
付き合いの長いナダだから分かることだ。
いつもだったら宥めるかそつのない言葉を選ぶのだが、今日は違った。
「ちょっと野暮用だよ――」
「あなたは国王陛下からの表彰があったことをご存じでしたか?」
「……知らねえ」
「なら、知っておいたほうがいいですわ。あなた不敬でしたわよ。王家が出した招待状での式典に出席して、陛下からの勲章授与を蹴った。あの時は場が冷え切っていましたわよ。ほかの冒険者は、もちろんベテランや新人にかかわらず、それもかなりの高位の冒険者でさえも慎ましく勲章を受け取っていたと言うのにあなたはその場に現れなかった。それどころか、姿すらもなかった――」
「だから?」
ナダの一切の後悔がない態度にニレナは大きなため息をつく。それから声を荒らげながら言った。
「はあ。でしたら知ってもらいたいですわ! あなたは陛下の顔に泥を塗りましたの! もしかしたら近衛兵団に捕まってもおかしくないことをしでかしたのですわ!」
「それで?」
だが、ナダの表情は変わらない。
ただ、嗤うだけだ。
「過去に陛下に無礼を働いた者の中には、処刑された者もいるのですわ! その意味が、あなたには分かりまして? もしもこの屋敷に近衛兵団が来たのなら、私はあなたを差し出さないといけないのですわ! その意味が分かっておりますの?」
ニレナはガラスのテーブルを強く叩いて、ナダへと叱るように大声で怒鳴る。声が大きすぎたのか、力が入りすぎたのか、息を切らすほどの勢いだった。
だが、そんな状況を知ったとしても、ナダの態度は変わらなかった。
「もしもその時が来たら、俺を差し出せばいいさ」
呑気に紅茶をたしなむナダ。
その姿に国王を気にしている様子などない。
「あなた……本気ですの?」
ニレナは少しもおびえる態度がなく、どっしりと木のように構えたナダが信じられないようで呆れているようだった。
「ああ。どうだっていい。俺にとってはそんなことはどうだっていいんだ。俺はあの場を離れたことを後悔していない。国王よりも、俺には大切なことがあったからな」
「……その大切なことをぜひ聞きたいですわ」
ニレナはソファーに深く座りなおして諦めたように言った。
「俺もそのことを話したいけど、残念ながら時間がない。俺は用があってここに来たんだよ」
「……用ってなんですの?」
「――金を貸してくれ」
ナダは大きく頭を下げた。
予想すらしていなかったナダの言葉に、ニレナは驚きのあまり口をぱくぱくとさせていたが、すぐに自分を取り戻してにっこりと笑いながら言う。
「……王都から逃げるための軍資金でしょうか?」
「そんなわけがないだろう」
「でしたら何のためにお金を求めているのですか?」
「――武器を買うためだ」
「それで王城へと乗り込むつもりですか?」
「本気で言っているのか? ニレナさん、冒険者が武器を買う理由は一つだろう? ――迷宮に潜るためだ。すぐに迷宮に潜るために金がいるんだ。俺は武器を持っていないからな」
ナダはこんなことになるのなら武器を持ってこればよかったと思うが、そもそも愛用の武器である青龍偃月刀は修理に出しているのだ。
持ってくる武器などないことを知ったナダは、つくづく運が無いと嘆息する。
「あなた、正気ですの?」
ニレナは耳を疑っていた。
今のナダをまともだとは思っていないが、彼があまり普段は出さない戦士特有の獣のような獰猛さを持っている。
一晩の間に何が彼をここまで変えたのか、ニレナには検討さえつかない。
「ああ。本気だ。それで、ニレナさんは俺に金を貸してくれるのか? 貸してくれないのか?」
「もしも貸さなかったらどうするのでしょうか?」
「その時はイリスにでも頼みにいくさ」
「イリスさんが実家にいなかった場合は?」
「それじゃあ、家が分かりやすいコロアにでも頼みに行く。それでも無理なら……伝手がほとんどない俺は素手でも迷宮に潜るさ。ここにいるモンスターは騎士が多いんだろう? そいつらの武器を奪えばいい」
「……ナダさん、私はあなたを病院に連れて行った方がいいのでしょうか?」
「それもいいかも知れねえが、今はそんな暇はない」
「はあ……」
ニレナは深いため息をついた。
まさか数時間会わないだけで、ここまでナダが変わっているとは思わなかったのだ。
「ニレナさん、あんたには分からないと思うけど、今の俺は迷宮に潜ることしか考えていない。それで、教えてくれないか? 貸してくれるか、貸してくれないかの返事はそれだけでいい。用が済んだらすぐにここから出ていくさ。それからニレナさんはゆっくりとまた寝ればいい――」
だが、ナダは全てにおいて本気だった。
それしか方法がないのだ。
ナダは胸をぎゅっと握る。この病を伸すためには迷宮に潜らないといけない。その為には手段など選んでいられないのだ。
「ナダさん、本当なら私はあなたに何が起こったかを詳しく聞かなければならないのでしょうね。それを聞いてから、あなたの希望する金額について考えなければいけない」
ニレナは執事が淹れてくれた紅茶を一口飲んだ。
呼吸を整えるためだ。
「額が問題なのか?」
「いいえ。そうではありませんわ。私の後輩が迷宮に潜りたい、って言っているのですもの。最大限にサポートするのが先輩の務めですわ。もちろん、その分の対価はもらいますが――」
「それで、お金の件のどうなんだ?」
ナダには時間がなかった。
本当ならこうやってニレナと会話している暇すらもったいないのだ。
あの発作がいつ来るか分からない。もし期限が来たら自分は死ぬかもしれない。それすらも考えてナダは話していた。
焦っていたといってもいい。
「ナダさん、あなたは気づいていないでしょうけど、今は早朝です――」
ニレナは物分かりが悪い後輩に対して優しく教えるように言った。
「だから?」
「いいですか? もしもあなたがお金を、それも大金を手に入れたとしても、武器屋は開いていませんわ。だから武器を買うことは出来ません」
「…………そうだな」
ナダは素直に頷いた。
ニレナの言うとおりだと。
焦っているあまり、彼はそこまで考えていなかったのだ。
「――ですから、ナダさん、お金を貸してもいいですけど、あなたには無用の長物ですわよ? そもそも武器屋だけではなく、防具を買うことも、薬を買うことも、迷宮に入ることはできたとしても、迷宮探索に必要な物は一つも手に入りませんわ」
「…………ああ」
ナダは肩をがっくりとおとして落ち込んだ。
頭を抱えている。
そしてナダの頭の中で天秤がイメージされて、どちらがいいかを考えるのだ。武器屋などが開くまで待つか、素手の状態で迷宮に入ってモンスターの武器を奪うか、どちらも修羅の道なので、ナダは困ったように悩んでいる。
ニレナはどうしようもなくなったナダの姿を見て、それがアギヤの時によく見た姿なので少しだけ微笑ましい気持ちになった。
そして優し気な表情でニレナは手を差し出す。
「ナダさん、私はあなたにお金は貸せませんが――武器なら差し上げますわ。それもナダさんにぴったりな武器を――いかがでしょうか?」
ナダは女神のようなニレナの言葉に即座に頷いた。




