第十二話 宴Ⅲ
「ね、凄いわよ! マナ様がいるわ!」
隣で弾むアメイシャの声。
ナダもマナの事は知っていた。
――現代の英雄、と呼ばれ長らく迷宮に潜る冒険者だったのだが、その功績と数々の偉業を称えられて王族の近衛兵団長までのし上がったとされる。
詳しいことは何も知らない。
だが、冒険者時代にはアビリティ一本で様々なモンスターを狩ったと言われる存在だ。
彼女を憧れる学生も多く、男であっても女であっても冒険者の理想形とされる人物であり、彼女を見ることで冒険者としての実力が上がると言われているくらいだ。
「……そうか」
だが、ナダの態度は素っ気ない。
冒険者ならだれもが憧れる先輩が近くにいるというのに。
いや、そうではなかった。
反応するほどの余裕がないのだ。
ナダは視界を地面に向けながら右手でぎゅっと胸を押さえている。ジャケットが歪むのも気にしない。そんな余裕などなかった。
絶えず続く左胸の痛み。
これまでで一番痛みが強いとナダは思った。
まるでそれは左胸にマグマが流れているのかと思うほどに熱い痛みが感じられる。その熱は心臓から始まって、焼けるような痛みが全身へと回る。
気を抜けば痛みのあまり叫びそうで、立ってもいられなくて。
ナダは必死に耐えるしかなかった。
周りの者たちは歓声を上げている。
現れた王族に、誰もが憧れる英雄に、そしてこれから始まる表彰式に向けてボルテージが上がっているのだ。ただの顔合わせではなく、ようやく宝玉祭の本番が始まることにここにいるすべての招待客は期待していたが、ナダは荒い息を吐きながら必死に痛みに耐える。
「あんた、大丈夫なの? 顔色が悪いわよ――」
どうやら隣にいるアメイシャも、ナダの異変に気付いたらしい。
それもそのはず。
ナダは顔に大量の脂汗を浮かべ、背中もびっしょりとかいた汗によってシャツが肌に張り付いている。だが胸から伝わる全身の熱く痺れるような痛みによって、ナダは汗をかいていることにも気づいていなかった。
歯を必死に食いしばり、両手で強く左胸を押さえながらナダは無理やり笑って言った。
「何でもねえよ――」
そのままナダは王族やマナなどに背を向けて、踵を返すように歩き始めた。
一歩一歩地面を踏みしめるたびに、マグマが足の中を通ったかのような酷い痛みが続くが、それでもナダは踏ん張って棒のように動かしにくい足を動かす。
「どこに行くの? これから表彰式が始まるのよ――」
「興味ねえよ――」
ナダは血走った目で、城から出ようとしていた。
もうこの場にいる余裕などなかった。なんとかしてこの石のように固い胸の痛みを、全身の痛みを抑えないと、やがてこの熱によって体が燃え尽きてしまうと思わず考えてしまうほどに。
己に死が近いのではないか、という感情も湧いてくる。
「いいの? あんたも表彰されるかも知れないわよ?」
「関係がない」
ナダはもう一歩進む。
前に行った医者でもいい。
また神殿に行ってもいい。
どこでもいいから、誰でもいいからこの痛みを抑えてほしかった。
「あんたは知らないと思うけど、表彰される冒険者は招待される中でもごく一部よ。もしも表彰されるなら、あんたは学園での汚名を返上するチャンスかも知れないわよ。それに表彰されることで、商人や別の冒険者の目に止まる機会かも知れない。それをあんたは捨ててどこに行こう、って言うの?」
この場からまるで逃げ出すようにゆっくりと進むナダに対して、アメイシャは冷たく言った。
二人の姿は他の誰の視界にも入っていない。
何故なら会場は主催者たちの登場によって興奮しているから、会場の端から帰ろうとしている男一人に注目するような者はいない。
「知らねえ――」
「冒険者としてのあんたはそれでいいの? ここでの名声が、次への栄光に繋がるかもしれないのに……」
「どうだっていい――」
ナダにとって今大事なのは冒険者としての未来などではなかった。
死を近くに感じるほどの激しい痛み。それに対する対処法。
それしか頭の中になかった。
もしもこの場にダンがいるのなら、きっとあまり使ってはいけない強力な鎮痛剤を頼んでいることだろう。
だが、彼の姿はない。
だからどうにかして、この痛みから逃れる方法をナダは欲しかった。
「そう――」
全ての冒険者が憧れる宝玉祭にいるのに、そこで冒険者にとって最高の名誉である表彰されるという即ち王族から冒険者として認められる機会があるかも知れないのに、それすら捨ててこの場から逃げ出すように去るナダをアメイシャは信じられないような目で見ていた。
やがて彼の姿はアメイシャの目からいなくなった。
それから暫くしてからだった。
壇上の、国王の口からナダの名前が呼ばれたのは。
◆◆◆
ナダは馬車で来た跳ね橋の端をゆっくりと歩きながら城を出る。
誰からも止められることはなかった。
入るのは厳しい条件が必要であるが、出るのはその限りではない。尤もまだ招待客が誰も帰っていないので急に王城から出ようとするナダに不信感を持つ者は、騎士や使用人などが訝そうに見ていたが、報告は何もないので見逃していた。
また騎士の一人は急いで現場担当の者のところまで行って、怪しい人物が王城を出ようとしていた、異常はないか、と報告する者もいたが何も異常はなかったので、跳ね橋からでるまでにナダに声をかけた者はいなかった。
本日は宝玉祭というだけあって町も祭りのように多くの人が出歩き、多くの出店が出てにぎわっている。
だが、ナダは浮かれた人ごみの中をゆっくりと歩いている中で、意識が朦朧としだした。
既にまともに見えっていない。視界は揺れて、曲がり、自分がどこを歩いているのかも認識はできない。それどころか足も覚束なかった。跳ね橋を渡ってすぐに地面へと倒れこんだぐらいだ。その時に膝を擦りむいたのでズボンが破れたが、ナダはそれに気づいてすらいなかった。
痛い。
胸が痛い。
そこから巡る熱によって腕が痛い。足が痛い。頭が痛い。
まるで体の中で燃えているような。
自分の血が燃えているように思える。
ナダはぼやけた視界で、開いた大通りの先にある高い門へと落ちていく夕日を見ているとまるでそれが炎のように見え、まるで自分を襲ってくるのだと錯覚する。
幻覚だ。
だが、自分の見ている物が正しいのか、それとも間違っているのか、痛みによって思考が侵され、熱によってまともに頭に血が流れていないナダにとって何が真実なのかも分からない。
ナダは太陽から逃げるように裏道へと入った。
そこは、スラム街と言っていいだろう。
華やかに祭りを開いている大通りなどとは違い、そこはネズミのような小動物が闊歩し、ごみが溢れる場所。中にはごみをあさって目ぼしい物がないか探している浮浪者も多く、多少はぼろ布という服を身に着けた彼らよりましな身なりをしているナダを注目するように見ていた。
だが、手出しはしない。
何者か分からないから。
そんな中、二人の男がナダへと近づいていた。
いい身なりをしているナダが金目の物を持っているのではないかと思って近づいたのだ。
「おい、にいちゃん、こんなところで何をしているんだ?」
二人の男が先を塞ぐようにナダの前に立った。
だが、その言葉は既にナダの耳には入っていなかった。
どこにあるのかも分からない神殿や診療所を目指して、闇雲に広い王都の中を歩いているのだ。既にまともな平衡感覚すらなく、壁に片手をついてそれで何とか体を支えて歩いているのだ。
ナダは荒く息を吐きながら二人の男にぶつかった。
「何してくれるんだよ!」
ナダの身長より幾分か低く、体も薄い男二人がナダを近くの壁へと突き飛ばした。そのまま壁に体を打って、必死に支えていた力も抜けて、無様に地面へと倒れる。
心臓の痛みさえなければ、こんなごろつきは相手にならないというのに。
だが、今のナダには壁にぶつかった痛みも確かにあるのだが、すぐに全身を燃やし尽くしそうな心臓の痛みの方が勝った。
ナダは痛みから逃れる為に這うように先へと移動するが、その前にそんなナダの肩を掴んだ。
「どこに行くんだよ!」
そのままナダの腹部を蹴る。
ナダは体がくの字に折れ曲がり、土の地面に寝転がった。
動かなくなったナダへ一人の男が欲望に満ち溢れた顔をしながら言う。
「兄ちゃんが悪いんだぜ。俺たちにぶつかるから――」
そのままごろつきの男二人はナダの体をまさぐるが、金目の物一つ出てこない。服はここに来るまでで破れているので売れるとも思わなかった。
男は何も持っていなかったナダの腹部を蹴り、もう一人の男がそのまま腹を勢いよく踏んで、吐き捨てるように唾をかけてから去っていった。
それらの攻撃はナダにとって全く痛くなかった。
だが、体を縮こませる。
心臓の痛みはなくならない。
灼けるような激しい痛みは増すばかり。
このまま自分の体は焼け付いて、このままいなくなってしまうのではないかと思う。
ナダは冷たい地面へとその身を任せながら荒く息を吐く。
必死に痛みから逃れるように早く浅い呼吸をするのだ。
もう耐えられない。
何人かの浮浪者たちがナダを囲み、ジャケットを、蝶ネクタイを、シャツを奪っていき、やがては身包みを剥がされて破れているぼろぼろのズボンだけになったナダはそれでも起き上がることができずに地面へと倒れていた。
ナダは必死に体の向きを変えてどうせ死ぬなら、と空を見た。
最後に綺麗な空を見たかったのだ。
だが、薄暗い路地からは空を拝むことさえできず、建物の壁や屋根が見えるだけだった。
ナダは暗くなった中で面白みがないただの壁を見ていると、これまでの記憶が走馬灯のように蘇ってきた。
あまりいい思い出などない。
そしてナダを今までより一番大きな、それでいて熱く心臓を燃えさせる。心臓が燃え尽きるほどの痛みに襲われたナダは目を閉じて、右手で胸を強く握りしめて、やがてその力さえなくなり、右手がゆっくりと地面へと落ちる。
暗く、そしてどぶ臭い路地裏でナダの意識はすっと消えた。
そして――何かが割れる音が聞こえたのだ。




