第三十四話 血縁Ⅵ
ペケニョを出た三人はそのままインフェルノに向かう――のではなく、イリスの案内の下、また別の場所を目指した。
それはペケニョのある山を抜けた先、平野に広がる馬車道を歩く。この道はどこにつながっているのかとテーラが聞くと、王都である『ブルガトリオ』とこの辺り一帯を治める都市『アールヴォレ』と呼ばれる都市などを繋ぐ街道のようだ。
『アールヴォレ』の治める村の中には当然ながらペケニョも含まれている。何故ならペケニョが税を納める先は『アールヴォレ』であるのだから。
ナダの知る限り、『アールヴォレ』に迷宮はない。その代わりブルガトリオやインフェルノを繋ぐ重要な商業都市として発展したことを知っている。
そのため『アールヴォレ』には商業上、非常に高価な物があることが多いため、外敵から狙われることが多く、そのため非常に高い塀で都市全体を囲っている。また町に入るのも、誰でも入れるインフェルノとは違い、身分証明書や通行証が必要だ。
『アールヴォレ』の入り口、そこは関所となっていて屈強な男が六人ほど立っている。彼らはそれぞれ剣を持っており、鎧を着ていた。
そこにはその門番の他に、多数の商人や旅人が並んでいる。彼らは順番をちゃんと守り、門番にそれぞれ身分証明書や通行証を渡してから町の中に入っている。とはいえ、貴族は優先なのか、他の馬車と比べると装飾が綺羅びやかな馬車は先に通れるみたいで門番達も彼らのことは優先していた。
ナダはそこにつくと、他の旅人などと同じように列に並ぼうとしたが、イリスがそれよりも前に列に入り込んで門番の前に立った。
イリスはニヒルに嗤う。
「ねえ、私達を通しなさいよ」
「急に列に割り込んでお前たちは何だ? この場の秩序を乱すということは、私たちに逆らうということだぞ。」
門番の一人が、イリスを睨みつける。
「ふーん、これを見ても?」
イリスは首にかけてあるネックレスを取り出した。
それを見た瞬間、門番の顔色が変わった。
そのネックレスは赤色をしており、まるで血よりも濃かった。希少な宝石であることは間違いなく、太陽の光に照らされて光り輝いている。またそれでいて、燃えている翼のような形をした炎をデザインしたものをチェーンで繋いでいた。
門番も、そのネックレスに見覚えがあるようで、イリスのそれを見た瞬間、冷や汗をかいて平伏した。
「まさか、スカーレット家の方とは思いませんでした。どうぞ、中へ――」
スカーレット家、国内でも間違いなく五本の指に入る大貴族であり、その名はたとえただの門番であっても知っているほどだ。
そして燃えている翼のような形をした炎と共に。
その紋章を使うことはスカーレット家しか赦されてなく、ただの者が使えばたとえその者が貴族であっても個人的にスカーレット家から制裁が加えられると言われるほどだ。
だから、門番としてはイリスは、それでもスカーレット家の紋章を使う命知らずか、スカーレット家のご令嬢その者か。どちらにしても、関わらないでいたほうがいいのは言うまでもない。
「いいの? 私の知り合いも一緒に入ってもいい?」
イリスは後ろにいるナダとテーラを指差した。
「はい。どうぞ――」
「ありがと」
イリスはそう言って、ナダとテーラを連れて『アールヴォレ』の中に入る。
「そう言えば――」
門番はそんなイリスの後ろ姿を見ながら思い出す。
貴族が馬車を使わずに移動することはほぼ無いのだが、確かスカーレット家の娘の一人には、貴族の常識が通用しない三女がいると。
普通の貴族の娘は他の家に嫁ぐ道が殆どでありそれが蝶よ花よと育てられた貴族の娘にとっては最良の幸せなのだと教育されるのだが、何故かスカーレット家の三女は女の身で血泥蠢く冒険者になり、さらにその道で大成しているので親である当主も今では口を出せなくなっていると。
門番は、今の娘が、スカーレット家の三女なのではないかと思った。
◆◆◆
イリスはナダとテーラを連れて、『アールヴォレ』の中にある一つの大きな屋敷の前に着いた。
そこは貴族街であり、イリスが目指した屋敷はその中でも一際大きかった。
「ここが、あんたの来たかったヌーヴェン家よ。全く、こんな家に何のようがあるんだか――」
イリスはため息を吐きながらナダに言う。
「恩に着るぜ」
ナダは目の前の家を見つめた。
この旅に出る前、ナダがイリスにお願いしたことが、ヌーヴェン家の当主と話がしたいということだった。
「……そう言えば、ここの当主は今は女性だったわね。確か数ヶ月前に前当主だった旦那さんが亡くなって、未亡人となったんだけど、それがまだ若くて綺麗だという話を聞いたことがあるわ。まさか、ナダ、あんたはそれが狙いじゃないでしょうね?」
イリスはじーっとナダを見る。
「……まあ、どうでもいいや。さっさと中に案内してくれよ」
ナダはそんなイリスに、早く屋敷に入りたい、と告げると「つまんないわね」と彼女は言ってから門の傍にいて掃除をしている使用人に話しかける。
その使用人がイリスの存在に気づくと、彼女は胸元から門番の時と同じように首元から例の燃えている翼のような形をした炎のネックレスを見せる。するとその使用人は数瞬だけ呆気に取られたようだが、すぐにイリスへと頭を下げて屋敷の中に戻る。
数分後、先程の使用人は屋敷の中から他の使用人、それも燕尾服を着た初老の執事や、執事と同じぐらいの年齢であるメイドなどを連れて門の所にいるイリス達の元へ急いでいた。
そして彼らはすぐにイリスへと頭を下げる。
「お待たせして申し訳ありません、イリス様。どうぞ。こちらへ。それにしても予定より早いご到着でしたな。ご当主様はすでに中の部屋で待っております。どうぞ。こちらへ――」
執事は恐る恐るイリスへ言った。
彼らはどんなイリスの噂を聞いているのだろうか。
イリスがこの館に来るということは、事前に手紙でアポを取っていたことをナダは知っている。
「まあ、いいわよ。じゃ、ナダ、テーラちゃん、行くわよ。ナダに何の用があるのかは知らないけど――」
イリスの後に続いて、ナダとテーラも敷地内に入った。
まず三人が案内されたのは、屋敷の前にある庭園だ。そこは貴族らしく様々な花が色とりどりに咲いており、庭師もいるのか、どうやら定期的に手入れをしているようだ。ここに咲いている花は黄色い薔薇が多く、執事はそれをこの屋敷の当主の趣味だと言った。
イリスはこの程度の庭園を見慣れているのか流し見であまり興味もないようだが、テーラは色とりどりの鼻を興味深そうに見ている。尤もナダは花に全く興味がないようであるが。
そして三人はそれを抜けると、今度はレンガで作られた屋敷の中に入る。
そこは貴族の家の中でもかなり大きく、足で一周するだけでも時間が掛かりそうである。その中を執事の先導の元、三人は入った。
案内されたのは二階にある部屋だった。
そこは他の部屋よりも大きく作られている部屋のようで、入り口には応接室と書かれてある。三人はその部屋にノックをし、中から「どうぞ」と鈴を転がすような声が聴こえると執事が開けた扉の先に三人は入った。
「初めまして――」
中はシンプルな作りだった。
机が一つにソファーが二つ。それに部屋の壁には絵画が飾られている。どれもが高級品らしく、ソファーは何やら見たことのない革張りで、木製の机には細工が施してあった。そして向かい側のソファーに黒で露出を抑えたドレスを着ている女性がいる。三人はイリスを真ん中にして当主の女性の真向かいのソファーに座ると、部屋の中にメイドが入ってきて、四人にいい香りのするお茶を出した。
それを全員が一口飲むと、やがて当主の女性が口を開く。
「ようこそ我が屋敷へ。イリスさんとは舞踏会で何度かお会いしたことがありましたね」
彼女は妙齢の女性であった。
口元にあるほくろに怪しげな魅力がある。あまり外に出ていないのか肌は白く、長く艶やかな髪はウェーブしており、それを頭の上で纏めている。顔には黒いベールをつけておりよくは見えないが、薄っすらと見える容姿からも美しいことは間違いないだろう。
彼女は全体的に線が細く、触ってしまえば今でも折れてしまいそうな印象があった。
「ええ。前に会ったのはいつかしら?」
「そうね。確か一年ほど前だったと思うわ。それで、後の二人は初めてお会いするわね。ようこそ、私の屋敷へ。私の名前はベアトリス。今は亡き主人に代わって、このヌーヴェン家の当主代理をしております。どうぞ今後共よろしくお願いいたしますわ。あなた達の名前も伺ってよろしいでしょうか?」
「俺はナダだ」
「私はね、テーラって言うんだよ」
「それで――私にご用件があるのはどちらかしら?」
ベアトリスはナダとテーラを順番に見る。
「俺だ――」
そこでナダが返事をした。
「あなたは……確かナダ様でしたわね。お噂はかねがね聞いておりますわ。いい噂も、悪い噂も。ただ、腕のいい冒険者というのは事実なようで、出来ればその冒険の数々のお話を聞きたいぐらいですわ。それで、今回はどのようなご用件でしょうか? 私と契約でも結びに来ましたか?」
「いや……」
「ならば何でしょうか? まさか私に告白でも?」
口元を手で隠しながら言った。
「イリスを使ってまで会いに来たのは、他でもない。どうしてもこの屋敷に入って、ベアトリスさん自身に、ある人物の事を聞きたいんだ」
「どなたでしょうか?」
「マリアっていう女がこの屋敷で働いていないか? 侍女として――」
その発言を聞いた時、「やっぱり女なのね」と呆れるようにイリスは呟いたが、ナダは気にすることなく、話を続けた。
「どうだ? まだいるか?」
「……その名のメイドは確かにおります。でも、どのようなご用件でしょうか?」
「そうだな。少し、話があるだけだ――」
「……いいでしょう。セバスチャン――」
ベアトリスは少し考えると、白魚のような細い腕を二階ほど叩いた。すると、扉をノックしてから慎重に開けて、先程ナダ達をここまで案内した執事がやって来た。
「お茶のおかわりでしょうか?」
「いえ、違いますわ。ここにいるお客様――ナダ様がどうやら侍女のマリアとお会いしたいようなのですわ。だから連れてきてもらえるかしら?」
ベアトリスはそう言うと、執事が渋い顔をする。
「ですが、マリアはカリダーデ家の主人に見初められて一月後に嫁ぎに行くのですよ。この男がどんな目的でマリアに用があるのかは知りませんが、手を付けられると、ベアトリス様の信用に関わります」
「……私の命令に逆らう気ですの?」
低い声でベアトリスは言った。
するとセバスチャンは焦ったように部屋から一礼して出た。どうやら急いでマリアを連れてくるみたいだ。
「助かる」
「そうですね。この御礼は、また後日もらいましょうか――」
ニコリとした笑顔でベアトリスは言った。
「……ま、内容によるな」
「かしこまりましたわ。では、ナダ様が出来そうな事を考えておきますわ」
「……分かった」
そんな話をナダとベアトリスがしていると、セバスチャンがマリアを連れてきた。
マリアは、素朴な女だった。
黒髪は仕事のジャマになるのか肩辺りで短く切り揃えており、少し肉付きがよくて抱き心地の良さそうな体をしている。瞳は黒で腫れぼったい二重であり、顔にはそばかすがすこしだけあった。
美人とは言い難いが、魅力は確かにある女性だった。
「ぼ、冒険者様が私にご用があるとは、一体どなたでしょうか?」
マリアという名前のメイドの声は震えていた。
冒険者という名前に野蛮なイメージを持っているのか、声が多少なりとも震えていたが、それでも気丈な態度を取ろうと健気に頑張っているようだった。
「俺だよ」
ナダは短く言った。
それを受けてマリアはじろじろとナダを見るが、やはり見覚えはないようで、それよりも彼の大きな胴体に怯えているようだった。
「あの、私に……どのようなご用件でしょうか? 身請けなら、既にカリダーデ様の所に決まっております。出来れば、私には手を出してほしくは無いのですが、もしベアトリス様がやれとおっしゃるのなら――」
マリアはちらちらとベアトリスの方を助けを求める目で見つめるが、ベアトリスが何かを言うよりも先にナダが口を開く。
「おいおい、俺の顔を忘れたのかよ? ――弟の顔だぜ?」
「あ、お母さん!」
マリアは弟という言葉を聞いて驚くよりも前に、ソファーから飛び出たテーラに抱きつかれた。
まだ小さい子だったので、体の小さなマリアでもその衝撃は耐えられたのだが、テーラは頭を胸や腹にごしごしとなすりつけるように動く。まるでそれは甘えるような動作であり、マリアも力づくに引き剥がすことなどできなかった。
「……ん? あれ? なんかお母さんと違う……?」
そして違和感を持ったのか、テーラは頭を擦り付けるのを止めて顔を挙げた。
そこには、母とよく似た容姿でありマリアの顔があったが、やはりテーラの母と比べると明らかにマリアのほうが若い。
「あなたは……クレア……?」
マリアもテーラの顔に見覚えがあった。
遥か昔に遠く離れた故郷。そこで得た思い出を忘れることなく、今日までずっと抱えて生きてきたのだ。辛い時は兄弟や親の事が頭に蘇り、幸せだった日を思い出すことで乗り切ったことは一度や二度ではない。
何度も、何度も、夢に見た顔が目の前にあるのだ。
マリアは涙をぽろぽろと流して、テーラを強く抱きしめた。
「く、苦しい、お姉ちゃん、私は、クレア……ねえ、じゃないよ。私の名前はテーラだよ!」
「テーラ? テーラちゃん?」
マリアは聞いたことのないテーラという名前と、その子の容姿がどう見てもクレアに似ていることに驚き戸惑っているようだった。
「そいつはテーラという名前で、“俺達”の妹だ。どうだ? クレアによく似ているだろう?」
そこで何も知らないマリアに向けて、ナダが助け舟を出す。
そうすると、マリアはもう一度ナダの顔をよく見て、その顔がどことなく、たしかに細かい傷跡や男らしく太く発達した顎など、見覚えのない部分も多かったが、少しだけ口角を上げてこちらを見て浮かべる悪戯な笑みには覚えがあった。
それを良くするのは、マリアの兄弟の中でも一人しかいなかった筈だ。
「まさか……あなたは……!!」
「おいおい、やっと思い出したのかよ。そうだよ。俺の名前は――ナダだ。懐かしいだろう? 久々に会う弟の顔は?」
マリアはナダの顔をもう一度じーっと見つめて、それがまさしく自分の弟の顔であることが分かると、テーラを強く抱きしめたままナダにも抱きついた。
それからマリアが落ち着くまで時間がかかった。
まさか急に家族が訪ねて来るなんて思っておらず、心の準備も出来ていないままに最愛の者たちが来たのだ。そのマリアの胸中は嬉しい気持ちでいっぱいだったが、それを心の中に上手く受け入れることが出来ずに、兄弟三人で抱き合ったまま、ずっとマリアは泣いていた。
それからマリアが落ち着くと、ベアトリスの鶴の一声で三人は別室で話をすることとなった。
ベアトリスが「家族なら積もる話も多くあるでしょう」との意見からだった。ベアトリス自身もまさかナダがマリアに会いたいと言った理由が姉弟であるという理由とは見当もついていなかったので、何度も目をぱちぱちと開閉させてナダとマリア、それにテーラを交互に見ていた。
イリスもてっきり、ナダはマリアとどこかで一晩の関係を築いてそれを忘れられずにここまで追い掛けたと思っており、まさか二人が姉弟だったとは夢にも思ってなく、彼女自身も驚いているようだった。
そして来客用の部屋に移動したナダ、マリア、テーラの三人は同じベッドに座る。
この時も、テーラはマリアに抱きついたままだった。
「それで、あなたの名前をもう一度聞かせてもらえる?」
マリアは自分に抱きついているテーラの名前を聞いた。
マリアにとって、彼女は見たことのない妹だった。それもそのはず、テーラはマリアがこのヌーヴェン家に奉公に行くことになってから出来た妹だからである。マリアが旅立つ時にはまだ、母のお腹も膨れていなかったと思う。
「テーラだよ! お父さんが付けてくれたの!」
「テーラちゃんね、私の名前はマリアって言うの。テーラちゃんは知らないと思うけど、私はテーラちゃんのお姉ちゃんでね、シャマやクレア、それにカロル、もちろん、ここにいるナダよりもお姉ちゃんなのよ」
「そうなの! すっごーい! だからお母さんに似ているんだ!」
そう言うと、もう一度テーラはマリアに抱きついた。
それはまるで死んだ母の温もりを離さないかのように、強く強く、マリアを抱きしめる。マリアもそれに答えるように、テーラを強く抱きしめた。
そしてまたマリアは涙ぐんで、今度は泣かずに片手で目元を拭うと隣にいるナダを見る。
「それで、ナダはどんな用で私に会いに来たの? まさかお姉ちゃんがいなくて寂しくなった? なんならナダも、昔のように抱きついてみる? ナダは確か、兄弟姉妹の中で一番の甘えん坊だったから……」
「……いや、止めておく」
マリアに抱きしめられているテーラを見て、そう言えば、とナダは思い出す。
物心着いた時から母は妹弟につきっきりだったので、自分がよく甘えていたのは長女であるマリアだったと。彼女も彼女で、まだ小さい体だったのに、よくナダを抱っこしていた記憶があるのだ。
それは在りし日の思い出で、幼かったナダは断片しか思い出すことが出来ない。
「じゃあ、どんな用で私に会いに来たの?」
「……報告だよ」
ナダはそう言うと、自分たち以外の家族の行く末を告げた。
これはマリアも知っておく権利があると思って、わざわざこれを言うためだけにここまで来たのだ。
マリアも両親や兄弟が死んだことについては驚いていたようだったが、泣くことは無かった。どうやらそれは覚悟していたようだ。あの村は小さく、生産力も乏しい。マリアがこの家に来たのも、食べ物を得るために奉公という名で売られたのだ。
昔でさえそうなのだ。
嫌なことは考えないようにマリアはしていたが、やはり実の弟から家族の行く末が伝えられると、それでも胸に来るものがあった。
マリアはテーラを強く抱きしめて、体が少しだけ震えた。
「……そうなの。ありがとう。ナダ、知れてよかったわ。もしもこのままカリダーデ様の所に行っていれば、何も知らない所だったから。それで、ナダは今、何をしているの?」
マリアは暗い話題を変えるようにナダの今を聞いた。
「そうだな。姉ちゃんが出て少し経ったぐらいか。俺も家を出て、冒険者になった」
ナダは、家を出てからの事を簡潔に言った。
冒険者の学校に入り、今もそこで活動していると。
苦労したことも多少はあったが、今では食べるのにはあまり困らないぐらいの生活をしていると言った。それ以上、詳しいことはマリアに心配させないために何も言わなかった。
「そうなんだ。ナダは、冒険者になったんだ。大変だったでしょう?」
マリアは太く、それでいてたこで固くなったナダの右手を握りしめながら言う。
「姉ちゃんほどじゃねえよ。姉ちゃんは、ここに、家族の為に来たけど、俺はただ腹いっぱい飯が食いたくて、自分のために冒険者になったんだ」
ナダもそのマリアの手を離すことはなかった。
むしろあかぎれでざらざらとしたマリアの手を労るように握る。
この手でどのような生活をここでして来たのだろうか。ナダには簡単に想像がついた。きっと村の時から家事を手伝い、子育てを手伝い、働き者だった姉のことだ。ここでも一生懸命、うまくサボることなど考えずに頑張ってきたに違いないと思うのだ。その証拠が、この両手だとも。
「ううん。違うよ。その時の事はよく知らないけど、きっとナダも家族の為に家を出たんじゃないかとお姉ちゃんは思うな。だって、ナダはいつも優しかったから」
「……そうでもねえよ」
「そうだよ……」
そう言うと、自然にナダとマリアはテーラを挟んだままお互いを抱きしめた。まるで幼き日の温もりをお互いに思い出すかのように。
それからナダとテーラ、イリスの三人はベアトリスの好意でヌーヴェン家に泊まった。
またこの日はマリアの仕事は他の執事やメイドの協力によって全てキャンセルされ、久しぶりに兄弟三人、積もる話もあるだろう、とずっと一緒にいることになった。もちろん、寝る場所も一緒で。
そして次の日の朝になった。
ナダ達もインフェルノに帰らなければならないため、朝早々に旅立つこととなる。テーラは少しぐずっていたようだが、ナダが抱きかかえるようにして、屋敷の入り口に立つ。そこには出迎えとして、ベアトリスやマリア、それにセバスチャンがいた。
「ねえ、ナダ、本当にいいの? よかったら、テーラちゃんの事は……」
マリアがナダの裾を持って涙ぐむテーラを見ながら言うと、それを遮るようにナダが口を開いた。
「いいんだ。テーラの面倒は俺が見る。姉ちゃんは嫁ぎに行くんだろう? なら、体は出来るだけ軽いほうがいい――」
「そう」
喋りたいことはまだ沢山あったに違いない。
それこそ、ナダとマリアには、一晩でも、二晩でも、語り尽くせないほどの数多くの話がある。
だが、お互いに道があることをそれぞれ知っていた。
だから、それを分かっているからこそ、マリアはナダとテーラの温もりを忘れないために、家族の温かさを忘れないために、もう一度それぞれに抱きついた。
「テーラちゃん、またね。元気でね」
「うん、またね」
テーラとマリアはお互いを抱きしめてから、それぞれが小さく手を振った。
「ナダ、他の人に迷惑かけちゃ駄目よ。あんたは勝手に一人で行動する癖があるんだから、それは止めないと。それにナダは兄弟の中でも口数が少かったんだから、もっとコミュニケーションを取らないと、それから食事はちゃんと食べなさいよ。それでね、それでね……」
マリアはナダを抱きしめたまま泣きながら言った。言いたいことが沢山ありすぎて、最後の方が何を言っているのか、自分でもわからないほどであった。
分かれる時は泣かないでおこうと心に決めておいたのだが、どうしてもこの温もりをずっと感じたくて泣いてしまうのだ。
そんなマリアをナダを一度だけ強く抱きしめ、彼女の肩を持って離した。
「姉ちゃん、元気でな。それから、これは餞別だ――」
ナダはマリアの胸に押し付けるように、懐から出した小さい巾着を押し付けた。
「ナダ、これは――」
ずっしりとした重さから、中に何が入っているのか、マリアにも分かる。
「いいんだ。俺は冒険者になって稼いでいるからな。だからこれは餞別だ。前に姉ちゃんが旅立つ時、家族に餞別を渡しただろう? だから、これはそのお返しだ。少ないけど、受け取ってくれ」
「でも、これはナダが稼いだお金で――」
「いいんだよ。姉ちゃん、嫁ぎに行くんだろう? ならそれで服の一つや化粧の一つでも買って、少しでもおめかしして行けよ――」
そう言うと、ナダはテーラを連れてマリアに背中を向けた。
マリアはナダから押し付けられた巾着を胸に抱きしめながら小さく「ありがと」と呟いた。
それからマリアは大きく手を振って「またね! 元気でね」とナダとテーラ、二人に向けて、何度も何度も言った。
ナダはそれを振り返ることもなく、テーラは再度抱えられてナダの肩越しにマリアを見ながら「またねー!」と同じように手を振り返していた。
おそらく次回からまた迷宮に潜ることが出来ればいいな、と思っております。




