第三十二話 血縁Ⅳ
ナダの旅の準備は簡単だった。
鎧も青龍偃月刀も持っていかないので、安い麻の服の上下を着ている。さらにその上から前をボタンで止める黒い外套を羽織るだけだった。久しぶりに着る外套には裾の近くに穴が空いており、色も黒なのにぼやけている。長年着ているからだろう。これは入学した時にイリスから祝いとして貰ったものだった。それ以来、買い換える余裕もなくずっと着ている。
さらに肩に掛けて持っているダッフルバッグの中には、数日分の携帯食料や水、それに寝袋、さらには簡易テントや調理器具まで入っていた。
そして腰には護身用としてククリナイフが、胸元には便利な装具として小型のナイフが収められてあった。
本来なら迷宮生活に慣れているナダには、ここまでの準備は必要ない。石の上だろうが、濡れた落ち葉の上だろうが、どこででも眠れるナダに寝袋やテントなどと言った宿泊用具はいらない。水、それにククリナイフ程度あれば十二分に事足りる。
だが、今回の旅にはナダの妹であるテーラを伴う。
流石に彼女に野宿は辛いだろう、と言うのがイリスとダンの意見だった。
だからわざわざナダは今回のためだけにこれらの装備を用意した。さらにもしもの時のためにお金もいくらか持っている。
一方で、ナダに庇護される存在であるテーラは、数日前とは随分と違った。
最初は泥と汗で顔が汚れ、さらに肉が少なく、血色も悪かったが、ここ数日はナダの元で決して少なくはない食事を取っている。さらに体が資本であるナダと同じ食事を取っているのだから栄養満点だ。
だから顔の血色はよく、さらにぼさぼさの髪をイリスに整えてもらったので、元の可愛らしい顔が現れて、人懐っこい笑顔が見える。
もちろん、これまで着ていたぼろ布のような服も捨てて新しい服を着ていた。
色が黒のワンピースだ。少女らしく可愛らしいデザインのそれはダンが選んで、テーラにプレゼントしたものだった。その上に灰色のマントを着ており、どちらも動きやすい素材でできている。
「ねえねえ、ナダの故郷って、どこだったかしら? 村の名前は――」
そして何故かナダとテーラの傍にイリスもいた。
「ペケニョだよ」
「そうそう。それ、ここから西にあったわよね。楽しみだわ。あんたの故郷。あんたの話では何も無い場所らしいけど、やっぱりそうなの?」
「ああ。田舎だからな」
「そう。じゃあ、社会勉強にちょうどいいわね――」
その言葉に、ナダは天を仰いだ。
まさかイリスまで付いてくるとは思わなかったからだ。
昨日、ナダは何が少女であるテーラに必要かわからなかったので、町を暇そうに歩いていたイリスを捕まえて旅の準備を頼んだ。もちろん、ナダはイリスに借りを作った上に昼ごはんまで奢ったというのは言うまでもない。
そしてナダはイリスに旅立ちの日を聞かれたので教えると、付いてくると言い出したのだ。最初、ナダは断っていたのだが、受け入れないとナダの約束を反故にすると言われたので仕方なく持っている。
そんなイリスの服装は黒いプリーツスカートに、白い長袖のワイシャツ。それに、黒いブーツを履いていた彼女の服は、普通だった。
“普通”の街では。
だが、あいにくにも迷宮都市は普通ではない。そこに住んでいる大半は学生であり、冒険者だ。彼らの正装と防具であり、普段着もあまり違いは無かった。だからこそ、この場に於いてイリスの姿は目立つだろう。尤も、現在はまだ六時頃で、まだ陽も登らずに空は青く光るばかりだ。他に見ている人がいなければイリスが目立つこともない。
だが、ナダの危惧していることはそこではなかった。
イリスは、鞄すら持っていない。レイピアも、ククリナイフも、他の全ての武器をイリスは持っていなかった。手ぶらだったのだ。食料品や寝袋などはわざわざ今朝に無理矢理ナダの元に持ってきて、ダッフルバッグの中に入れた。自分で持つ気など全く無かった。
平原の盗賊が見たら、美女であるイリスの事を絶好の獲物であるように見えるが、ナダの考えは違った。
面倒だと思った。
冒険者崩れの盗賊ぐらいなら素手でもイリスは倒せるだろうが、おそらくは手を出さない。そういうのは自分に任せるだろうとナダは思う。そして後ろから自分が盗賊を倒す姿をニヤニヤと笑いながら見るのだ。
「お姉ちゃんも来るの?」
テーラがナダの外套を引っ張った。
「……本当に来るのか?」
ナダは念のため、再確認した。
「もちろん、行くわよ。そもそも、ナダの“お願い”を叶えようと思ったら、私が付いていないと駄目よ。流石にあんたのような冒険者一人だったら通して貰えないわ。だからわざわざ私が付いてきたのよ。感謝しなさい――」
「……そうだな」
ナダは頷いた。
事前にしたイリスへのお願いは、どうやら叶えてくれるみたいで、ナダはそれに一安心する。
故郷に帰るなら、やらなければならない事があるからだ。
「じゃあナダ……お兄ちゃん」
もう一度テーラはナダの裾を引っ張った。
どうやら、イリスが付いてくることには納得したらしい。
しかしまだ会って日数の経っていないナダの事には慣れていないのか、言葉はどこか呼びづらいみたいだ。
「はあ、行くか――」
ナダもそこには何も言わない。
今更会った妹とどう接したらいいか分からないのだ。それもクレアとは違い、テーラは赤子の頃しか記憶がない。彼女は何が好きで、何が嫌いで、どんな性格をしているのかなど、全く知らないのだ。
けれども、他の家族が死んで不安なのか、このように一緒にいる時は裾を離すことはない。それ以上近づくこともなかった。
ナダはテーラに裾を引っ張られながら迷宮都市インフェルノを出た。その後ろに町を歩く格好のイリスが付いてくる。
冒険者になるために故郷を出て、それから一度も故郷に帰ったことが無いナダ。そんな暇など無く、学業でも優秀ではなかったナダは王都に招待されることも無かった。これまでの五年間と少しを、ほとんどインフェルノで必死に生きながら暮らしてきたのだ。そもそもナダの生活はインフェルノだけで事足りており、外に出る理由もなかった。
それなのに、インフェルノから出る。
数年ぶりの町の外だ。
そこには草原が広がっており、空は雲ひとつなく大きな太陽が燦々と輝いていた。おそらく先には森が広がっており、そこを超えて湖の間を通り、山の中に入ってまた抜けると、自分の故郷があるはずだ。記憶が正しければ。
懐かしい。
あの頃は、この道を腹が減って進むのも限界な状態で進んだものだ。だからこの道のことはよく覚えていない。空の色さえ記憶がなかった。それほど視界がかすれており、曖昧な状態で生きていた。
だが、今のナダは意識がはっきりとしていた。
昔とは違い、背も大幅に伸びて、体も随分とたくましくなった。あの骨と皮のような貧相なガキだった頃とは違う。様々な知識も手に入れて、お金だって少しは持っている。さらにこのようにテントやククリナイフなど、便利な物も数多く持っている。
成長したとは思う。
少しは。
だが、人としてどれだけ立派になったかと聞かれると、ナダには答えられなかった。
心はあの頃と何も変わっていないように感じる。
今も何かに悩み、生きるのに必死なだけだ。
「そう言えば、あんたはここから出たことが無かったわね。感傷に浸っているの?」
「いや、久々に見る外の風景に驚いているだけだ。これほど広い空を見るのは久しぶりだからな――」
ナダは大きく息を吸った。
緑の味がする。
豊かな香りだ。
心まで、温かくなったように感じる。
これほど広い空を見たのも久しぶりだ。
インフェルノは高い建物が多く、遠くまで見渡せることは少ない。さらにナダは一日の大半を狭いアパート、もしくは学校、それに空もない閉鎖的な空間である迷宮で過ごす。そこにやすらぎなど殆どなく、あるのは鉄と血と泥、それに数々の死だけだった。
ナダはその吸った息を吐いて言った。
「じゃあ、行くか――」
その言葉で三人は歩き出す。
ナダのかつて住んでいた村に向かって。




