第三十話 血縁Ⅱ
少女は目を見開くと辺りを警戒するように見渡した。
それもそうだろう。
何故ならそこは彼女にとって未知の場所だった。見たことのない部屋に、知らない人物が大勢いる。少女が住んでいる村ではイリスのような赤色の美しい髪を持つ女性がいることもなければ、ダンのように女のように美しい男もいない。いるとすれば、くたびれた者ばかりだ。
だが、その中で少女はナダに――視線が止まった。
ナダを一旦見つけると、そのまま視線を外さずにナダをずっと見つめていた。やがてその黒い瞳に涙が浮かび、溢れ出たと同時に口も開いた。
「お父様……? それともカロル兄ぃ……?」
それはナダにとっては懐かしい響きだった。
――カロル。
その名をナダは知っている。
既に擦り切れた記憶の中で、その名は忘れることがない。かつては目の前の少女と同じように、自分も彼のことを“兄”と読んでいたからだ。
カロルの名を持つ男は、ナダより二年早く生まれて、小さな村の小さな農地を持つ家の長男となった者だ。当時のカロルの顔は思い出せなくても、ナダも彼のことも「兄ちゃん」と読んでいたのは今でも覚えている。
「残念ながら俺はお前の父でも、カロルでもねえよ――」
ナダは少女に冷たく言った。
少女は肩をびくんと飛び跳ねた。
だが、ナダはそんなつもりで言ったわけではなかった。
ただ、父と兄に間違えられるほど似ていることに苛立っただけなのだ。自分は違う。彼らとは違う道を選んだ。だから違う人間だと思っていた。
しかし、目の前の自分の妹が間違うほど、父や兄とは似ていたのである。
ナダの記憶の中に、既に父と兄の顔はない。思い出そうとしても黒く塗りつぶされたようになる。だが、ナダは一度、毎朝見る自分の顔を思い出してから父と兄の顔を思い出そうとする。
すると、今度は黒く塗りつぶされた顔をはっきりと思い出すことが出来た。
あの時、五年前の姿だが、父と兄の姿はやはり今の自分の顔に似ていた。父の顔は自分と比べても雰囲気しか残らないが、やはり同じ父と母から生まれた兄は自分と同じ顔をしていた。違う部分があるとすれば、ナダにだけある無数の傷だろう。そこだけは生きてきた人生の違いだった。
「ちょっとナダ――!」
また少女が泣き出しそうにしていることに気付いたイリスが、彼を注意する。
そこでナダはすぐに取り付くように言った。
「ああ。すまねえな。強い言葉で言って。俺の名前は――ナダだ。あんたの名前を俺に教えてくれるか?」
出来るだけナダは優しい言葉で行ったが、実際はどうだろうかと考えてしまった。
だが、少女が少しだけ笑ったのでナダは安心する。
「テーラの名前はね、テーラだよ! ナダ……おにいちゃんだよね!」
「ああ――」
ナダはテーラの名を勿論知っていた。
自分の妹の名だ。それも父親が最後につけた名前であり、自分の兄弟の末っ子だ。ナダが十の時に母が生んだ子供であり、自分が出ていく時にはまだ乳飲み子だった妹だ。その時からテーラとは会っていないが、やはりこうして見てみると母や姉に似ているように思ってくる。
そしてどこか自分とも。
ナダは母の温もりも、姉の温かさも忘れたはずだった。何故なら顔が思い出せなかったからだ。最初は余裕があり兄弟姉妹全てに優しかった自分の母、それにそんな母の代わりに自分の面倒を見てくれた兄弟の中でも最年長の姉。彼女らの顔が、黒く塗りつぶされた筈の顔が、テーラの顔を見て蘇ってくる。
「ナダ……おにいちゃんと会うのは初めてだね! だって私は会ったこと無かったもん……。既に家を出たって言っていたし。でもね、話はいつもシャマ兄やクレア姉から聞いてたよ!」
「ああ――」
ナダは頷くようにテーラの話を聞く。
その名も懐かしかった。
どちらの名前もナダは知っている。何度も呼んで心に刻み続けた名前だった。
シャマは、自分の弟だ。それも自分が生まれた二年後に生まれた弟で、年は近かったが、幼いころより体が大きかった自分と比べると、幼少期から体が小さくて弱かったように思える。おそらく母の血を色濃く受け継いだのだろう。
そんなシャマも、生まれてから数年でまた母が妊娠したため、彼の面倒は家事をしている母や畑仕事をしている父や兄に代わって、自分や姉が見ていた記憶がある。どんくさくて小さい弟だったが、いつも自分の背中をついてまわるような可愛い弟だった。もちろん、そんな弟を体も大きくて活発なナダは可愛がっていた。
また、クレアもテーラと同じようにナダの妹だ。
その顔はテーラの顔を見た今だとよく思い出せる。顔にあるそばかすが特徴で、ナダとは三歳も離れているが、同じようによく遊んでいた妹だった。
体を動かすことが好きで、シャマも一緒になってよく近所にある山に行っていた記憶がある。そこではやはり体が一番小さいクレアが置いていかれそうになるが、迷子にならないように一番後ろにいたナダがいつもクレアのことを気遣って山を歩いていた記憶がある。
そんなクレアは自分がいちばん面倒を見ていたこともあり、よくナダの名前を呼ぶほど懐いていた。
「ああ。懐かしいな。もちろん、俺もクレアやシャマを知っているよ――」
ナダは感嘆するように言った。
今では忘れてしまった温かい気持ちを、一瞬でもナダは思い出すことができた。
迷宮に潜り、モンスターを殺し、食い扶持を稼ぐという血生臭く泥まみれの生活を送っているナダだが、そんな彼でも故郷の家族を思い出すと少しでも心が豊かになる。なってしまった。
そんなクレアやシャマを今まであまり思い出すことが無かったのは、忙しかったからだろうか。過去を思い出す余裕が無いほど、自分は生きるのに必死だった。それはおそらくこれからも変わらないだろうし、こんな気持ちになるのも今だけだろうと思っている。
「じゃあ、私のことは?」
期待するように聞くテーラ。
「もちろん、知っているさ。テーラは覚えていないだろうが、まだ赤ちゃんの時に俺とは会っているんだぞ。俺はもちろん、お前のことは覚えていたぞ――」
ナダは優しい声で言った。
ナダが思うに、特にテーラは姉や母よりももう一人の妹であるクレアに似ていると思う。クレアの小さい時にテーラはそっくりであった。その顔にうっすらとあるそばかすも、少しカールがかかった黒髪も。そしてあどけない笑顔も。
「そうなの。でもね、私は知らないの。クレア姉やシャマ兄からね、ナダ……お兄ちゃんのことは色々と聞いたよ。優しかったって。お腹が空いている自分たちにいっつもご飯を分けてくれたって……」
「ああ――」
ナダは生返事だった。
そのことは覚えている。
もちろん、父や兄に比べて自分の食事は少なかったが、同じように食事が少なかった妹や弟も腹を空かせていた。だからよく、まだ弟や妹よりも少しだけ多かった自分の夕食を上げていたり、山に遊びに行ってたまに取れる木の実などもクレアやシャマに譲っていた記憶が微かに残っている。
忘れていたはずだが、テーラの言葉で蘇った。
「クレア姉とシャマ兄はね、そのことをいつも感謝していたよ! だからね、同じようにするんだって……私にいつもご飯を分けてくれたの……」
テーラの声が小さくなる。
ナダは表情こそ変わらなかったが、テーラの顔に生まれた陰りに全てを察したような気分になった。
「それで、今はクレアとシャマはどうしている?」
ナダは想像はしていた。覚悟もしていた。
自分があの家を抜け出してから、二人の弟や妹がどうなったか。テーラがこの町に来て、あの奴隷商人と共に会った時から――ずっと。
「あのね、あのね……」
「ああ――」
テーラは急ぐ呼吸になり、言葉がうまく出せないようでいた。
さらに彼女の目には先程よりも大きな涙が浮かんでいる。
ナダはそれを見た時、この先を出来れば聞きたくなかったが、ゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着かせながらテーラの言葉を待った。
それが、彼女たちと兄弟であるけじめと言わんばかりに。




