第二十九話 血縁
だが、ナダは自分の妹に様々な感情を抱きながらも、思考は正常だった。
ナダは寝ている自分の妹の顔色がよくなかったので、その場をイリスに任せてすぐに最も信頼する薬師であるダンを呼びに行ったのである。もちろん内心で様々なことを考えながら。
幸いにも、ダンは自宅にいた。煉瓦で作られた大きな住宅街の中の一つである周りと比べると一段と煉瓦の赤が麗しい場所である。ナダの自宅からそれほど遠くはないのですぐについた。
家の中にいるダンにナダは、簡単に妹のことを説明した。その時に自分はどんな顔をしていただろうか。ナダには分からない。少なくとも笑顔でないことだけは確かだった。
ダンはそんなナダの要望を二つ返事で了承してくれた。
だからナダとダンは二人でナダの自宅へと向かう。
走ってはいなかった。
早歩きだっただろうか。いや、違うと思う。ナダの一歩は大きいと言うのに、足並みは遅かった。早歩きのダンにも置いて行かれるほどだった。その度にダンから「遅いよ」と声がかかるが、ナダの歩く速さは一向に早くならない。
考えていたからだ。
どうして自分の妹がこの街、インフェルノに来たのか?
奴隷商人に捕まっていたのか?
他の兄弟は今どうなっているのか?
様々な疑問が生まれてくる。
確かに、自分は五年ほど前に家族を捨て、両親から捨てられたも同然の子だ。インフェルノに来てからは過去のことを思い出す余裕がないような状況だったので、自分の家族があの後どうなったのか考えたことも無い。それどころか、過去の記憶が擦り切れるほど迷宮という地獄で生き残るために足掻いてきた。
だが、こうして自分の妹と再会して過去を振り返ると、どうしようもない感情が浮かんでくる。
自分や兄、それに両親などの面影が残る顔を見ると、どうしても、失った筈の、振り切ったはずの過去が蘇った。
自分の両親や長兄について思うことはあまりないが、自分に懐いていた妹や弟がいたことも確かだ。自分の旅立ちを反対する者は誰一人としていなかった。両親は楽に口減らしが出来ると喜んでいたし、長兄は家の中でも体が大きい自分の事を煩わしく思っていた。
だが、一つ下の弟や二つ下の妹はどうだっただろうかと考えると、まだ二人は小さかったので自分が冒険者になるということをそれほどよく分かっていなかったと今にしては思う。自分が冒険者を目指すと行った時は素直に喜んでいたし、旅立つ時も笑顔で見送ってくれた。
しかしながら、自分が去った後の家はどうなっただろうか。一日や二日ならそのままだっただろう。だが、もしもそれが一週間、一ヶ月、一年と経ったらどうだろうか。
兄弟の中でも弟は特に自分に懐いていたと思う。
姉が貴族の家へ奉公に行ったので家からいなくなり、兄は父親から様々なことを教わり、村の仕事をしていたので兄弟の面倒を見ることは少なかった。
そんな時、兄弟と一緒に遊んで面倒を見ていたのは兄と姉を除いて年長者だった自分だった。だから弟と妹と一緒に、村や山を駆け回り遊んでいた。何かあれば、弟や妹は自分を頼った。一番近しい家族だったから。もちろん自分もそれに応えようと、いつも自分と同じく腹を空かしていた弟と妹に山で採った果物や魚、それも取れなければ食べられる山菜やきのこなどを与えていた。自分が食べるよりも前に。
兄はそんな自分たちを見て、いつも遊んでいるな、と小言を行っていたが、家の食事に父や兄と差をつけられている自分たちにとって、山の恵みは重要な栄養源だったと思う。だが、そんな言葉も今考えると、兄は働いているのに、遊んでいる自分や妹のことを羨ましがっているのかも知れないという考えさえ抱いてくる。
だが、それも兄と話してみないとわからないだろう。
それにしても、今までは考えたことが無かった様々なことが、妹と出会ったことをきっかけにして様々な考えが浮かんでいる。自分が去って行った家で弟や妹がどんな扱いをされたのか。自分と同じだったのか。それとももっと酷かったのか。村の様子はどうだったのか。作物はよく育ったのか。
ナダには想像もつかない。
様々な想像にがんじがらめになり、足さえ動かないように思ってくる。
だが、その度に、ダンが自分を急かすように言う。
「ナダ、急ぐよ――」
怒っているような口調ではない。
むしろ優しく、穏やかに背中を押してくれるような。
ダンには一度、自分の境遇を簡単に話したことがある。だからだろうか。自分の妹を治療してほしいとと自分でも分からないような複雑な表情で言ったので、その時の感情を自分以上にダンは分かっているのかも知れない。
だが、ナダにとって、もう一度妹に会うのはとても億劫になっていた。
もう一度会うと、どんな感情を彼女に抱くだろうか。
悲しみか、憐れみか、それとも別の感情か。
全く分からない。
自分は今、もう一度妹に会うのを怖く思っているのだと思う。どんなに強いモンスターと戦うより、どんなに多くのモンスターと遭遇するよりも。もっと言えば、自分の短い冒険者生活の中で最も恐ろしく思っているのかも知れない。
だからこそ、足が止まる。
何が怖いのかと聞かれれば、妹から話される現在の家族のことが怖いのだろう。今の両親はどうなっているのか。兄は、弟は、彼らは今どんな生活をしているのか、それを知るのがナダには怖かった。
想像しようと思えばいくらでも最悪のケースは想像できるし、考えようと思えばいくらでも家族があの時よりも幸せなことも考えられる。
だが、例えばどちらだとして、自分はよく思うだろうか。家族があの時より不幸になっていたら喜ぶのだろうか。もし不幸になっていたら。そんな考えに答えが出るはずもなく、考えれば考えるほどナダの足は止まる。
もし今の生活を家族が知ればどう思うだろうか。毎日食べられることに幸せだと喜んでくれるだろうか。それとも落ちこぼれだと言われている状況を悲しむだろうか。そんなことがナダに分かるはずが無かった。
そもそもナダにとって、家族とは捨て去った過去の存在だ。
あの時、空腹に苦しんだ末に家を出て、冒険者を志した時にもう過去は振り切らないと決めた筈だった。
だからあれから一度も故郷の兄弟には連絡をしなかった。する余裕もないぐらい冒険者という職業は忙しかった。
だが、どうしてなのだろうか?
妹に会った。それも本人か分からず、自分の名前を知って、自分の姉妹の面影が残っている少女を見ただけだというのにこれほどまでに様々な感情に押しつぶされるようになる。これほどまでに自分は弱い存在だったのだろうか。
ナダには分からない。
あの少女に会っただけで、それも考える余裕が生まれたというだけでここまで自分は弱くなるのだろうか。
「ねえ、ナダ――」
そんな時、ダンがナダへとまた振り返った。
「何だよ――」
「君が今、どんな思いでいるのかは知らないよ。だって、僕は家族との関係はよくて、今でも援助してもらっているからね」
「ああ――」
ナダは生返事だった。
ダンの言葉がうまく自分の中に落ちてこなかった。
「でもね、君の今抱えている感情は多分、会わないと解決しないよ。どれだけ考えようと、来る時は来るんだ。君がどれだけ考えようと、現実は変わらないよ。なら、その時に備えてどっしりと構えとかないと」
「……そうか」
「うん。そんなに不安そうな顔をしないでよ。ナダにはきっと、妹さんのことは受けいれるしかないんだよ。たとえどんな状況であって、ここに来たとしても。君たちは兄弟なんだから」
「ああ、そうだな」
ナダはダンの話を聞いてから、足の進むスピードがいつもの自分と同じになった。だが、早くはならない。そこはまだ覚悟が足りないのだろうと思う。
ナダはダンの言葉を聞いてから、ある言葉が頭に浮かんできた。
――血は水よりも濃し。
ああ。そうなのだ。
どう泣き叫んでも、きっとあの少女と自分は兄弟なのである。この世で自分と最も近い人間に一人なのである。そんな物と、どうやって縁が切れることが出来ようか。それはきっと、父や兄も一緒だ。
どれだけ彼らが自分を煩わしく思おうと、どれだけ自分が彼らを忘れようとしても、きっとその繋がりは何よりも強いのだろう。
そして、ナダは自らの家に着いた。
そこではイリスが甲斐甲斐しく自分の妹の面倒を見ていた。それからダンが妹の顔色が悪い理由を調べると、極度の栄養失調だと診断された。
治療法は特になく、起きたら栄養のあるスープをゆっくりと飲ませればいいとのこと。
ダンとイリスもしばらく用事が無かったということで、ナダと一緒に幼き少女が目覚めるのを待った。
ゆっくりと、その少女は目を開けた。




