第二十八話 ククリナイフⅢ
「そろそろあの件のことは考えてくれたのか?」
コロアはナダを視界にも入れなかった。
いや、そもそもコロアの目にはイリスしか写っていない。それ以外の者は全て不純物とばかりに、彼女だけを視界に入れて離さない。
「……そのことはいい加減断ったと思うけど?」
イリスはうんざりしたように言った。
実はコロアからこのようなことを言われるのは初めてではない。何度も言われている。ナダもこの場面を見るのは今回が初めてではないため、またか、とイリスに同情した。特にナダがこの場面を最後に見たのは、半年ほど前のイリスがまだアギヤに所属していた頃の話で、その間にもこのような事があったのだろうな、とナダは推測した。
「だが、我はそなたが欲しいのだよ、イリス――」
ねっとりとした絡みつくようなコロアの視線。
コロアは色男だった。
身長は少し低いが、細いながらも体躯はしっかりとしており、腰の位置も身長と比べると随分と高い。さらにすっきりとした小顔で、女のように整った顔に真っ赤で美しい髪が肩で揃えられている。少し化粧をすれば、女性と見間違えるような男であった。
そんな男に見つめられれば、普通の女なら“ころり”といくだろうが、残念ながらイリスは普通の女ではなく、自分の顔に近いコロアの顔を冷静に左手で払って退ける。
「残念ながら私にその気はないわ。そう言ったでしょ。忘れたの? 泣き虫コロアちゃん――」
イリスが意地悪な笑みで言った。
コロアはちゃん付けで呼ばれて、表情が少し変わる。過去のことを思い出したのか、頬が少しだけ嫌そうにつり上がったのだ。
この俗称もナダは何度も聞いていた。
その由来を昔、イリスに尋ねたことがあったがどうやらそれは十年以上も前に遡るらしい。
イリスとコロアは幼馴染だった。
三歳の頃にはお互いの名前を知っているような。
そんなコロアとイリスのつながりは本人同士よりも、親のほうが深く強い。
スカーレット家という昔から国内の金融機関を動かしてきた大貴族と、片や傍系ではあるが、国王の従兄弟という立場から様々な面で政治を支えてきたコロアの父親は互いに交流が深く、様々な場面でお互いに協力体制を取ってきた。
だからこそ、イリスとコロアは年も同じだったこともあり、対等な立場として幼い頃からお互いに遊んでいた親しい仲だと学園の者達は知っている。
しかしながら、その実態はイリスの話では少し違ったらしい。
小さいころのコロアは今ほど生意気ではなく、小柄で可愛らしい“少女”のようであったとイリスは語っていた。
それはもう小さい頃のイリスは、コロアをそれはもう“可愛がっていた”と笑顔で話していたのをナダは思い出す。
だが、その内実への、ナダの印象は違う。
確かにイリスはコロアを可愛がっていた。
しかし――彼女はコロアを“妹”のように可愛がっていたのだ。
イリスは小さいころのコロアに可愛いからという理由で男児なのにも関わらず、スカートを履かせたり、ワンピースを着させたりと、自分の着られなくなった服をスカーレット家に遊びに来ていたコロアに次々と着替えさせて、まるで着せ替え人形のように扱っていたらしい。
もちろん女中の娘達を集めた時の遊びはおままごとであり、その際のコロアの役のほとんどが娘役であった。イリス曰くコロアはすんなりと受け入れていたらしいが、イリスの話を聞く限りではそうとは思わない。
イリスはパーティーのリーダーだ。それに相応しい実力を持っているし、その地位に相応しい気概、人心掌握術共に持っている。
だが、その実態は――暴君である。
自分こそが“王”だと疑わない。
迷宮という小さな箱庭での支配者であり、たとえモンスターであっても、冒険者であっても、もしくはそれが自らの信頼するパーティーメンバーであっても、他者の反逆を赦さない絶対的な暴君だとナダは認識している。
その性質は極めて独善的であり、また彼女の天才的な能力がそれにカリスマ性をもたらすのだ。
イリスの過去の話を何度も聞いたナダの印象では、その性格はどうやら幼少期から変わっていないように思えた。
「……残念ながら、我はもうその時の我ではない」
唇に薄っすらと笑みを乗せてコロアは言った。
「あら、残念ね。私は昔のあなたのほうが好きだったわよ?」
「我から見るに、イリスは昔と変わっていないようだな――」
「ええ。それで、話は終わりかしら? 私はね、今からこいつと用があるのよ――」
そう言って、イリスはナダの腕を引っ張った。
まさかこんな形で話に入ると思っていなかったナダは、嫌な顔をしながらイリスによってコロアの前に立たされた。
「……久しぶりだな」
ナダはコロアを見下ろしながら髪をかいた。
「……またこの男か」
コロアはため息を吐く。
「ああ。どうやら俺もあんたと一緒で、イリスには苦労をかけられる人間のようだ。残念ながらな――」
そうナダが言うと、不意にイリスの拳がナダの脇腹に飛んだ。
冒険者らしく、鋭く重いイリスの一撃によって、ナダは呻き声を上げながら膝をゆっくりと落とした。
「コロア、ごめんなさいね。私の不肖の後輩が失礼な発言をして――」
だが、イリスはナダに悪びれる様子もなかった。
コロアはイリスを見ずに地面へと手をつくナダを、無表情でずっと見ていた。
「場が白けた。イリス、この発言をするのは今度にする――」
「そうね。私もそう思うわ。ナダ、行くわよ――」
そしてイリスはナダを連れ添ってその場を去った。
◆◆◆
その後はイリスの意見で夕食に行って“龍の体内”での冒険のことを詳しく聞かれたので、ナダは事細かく説明した。
ただ、あくまでナダが説明したのは自分が見たことだけだった。
コルヴォが纏めた龍の体内での詳細についての資料も持っているが、それについてはまだナダは目を通していなかったのである。
「見たいわね……」
イリスが小声で言った。
「俺の家まで来るのか?」
ナダは無表情で聞いた。
最早彼にとってイリスが家に入るのはそれほど特別なことではない。元から勝手に入ることもあるような女で、さらに一時期は彼女の家に居候させてもらったこともある。ナダは彼女を女性として意識したことなど無かった。
「ええ。別にいいでしょ?」
「……ま、いいけどよ」
「じゃあ、早速あんたの狭い家へ向かいましょうか。どうせ碌な物が無いでしょうけど」
そう言って、イリスは食事の終わったテーブルから離れた。ナダも彼女に続くように店を出る。
その時だった。
イリスがナダの家とは逆方向に足を進めたのは。
「どこに行くんだよ?」
「どうせあんたの部屋は掃除でもしないと汚いんでしょ? 私が来る前に掃除をしときなさい。それまで少しの間、時間を潰しておくわ――」
「分かったよ――」
ナダはそう言って、のそのそと家を目指す。
そこまで遠くはなったので、すぐに自宅に着いた。いつものアパートだ。変わりもしない。ナダは家に帰ってすぐ掃除を始めた。と言っても、物は少ない。狭い室内にはシングルのベッドが一つと、木で出来た簡素なテーブルが一つ。部屋の隅には青龍偃月刀などの武具が置かれてある程度で、それ以外には殆ど物が無い。テーブルに龍に関する書類が入った封筒が開けられないまま置いてあるぐらいだろうか。
ナダには物欲があまりなかった。
だからこんな部屋でも十分だった。
それなので掃除と言っても、特別なことはあまりしない。部屋の埃を叩いたり、ベッドのしわを整えるぐらいである。
そんなことをしているうちにナダの部屋の扉が勝手に空いた。
「相変わらず、つまらない部屋ね――」
入ってきた人物は勿論イリスだった。
服装は先程ナダが見た時と殆ど変わっていないが、片手には少し前と違って“剣”を持っていた。それも中ほどから不自然に折れ曲がっている剣である。その剣の形にはナダは心当たりがあった。
――ククリナイフ。
イリスの愛用の武器であり、現在ではナダも冒険に欠かせない一本になっている武器である。
「大きなお世話だ。で、それよりその剣は何だ?」
「餞別よ――」
そう言って、イリスはナダにククリナイフを投げ渡す。
「はあ?」
「あんた、ククリナイフを手に入れるのに手間取っているんでしょ? だから龍の報告書を見してもらうためにわざわざ自宅から持ってきたのよ。代金は払ってもらうけど――」
イリスの気持ちとしては、このククリナイフは可愛がっている出来損ないの後輩への援助の一つだった。
「……ありがたく頂くぜ。それにしても、よくイリスは予備のククリナイフなんか持っていたな」
ナダは数瞬、ククリナイフを見つめてからすぐにイリスから貰うことに決めた。断る理由など無かった。
特にイリスからはこのような援助は何度も受けており、前に一度断ったことがあったのだがその時の彼女は酷く機嫌が悪くなったのだ。その理由もあってか、ナダはイリスの援助を必ず受けることにしている。
「ええ。あんたと違って、私は予備の武器は何本も用意しているから――」
「そうかよ――」
「それより、あんたの龍の報告書を見してもらうわよ」
「ああ。そこに入っている」
イリスは了解を得てから、ナダの指差した方向であるテーブルの上にある書類を手に取って戸惑いなどなく封を開けた。
「ふーん、コルヴォ、ね――」
そしてイリスは報告書の1ページ目に書かれている作成者の部分に、コルヴォの名前があったことで薄ら笑いを浮かべた。
イリスとコルヴォは当然ながらお互いに知っている間柄であり、お互いにお互いのことを評価しており、特にイリスは彼の様々な能力の高さを評価している。このようなレポートもその一つだ。コルヴォのレポートは分かりやすいとイリスは個人的に思っていた。
「まあ、好きに読めよ――」
あまりナダは書類には興味が無かった。
何故なら字を読むのにまだ脳がなれておらず、長い文章を読むのは未だに苦手なのである。
それからイリスは集中したように書類を隅から隅まで見てから、次のページへとめくる。
時間としては十分程度経ってからだろうか。
ナダの部屋の扉が叩かれたのだ。
「――ナダって奴はいるかぁ!!」
それも丁寧に叩かれたノックではない。拳を叩きつけて雑に大きな音だけを響かせるようなノックだった。
それに野太い男の声。
ナダに聞き覚えは無かった。だからこそ、彼の目は鋭くなり、扉の先にいる男へと睨みつける。
一方のイリスもこの声には表情が鋭くなり、ナダに顎で扉の先へと出て行くように言った。煩かったのだろう。ナダには彼女が苛立っているように見えた。
ナダは念のためククリナイフを腰の後ろにぶら下げてから扉の方へ向かって、低い声を出した。
「ナダってやつは俺だが、あんたは何のようだ?」
扉越しに威嚇するようなナダ。
そうすると先にいる男は、くくっ、と笑いながら言った。
「話がある。外に出ろ――」
「……俺には無いんだがな」
「オレたちにはあるんだ。大人しく表に出ろ――」
命令口調の扉の先の男。
ナダはその声の主を不快に思いながらイリスに振り向くと、彼女は顎で扉の先に行くように示す。どうやらイリスはナダと同様に扉の先にいる男に嫌な気持ちを抱いており、さっさと始末してこい、とのことだった。
ナダはため息を吐きながら扉の外に出た。
「くくくっ、やっと現れた――」
そう言ったのは黒ずくめの男だった。
顔は見えない。
フードで隠れている。
それに、右手には気を失っている子供を一人抱えていた。
「へへっ、あんたがナダか――」
舌舐めずりをしながらナダを舐め回すように見る大男は、黒ずくめの男の数歩前に出ている。服装はジーパンを吐いており、上は素肌の上から黒い革のジャケットをつけて前を閉めていない。
声の出処からして、先ほどナダの部屋の扉を乱暴に叩いた男だった。
だが、その男は大男ではあったが、ナダよりか身長は低かった180ぐらいだろうか。
ナダにとっては身長の区別など、自分より小さい人間と凄く小さい人間しか無いので、大男は小さい人間に分類される。
「で、俺に何のようだ?」
黒ずくめの男を守るようにいる男の数は、大男を含めて四人。誰もが剣をぶら下げている。
だが、ナダの声色は変わらない。
自らを呼び出した黒ずくめの男をまっすぐ見ながら言った。
すると黒ずくめの男が答えた。
「ひひっ、こいつがよぉ、“ナダ”って名前を出したんだ。オレの記憶じゃあ、この町に住んでいるナダって奴はあんたしか聞き覚えがないんでな――」
「確かに俺はそのナダだが――」
「ほう。じゃあこいつに見覚えはあるか?」
黒ずくめの男が子供の首根っこを掴んで顔をナダへと見せる。
幼い少女だった。
髪は長く、顔は土埃で汚れていた。
意識が無いのか瞳が閉じられている。
だが――。
ナダは表情を変えずに言った。
「それで、その子をどうしたいんだ、あんたは?」
ナダの質問に黒ずくめの男はにたにたと嗤った。
「――買ってもらいたいんだよ」
「買う? 俺が?」
「ああ。こんなガキを奴隷として売ったところで二束三文だ。じゃあ、あんたがこいつの知り合いなら高く買ってくれるだろう? どうだ? こいつを買わねえか?」
黒ずくめの男がにたにたと嗤うのと同時に、付き人たちもにたにたと笑い始めた。
「で、幾らで売りたいんだ、お前は?」
「ひひっ、あんたが大物を狩っている冒険者だってことはオレも知っているぞ。その話題でこの街はもちきりだ。ガーゴイルに、ドラゴン、それに数多くのモンスターを狩って、あんたは金持ちなんだろう? 五千万でどうだい?」
男は少女の首に少し力を込めながら言った。
少女は呻き声を上げた。
だが、ナダの顔は変わらず、低く言った。
「そんな金ねえよ――」
「はあ?」
黒ずくめの男の顔が変わった。
「あんたらに恵んでやる大金は無いと言ったんだ――」
「じゃあ、こいつはどうなってもいいのかよぅ?」
男はより一層首へと力を込めて言った。
するとナダはニヒルな笑みを浮かべてから、ポケットの中に入っていた三枚の小銭を男達の前に投げた。
「その金で買ってやるよ――」
「はあ?」
「ふざけてんのか!!」
「舐めてんじゃねえよ!!」
黒ずくめの男の付き人から発せられる怒鳴り声。
さらに男たちはナダに詰め寄るが、ナダは表情を変えることも無く、無言で大木のような腕から放たれる拳を一番近くにいた小男へと叩きつけた。
徒手空拳など習ったことがないナダ。
だが、普段青龍偃月刀を持ち運び、振り回すということを可能にしている馬鹿げた筋力は、一撃でその男を悶絶させて意識を刈り取った。
それと同時に残りの三人も剣を抜き、呼応するようにナダもククリナイフをいつも通り逆手で抜いた。
すぐに近くにいた男へ太い足で前蹴りを腹部へお見舞いすると、続けざまにククリナイフを順手へと持ち替えて大男の脳天を狙うように振り落とす。男はその攻撃を剣で防ごうとしたが、ナダの筋力とククリナイフの頑丈さが、その剣の耐久を上回り、まるで飴細工のように男の剣は砕ける。その反動のせいかククリナイフの軌道はずれて、男の肩へと落とした。肩は切り落とせなかったが、深く刃が刺さったようで男は悶絶していた。
最後の大男は剣を構えながらも、ナダに手を出すようなことは無かった。
久しぶりに見る自分よりか大きな男であるナダが、まるで化物のように見えたからである。
だが、ナダはそんな大男に情けをかけながらも、ククリナイフの柄で大男の頭を殴って気絶させた。
そしてゆっくりとナダは黒ずくめの男へと近づいた。
黒ずくめの男も、既にナダを化け物かモンスターを見る目で見ていた。
だが、その手にはしっかりと少女を抱えており、さらにもう一つの手に持っているナイフで少女の首へと突きつける。
「き、斬るぞっ! この子は俺の奴隷なんだ。どう扱おうがオレの勝手だ!」
黒ずくめの男は腰を抜かしながら少女の柔肌に少しだけ刃を食い込ませて脅すが、ナダは薄ら笑いを浮かべて言った。
「――例えばの話をしてやるよ。その子が“もしも”俺の知り合いだとして、そんな知り合いを抱えている薄汚い男と出会った。普通はその男のことをどう思うと思う?」
ナダは黒ずくめの男の股の間の地面にククリナイフを勢い良く刺した。
「ひいっ!!」
「普通は――その男のことを誘拐犯か何かと思うんじゃないか?」
ナダは笑みを浮かべて言った。
確かにこの町――インフェルノでは殺人などは法によって認められてはいない。特に一般人よりも強力な武器と技術を持つ冒険者がこの法を犯した場合、通常よりも重たい罪に処させ、犯人が逃げた場合も通常よりも厳しく追跡されて捕まえられる。
だが、その一方で、正当防衛が認められているのも確かだ。
だからこそ、ナダはそこを逆手に取った。
「だ、だがな、お、オレの後ろにはマクファーソンの旦那が控えているんだぞ! そんなオレを殺して正当防衛にしようとしたところで、あんたは殺人罪で殺されるんだぜ!」
黒ずくめの男は少し余裕を取り戻しながら言った。
だが、そんな時、ナダのアパートから女が出てきた。
不機嫌な顔を浮かべながら怒鳴り散らすように言った。
「ちょっと静かにしてきてって言ったつもりなのに、あんたは何をしているのよ!!」
ナダは後ろからイリスが出てきたので彼女を親指で指しながら、さらに余裕の表情を浮かべて言った。
「さて、あの女は貴族の娘で、しかもスカーレット家の愛娘だ――」
黒ずくめの男の顔が蒼白に染まっていった。
ナダはとどめを刺すようにまた言った。
「それで、あんたはどっちが良い? その子を殺してあんたも死ぬか? それとも、その子を届けてくれたお礼に銅貨を三枚貰うか? あんたに選ばせてやるよ――」
◆◆◆
「それでその子は誰なの? あんたの行きつけの娼婦?」
ナダのアパートに帰ってきたイリスは、ナダの腕の中にいる少女を見ながら言った。ナダは丁寧にベッドへと少女を寝かせると、複雑な表情をしながらイリスへと言った。
「こいつは――俺の“妹”だ」
忘れるはずもなかった。
少女の顔を。
自分の母や姉に似ている少女の顔を忘れるはずもなかった。
それにどこか、自分とも似ている少女の顔を見間違えるはずもなかった。
だが、久しぶりに自分の親族と会ったナダの心境は複雑だった。




