第二十一話 生還
血の中で意識を失ったナダは、どれぐらい経ったか分からないが意識が戻った。
最初に感じたのは“光”だった。
圧倒的な光。
昼間、いや、日中太陽が照らすそれよりも明るいと思うほどの光量を、ナダは瞼の上から感じた。
それを眩しいと思い、けれども目を閉じたままでいることはなく、ナダは恐る恐る目を開けた。
最初に見たのは自分の両手だった。
血で濡れていた。
右手には何も持っていなかった。左手の甲にはソリデュムが着けられている。他には、何も無かった。ズボンを履いているぐらいだろうか。ナダは記憶を辿ってみるが、自分がそれ以外持っていないのも当然だ。龍の胃液に腐食されたので、全て龍の体内においてきたからである。
「ちっ――」
この損失は、現在ソロで活動しているナダにはとても大きいものだった。
だが、嘆いてもいられない。
すぐに現状を確認するためナダは辺りを見渡した。
そこは、広い空間だった。
ポディエという迷宮の中にいるのに、一つの都市のように広い空間だ。ナダが感じていた光量は、天井を埋め尽くすように生えていた六角形の水晶だ。それらは皆一様に白色に光り、必要以上に迷宮内を照らしていた。だが、天井の中心部分に大きな穴が開いており、その先は闇で光がなく、ナダには何も見えなかった。
それからナダは別の場所を探してみると、少し離れた場所に青龍偃月刀が落ちてあり、必死にその近くまで足を進めて少しだけ軸が曲がった青龍偃月刀をナダは拾い上げた。
そして遠く離れた場所に安らかに眠るように――死体があった。
見覚えはある。
その姿を見たのは一度だけだが、その印象は今のナダには強く残っている。
――赤色の龍の顎だ。
人を遥かに超えるような直径の瞳。人を簡単に飲み込めるほどの大口。青龍偃月刀を遥かに超える長さの白い牙を見せながら、数多くの突起がついたざらりとした舌がだらんと口から飛び出ていた。
その龍は紛れも無く死んでいた。
疑いようがなかった。
外傷は殆ど無く、口から血が流れているだけなのに。
何故なら、ナダから少し離れた場所、龍の近くに血に塗れた――巨大なカルヴァオンが転がっていたからだ。それはナダが見た龍の心臓より小さくなっており、固まりも幾つかに分かれている。大きい物を合わせると四つほどだろうか。だが、そのどれもが簡単にナダに持って帰れるような代物ではない。
「ああ、殺したのか――」
龍の体内から出てきたカルヴァオンを見て、ナダはようやく自分が龍を殺したことを実感する。
目が覚めた当初は自分が龍の心臓を貫いたなんて、信じられもしなかった。今ナダが見ている龍は、小さな山のような体躯を持っている。そんな存在をちっぽけな人間である自分がとどめを刺したと思うと到底信じられなかった。
だが、龍が動かない姿を見ると、ナダは先ほど龍の心臓に偃月刀を貫いた記憶が夢でないことを悟る。
「俺が、殺したのか――」
ナダはそう言葉に出した。
だが、不思議と達成感は湧いてこなかった。
むしろ、心の奥底に安堵が生まれた。
――自分はあの地獄を抜けだした。
肉に四方を囲まれた歪な空間。それもそこには怖ろしい虫が数多くいて、胃液や跳ねる床などの体験したことのない恐怖から逃げ出せられたことに、何よりも自分がまだ生きているということに、ナダはすっかりと安心していた。
大きくため息を一つ吐くと、そこでようやくナダは周りに龍の体内で出会った冒険者が一人もいないことに気付いた。
少し視線をうろうろさせて彼らを探してみるが、ナダが見覚えのある冒険者は一人としていなかった。
彼らはどうなったのだろうか?
ふとした疑問がナダの頭の中に生まれる。
ダンは生きているだろう。
最初にナダはそう結論づけた。
彼だけは“死ぬことがない”。ナダはラルヴァ学園に五年も在籍しているので、癒やしの神のギフトを持った冒険者を数多く見ている。それはアギヤに所属していた時に出会った冒険者も多い。
しかし、そんな数多くの冒険者を見てきたナダが、最も癒やしの神に愛されていると思ったのがダンである。
その力は確かに彼の創りだす回復薬や、彼が与える祝福が強力なのも確かだが、それ以上にダンは自己回復能力に優れているとナダは考えていた。
どんな傷も自らの意志とは関係なく癒やしの神のギフトが発動し、時間が巻き戻っているかのように錯覚するほど瞬時にダンは自らの傷を癒やす。その姿は紛れもない不死身であり、死に近いはずの冒険者であるのに、最も死から遠い人物だとナダは彼を評価していた。
ならば、他の人物は、とナダは考える。
あまり付合いの深くない彼らの能力は分からないが、その中でセレーナのアビリティである《独りよがりの箱庭》の中に入れば、龍の心臓から血が溢れだしたあの時でも生きているだろうとナダは思った。
セレーナ以外もあの空間に入っていれば、いや、そこまで考えてナダは思考を放棄した。
なぜなら、龍の心臓の近くにいて、最も呼吸困難だった自分が生きているのだ。
彼らも生命力が高ければ生きているだろうと、強引に結論づけた。
ナダはそれから体の調子を確認した。
よくはない。
それもそうだろう。龍の体内の中に長時間いて、さらには血の濁流の中では呼吸もしていなかった。
だが、不思議と――悪くもなかった。
確かに体の節々は痛い。だが、“虫”と戦っていた時ほどの激痛はなく、ダンジョンの浅い階層までならゆうゆうと突破できるぐらいの体力は残されていた。
何故だろうか?
理由は分からない。
考えたくもなかった。
今のナダに残された思考と言えば、早く帰って体を休めたい。今日は疲れた。そんな凡夫めいた考えしか無かった。
すぐにナダは今のドーム内から出口を探した。
――あった。
遠くに。ドームの外に繋がっている人を通れるぐらいの穴が。
ナダはそこに向けて一歩足を踏み出すと、すぐに思いとどまったように歩みを止めて、冒険者らしく自分が討伐した龍のカルヴァオンへと視線を移した。
ナダにはそれがとても魅力的な物に見えた。
特大の、それも色の濃いカルヴァオンが四つもある。
あれがあればどれほど自分の生活は潤うだろうか。
すぐに勘定したくもなった。
ナダは弾むような気持ちで四ツのカルヴァオンへと近づいて、少しだけ口角を上げながらそのカルヴァオンを右手で触って、表面のごつごつとした様子を楽しむ。
しかし、そこでナダは気付いた。気付いてしまった。
ナダが手に入れた特大の四つのカルヴァオンは、そのどれもが――自分の腰まではあろうほどの高さと横幅がある大物だ。
そんな大きな代物をどうやって持って帰ればいいのかナダには分からない。何故ならナダは袋はおろか、上半身には何も着ていないからだ。
それでもナダは諦めずに偃月刀で何度かカルヴァオンを殴ってみるが、手に鈍い痺れが伝わるだけで亀裂も入らない。
「はあ――」
ナダは深い溜息を突いてからそのカルヴァオンを諦めて、大人しく自分が見つけた出口へと向かう。最早彼にはこの空間を調べるような気力すら残されていなかった。けれども出口へ向かうまで、何度も何度も特大のカルヴァオンへ振り返る。その度に深い溜息を吐きながらナダは自らの歩みを進めた。
そして、出口へとナダは辿り着いた。
明かりが殆ど無く、狭く、闇のような道へ。
ナダはそこに何歩か足を踏み入れると、やっぱり名残惜しそうにこれまで自分がいたドームの空間の綺羅びやかな明かりを見つめた。
――その瞬間だった。
ナダに地殻変動が襲ったのは。
彼が立っていられなくなるような地響きを起こしながら、天井も崩れたナダのドームへの道を埋める。
それからすぐに地殻変動は治まった。
だが、ナダは未練がましく岩石によって閉じられた道を、その先にある特大のカルヴァオンを夢想しながらずっと見つめていた。
自らの決心が着くまで、ナダは自宅に帰ろうとはせずにその場所に留まり続けた。