第十七話 心臓Ⅲ
セレーナは自分の胸に突き刺さるランスをずっと見ていた。
泣きもしなかった。
喚きもしなかった。
まるで他人事のように胸に突き刺さるランスをずっと見つめていた。
その時にはもうランスの痛みはおろか、先ほど虫に蹴られた時の痛みが無かったのは事実だ。
太いランスが自分の胸を鎧ごと貫いていたとは思う。その矛先は自分の体を通り、後ろにある壁に突き刺さっていたと思う。だが、それはあくまで予想であってセレーナには本当に刺さっているかどうかわからなかった。
何故ならもう――感覚が無かったからだ。
背中を預けている龍の壁から感じる鼓動ももう聞こえず、着ている服の感触すら分からない。そもそも、自分の胸に突き刺さるランスの冷たい感触も最早感じなかった。だからこそ、後ろにある壁にランスが刺さってそこから龍の血が出ているかどうか、セレーナには分からなかった。
「アマレロ! セレーナを!」
野太い男の声が聞こえた。
大男だっただろう。
彼はすぐさまセレーナの前にいる虫を追い払うように大槍を振るった。虫はランスをセレーナの胸から抜いて大男から距離を取る。
大男はすぐにセレーナの前に庇うように立ち、もう一人の男がセレーナに近づいてきた。
「だ、大丈夫でござるか?」
目の前の男はそう言うが、セレーナは返事も出来ずに口元を手で覆い、咳き込んで口から血を吐いた。
真っ赤になった両手を見つめながら、ああ、死ぬのか、とセレーナはまた血を吐きながら呟く。
アマレロはすぐにセレーナの胸の鎧を脇差しで切り開いて、露わとなった胸元を覗き込んだ。するとちょうど胸の中心、心臓のあたりだろうか。どくどくとまるで噴水のように赤い血が溢れだす場所には――風穴が開いていた。
かなり深く、大きな傷であった。
アマレロはそのあまりの惨劇に一瞬言葉を失った。
白い骨や心臓らしき部分まで見えたからだ。
これを治すのは絶望的だとアマレロは瞬時に悟る。
何故なら――ここは迷宮だ。
まともな治療用具など無ければ、そもそもアマレロは医者でも治癒師でもない。アマレロは自分の所持品を確認するが、手ぬぐいと簡単な携帯食料しか持っていなかった。すぐに視線を変えてセレーナの所持品を確認するが、こちらも少しの包帯しか見当たらない。
アマレロは手ぬぐいと包帯を重ねあわせたもので、セレーナの胸元の風穴を防ごうとするが、すぐに手ぬぐいと包帯は真っ赤になり、上から押さえつけたアマレロの手も紅に染まる。
どうやらこの程度の包帯では、セレーナの傷はふさがらないらしい。
「ナダ殿! 何か治療薬は持っているでござるか?」
アマレロは残る可能性に賭けてナダに聞くが――
「ねえよ! 酸で全部やられたから置いてきた!」
どうやらナダももう何も持っていないらしい。
ナダは虫と闘いながらそう言うが、実際は彼も満身創痍だった。これまでアマレロとセレーナの三人でやっと虫に対抗していたというのに、今はナダ一人で虫を食い止めている。
それも、セレーナとアマレロに向かおうとする虫を、だ。
虫が二人に注意を向かないようにナダは猛攻を仕掛けていた。
右手で偃月刀を、左手にはククリナイフを持ち、至近距離で虫と戦っているのだ。ナダは偃月刀を振るうのを止めない。どれだけ虫が避けようと追いかけるように偃月刀を振るう。虫はランスで防ぐことが多かった。その際、ナダは片手で偃月刀を振るっているので多少、力負けをしているのならすぐに方向を転換、体を回転させるようにランスを躱し、偃月刀を伸ばす。
今度は虫がナダから離れるように動いた。
すると、即座にナダは虫に向かってククリナイフを投げた。
虫の注意が、セレーナとアマレロの二人からナダへと移る。そこを狙って、またナダは青龍堰月刀を振るう。流石に虫もそれは無視できないのか、ナダへと注意を変えた。ナダは偃月刀をふるいながら、一つ、また一つと浅い傷を負っていく。
ナダはもう致命傷にならない傷ならランスを避けなかった。
ランスを避ければ、それだけ虫に“猶予”が与えられる。
その時間を嫌ったのだ。
だからこそ、多少、脇腹や太腿にランスが掠るぐらいなら平気で偃月刀を振るって、そこに勝機を見出す。
だが、いずれの攻撃も虫に対して効果は薄かった。分厚いのだ。虫の鎧甲が。その金属の鎧のような鎧甲は、ナダの斬撃を簡単には通さない。さらにその原因の一つに、ナダは一撃の重みよりも左手でククリナイフやソリデュムなどを使って、手数で虫に隙を与えないようにしているのだ。
そのどれもが、アマレロとセレーナの命を守るためだった。
だが――その努力も虚しかった。
「どうやら私はここまでみたいだな――」
セレーナは血をアマレロに吐きながら言う。
既に視界はぼやけていた。
目の前で戦っている虫とナダの境界線がつかないほどに。
「セレーナ殿! 気を確かに持つでござる! もう少し持てば――」
アマレロはそう言うが、彼自身も殆どセレーナの生存を諦めていたのも事実だった。
それでも、セレーナの胸に包帯などを強く当てているのは、ナダに頼まれたからだ。ここで自分が諦めて、ナダに加勢するのかと聞かれると、それは自分の選ぶ道ではないと思ったのだ。
「――私も分かっているさ。もう無理なことぐらい」
セレーナは諦めたように呟いた。
死ぬ、とはこういうことなのだろうか。
セレーナはもうまともに働かない頭で考えていた。
そんな彼女が最後に抱いた感情は――寒かった。
寒いのだ。
体が。
体は温かい血液に包まれている筈なのに、セレーナはとても寒かった。
まるで体から熱が失われているようだった。これまで自分が歩いてきた人生が、まるで“熱”として体から抜けているようだった。
――これが死ぬということなのか。
セレーナはそう考えた。
激しい喪失感に襲われていたのだ。
死ぬ寸前にいたとしても、セレーナは走馬灯のような過去を見ることは無かった。
ただ、ただ、寒かった。
とても寒かった。
「セレーナ殿!」
誰か自分のすぐ近くで、何度も何度も名前を呼んでいるような気もするが、セレーナは最早耳もまともに聞こえなかった。
寒いまま死ぬのか、そういった思いしかないのだ。
せめて――もう少し温もりが――
そんな感情を最後に抱きながら、セレーナの最後に目入ったのは、ナダと虫の戦闘だった。
死ぬ間際だったからだろうか。
その戦闘ははっきりと見えた。
「くそったれ!」
肉の部屋に飛び交う怒号の持ち主はナダだった。
今も偃月刀を振るっている。
だが、すぐに虫に押さえこまれている。
左手に付けていたのはソリデュムだ。ククリナイフは一度投げたためか、地面に転がっている。
力が、足りない。
ナダはそう思っていた。
人馬一体の生物である虫に対して圧倒的に筋力と体格が足りない。今だってそうだ。ナダは片手で虫の顔に偃月刀を伸ばす。遠い。どれだけナダが巨漢であろうとも、青龍堰月刀がいかに特大武器であろうとも、馬に乗ったかのような大きさを誇る目の前の虫には幾分、足りない。
ナダの偃月刀は左手に付けられた盾によって簡単に防がれた。虫はそのまま前足を高く上げて、その勢いのままナダへと振り下ろした。
ナダはそれを避けることも考えたがそんな思考をすぐに捨てて、転がるように虫の足元に潜り込む。そこを、ナダは“嵐”のように感じた。次々と自分を踏みつけるにつれて激しくなる四本の足。おそらく、その一撃一撃がナダにとって致命傷になりえるだろう。もし頭などを踏み潰されればそれだけで死んでしまうのは明らかだ。
ナダは冷や汗をかきながら偃月刀を振り上げて虫の馬の部分の腹を狙うが、その前に偃月刀が足によって押さえつけられる。その衝撃に耐え切れなかったのか、ナダは偃月刀を手放してしまった。
だが、攻撃の手は緩めない。
左手を引いて、ソリデュムから刃を出す。氷のように白銀の薄い刃だ。それで先ほど偃月刀で狙っていた部分を刺した。
ナダの狙い通り、馬の下腹の部分は鎧甲が薄いのかソリデュムが刺さる。今度はナダの左肩に酸が飛んで皮膚が爛れた。だが、浅い。虫に傷は負わせられても、そのソリデュムの刃は虫にとって致命傷になり得ない。
ソリデュムが馬に刺さり、その瞬間、もう少しソリデュムを押し込もうとナダの動きが少し止まる。
馬はその隙を狙って、ナダを前蹴りで飛ばした。
ナダも流石にその攻撃は避けられなかったのか腹に直撃するが、後ろに飛んだため、腹が捩れるような痛みだけで澄んだ。その代償として、腹に蹄の後は残っているが。
ナダはそんな攻撃を受けたとしても、床に寝転がっている暇は無かった。
虫の狙いがすぐにセレーナとアマレロの二人へ移ったからだ。
ナダはすぐに体を起こす。先程のダメージのせいか、膝ががくっと落ちるが、気にせず無理やり立ち上がった。ナダは膝が不安定なためか視線が少し落ちる。すると、すぐ近くに落ちたククリナイフを見つけた。先ほど虫に向かって投げた武器だった。
ナダは手元に青龍偃月刀というメイン武器がないため、すぐにククリナイフを拾って右手に持つ。そしてセレーナとアマレロの二人へと走ろうとする虫に向かって全力で走る。
幸い、今のナダの体は軽い。重たい防具を一つも身に着けていなければ、青龍偃月刀も持っていないからだ。
だからこそナダはその軽さを活かして、虫の後ろに回り込んで、跳びかかった。
まるで馬の部分に乗るかのように。
「流石にあんたもここからなら攻撃出来ないだろっ!」
ロデオのように全身を激しく暴れてナダを振り落とそうとする虫。
ナダの目論見どおり、虫は背中にいるナダにまともな攻撃を与えられない。ランスになっている右手も、盾となっている左手も、また頭に生えた角もまともに届かないからだ。
ナダは虫に対して有利な状況を取ってから、ククリナイフを両手で持って、その人の部分の背中にちょうど鎧甲と鎧甲の間を狙って抉るように突き刺した。
虫が血液代わりに持っている酸が背中から飛び出てナダの顔、並びに両手などに振りかかるが、ナダは突き刺さしているククリナイフから決して手を離さない。
歯を食いしばりながら必死にククリナイフにしがみつく。
虫はナダを振り下ろそうと必死にその場で暴れまくった。
その際、ナダの体は宙に浮いて、虫と繋がっている部分がククリナイフの柄だけになるが、それでもナダは必死の形相でククリナイフを手放さなかった。
だが、ナダが手を離す前にククリナイフのほうが先に虫から落ちた。刃の部分が酸で腐食し、刃の破片が虫の鎧甲の隙間に刺さったまま、ククリナイフの刀身が折れたのである。
すぐにナダの体は宙に投げ出されて、床に転がる。
最早虫は二人を注意する気も無く、ナダにだけ視線を向けていた。
ナダは地面に背中から落ちるとすぐに立ち上がろうとするが、体勢が整う前に虫が走ってきて全力の体当たり。
ナダは今度は威力を軽減することも出来ず、固い蹄を腹に浴びたため絶叫しながら床に転がった。ナダは床に吐血する。だが、そのまま寝転がっているようなことをせずに、使い物にならなくなったククリナイフを捨てて、ナダはもう一度立ち上がろうとした。体は度重なるダメージでふらふらだった。
虫は今度はランスを脇に構えて、ナダへと一直線に走ってきた。
ナダはその攻撃を避けようとするが――体が動かない。
顔が青色になり、ナダは呼吸困難に陥っていた。
先程の蹄がみぞおちに入っていたのだ。
ナダは迫り来るランスの刃先を見つめながら、自分の最後を確信するが口からはひゅーひゅーとまるで空気が漏れるような声しか出ない。
――ここまでか、ナダはそう思いながら自分に近づくランスをずっと睨みながら最後の最後まで虫のランスチャージを避けようと必死になって足掻くが、どうにもこうにも体は言うことを聞いてくれない。
そして――
「――うぉりゃあああああああああああああっ!!」
――ナダにランスが当たる前に横槍が入って、虫による突進の軌道がずれた。
その者は、赤い髪を持った男だった。
両手で白銀色のロングソードを持った男だった。
「おいおいおい! なに、お前らだけで面白そうなことをしているんだよっ! 俺もちょっとは混ぜやがれ!」
その男は――ブラミアは虫の攻撃からナダを守った後、その場に悠然と立ちながら言った。
「うるせえよ。お前の声は頭に響く――」
ナダもやっと呼吸困難から立ち直ったのか、腹を押さえて体を何とか持ち直しながら言った。
そんなナダの顔は、少しだけ口角が上がっている。
「それが命の恩人に向かって言う言葉か! あ゛あ゛!」
ブラミアはナダに近づいて怒鳴るように言った。
「それより……セレーナは?」
ナダの心配は虫のことよりも、先程見る限り死にそうだったセレーナに向けられる。
「それは大丈夫だろうがっ! なんたって、あの治癒師は凄腕なんだろ?」
そういうブラミアの言葉と共に見たセレーナの場所には――ダンがいた。
ナダはダンとブラミアという心強い味方が加わっただけで、もう少しだけ頑張れるような気がしてすぐに青龍堰月刀の元まで走ってそれを拾い上げた。
◆◆◆
「もう大丈夫だよ」
ダンはセレーナとアマレロの二人に近づくとそう言った。
「ダン殿、セレーナの傷は……」
だが、セレーナの血を何とか止めようと包帯で頑張っているアマレロの両手は赤色だった。
セレーナもダンが来たことが分かったのか、瞳がほんの少し揺れ動くが、もう虫の息なのは間違いなかった。
「心配しないでよ。アマレロ。僕はね、九割死んでいる人間なら生き返らせることが出来るんだ。もうその手を離していいよ。ありがとうアマレロ。君のおかげで、ここまでセレーナの命は守られた。これから先は僕に任せてよ。それよりも――アマレロにはもっと重要な仕事が残っているんじゃない?」
ダンはそう言いながらアマレロの手をセレーナの胸部から外して、ナダとブラミアへと視線を向ける。
アマレロもその意味が分かったのか、まるで水を得た魚のように笑いながら言った。
「そうでござるな。拙者にはどうやら人を救うというよりも、怪物の命を奪うほうが性に合っているみたいでござる――」
アマレロはすぐに二人の元へと向かうように走って行った。
ダンはその姿を見届けることもなく、すぐにその上に置かれている包帯を取って彼女の胸に開けられた風穴を見た。その傷穴から出る血は先程よりも勢いが少ない。
すると彼女に最適の治療が見つかったのか、持っている自分の鞄から瓶に入った治療薬を何本かと、糸がついた針を取り出しながらセレーナに向けて言った。
「セレーナ、大丈夫だよ。君はまだ生きている。そして、これからも絶対に生きる。僕が絶対にその生命を助けるからね――」
セレーナは最早ダンに返事することも出来なければ、彼が現れてくれた嬉しさに涙をながすことも出来なかったが、一つだけ、思ったことがある。
熱が、熱が自分に戻ってきたような気がしたのだ。
ダンの掛ける言葉と、彼の手の温かさから。
そして、セレーナはその温もりに安堵していると、まるで眠るように意識が無くなった。




