第十二話 疑惑
あの手を手放してしまったことをダンは思い返していた。
深い暗闇に堕ちる前、ダンは一人の女性の手を見た。セレーナだ。セレーナの手だ。彼女の手をちゃんと掴めなかったことをダンは後悔していた。
きっと――自分以上にセレーナのほうが、自分を助けられなかったことに悔いていると思っているから。
ダンとセレーナの出会いは二年前まで遡る。
その頃には既にダンは今のパーティーに所属しており、セレーナは単騎でどこのパーティーにも所属しなかった。
後から聞いた話だが、どこかのパーティーに所属して安定した冒険をするよりも、自らのアビリティを活かしてカルヴァオンやお金を対価にしてどこかのパーティーに一時だけ入ったほうが稼ぎがいいからだと彼女は述べていた。
もちろん、その頃には既にダンはセレーナのことを知っていた。向こうは自分のことを知らなかったが、彼女のことは学園でも有名だったのだ。
曰く――迷宮のオアシス、との通り名が彼女にはあった。
その名の通りに彼女がパーティーにいると、冒険は円滑に進んだ。本来、冒険者は迷宮に一度潜ると一瞬でも気を抜けない。たとえ、目の前にモンスターが現れなくても、様々なタイプのモンスターが迷宮にはいる。例として上げるのなら、天井にコウモリのように張り付いているモンスターだったり、カメレオンのように壁と同化しているモンスター、はたまた、モンスターの死体に偽装したモンスターも存在していると聞く。
だからこそ、冒険者は休憩中でも気を張ってなければならない。
しかし、セレーナがいれば、《独りよがりの箱庭》によって、迷宮内でも気を抜ける空間にいられるのだ。やはり神経を常に使いながら休憩するのと、しようと思えば居眠りさえできるセレーナのアビリティの中で休息を取るのだと、後者のほうが圧倒的に力が取れるのだ。
事実、当時のセレーナは冒険者にとっては大人気だった。
アギヤのように、彼女を使わないパーティーももちろん少なからずあったが、多くのパーティーが彼女を欲していた。特に実力はあるのに冒険者として一歩上へと行けないような中堅パーティーほど彼女を欲していた。
現に当時から中堅パーティーより少し落ちるほどの実力しかないセーカも、彼女へ何回かコンタクトを取ったことがあると当時のリーダーは言っていた。だが、当時はセレーナは、セーカに入ることはおろか、他のパーティーの予約が多すぎて助っ人にすら入らない状況だった。
そんな風に、頑なにパーティーを組まなかった彼女がどうしてセーカに入ったかということを考えると、ダンは――あの日のことを思い出す。
その日、ダンの所属しているセーカは迷宮に潜っていた。いつもどおり、中層から浅層の間ほどの場所を中心に冒険していた。当時のセーカに中階層に安定して潜る実力はなく、それらの触りを味わうだけで苦労していた時期だ。
そんな時、ダンたちは迷宮を攻略している時に、一つのモンスターに蹂躙されているパーティーを発見した。
もちろん、ダンジョン内でのパーティー同士の助け合いは推奨されており、助けられた方は一部、助けた方に報奨金を払うという決まりまであるくらいだ。
セーカは当然のように彼らを助けた。もちろんその要はダン、だった。通常ならパーティーにいない癒しの神のギフトの持ち主であり、迷宮で傷ついた冒険者を見たらたとえそれが誰であっても自らの力で傷を治すという癒しの神と同じく、病める者ならどんな者でも救うという精神を持っている。それは教会の教えの一つであり、ダンはそれを頑なに守っていた。
そのダンが治療した中に、セレーナがいた。
特に死にかけだったセレーナの命を救ったのは、ダンのギフトの力が大きい。彼がいなければおそらくモンスターは倒しても、セレーナは治療の施しようがないような状況だった。
「私は君に命を救われた。今後、この命は君のために使いたいと思う――」
迷宮で気を失って、病院で目覚めた後にダンがお見舞いに行くと、ベッドの上のセレーナからそう告げられた。
もちろん、ダンもいきなりの彼女の発言に驚いたのは言うまでもなく、最初その申し出をダンは断っていた。そんなことのためにセレーナを助けたのではなく、教会の教えに従って助けたんだと。
だからわざわざそんなことをしなくてもいいとダンは言ったのだが、セレーナは聞く耳を持たなかった。
それからダンはセレーナと数多くの話をし、彼女が騎士の家系であることを知った。かつては王に使えていた騎士を先祖に持ち、その初代からずっと今に至るまで自らの主を見つけることが我が家の誇りであり、名誉であるという教育を受けたこと。
また、自らのアビリティである《独りよがりの箱庭》にあぐらをかいて、あまり剣術の訓練をしなかったことも今回の失敗の一因だと彼女は述べていた。
それから紆余曲折して、セレーナがセーカに入るということで、ダンは妥協した。本来ならそれすらもダンに取っては不本意なものであったが、彼女がセーカに入ることに他のパーティーメンバーが反対することはなく、彼女は自然とパーティーに受け入れられていた。
元々、頼み事をされると断りきれないお人好しのダンの性格なので、セレーナの加入の原因がいくら自分にあろうとも、強くセレーナに押されると断りきれないのが現状だった。
そして彼女がセーカに入ってから今まで、自分はセーカという環境でセレーナに保護されてきたとダンは思っている。そして彼女の保護は妄信的であり、自分が少し怪我をしただけでも「ダンを守れなかった」と自分を卑下することが多々あったのだ。
それなのに、今回はセレーナの手を自分は掴めなかった。
どれだけ彼女がそのことに絶望しているかと思うと、ダンは気分が重たくなる。
そんなことを、ダンは夢見ていた。
「――おい、起きろ!」
そんなまどろみに沈んだダンの意識を引き上げた声があった。
男の声だった。
酷く、大きな声で、怒鳴っているような気もした。
「誰……?」
ダンは目を少しずつ開けながらその声の持ち主を確認した。
知っている人物だった。
「おい、大丈夫か?」
ブラミアだった。
それも右眼から顎にかけての炎のような刺青が印象的であり、記憶の中の彼の姿と相違はない。
「う……ん。大丈夫だけど……ここは……?」
ダンは先ほど、意識を失う直前のことを思い出していた。
急に足元が抜けて、セレーナの手を掴もうとしたのだが掴めずに奈落に落ちてしまったのだ。
どれだけの高さを落ちたのかは不明だが、どうやら自分はその途中に意識を失ったらしく、記憶がはっきりとしていない。
ダンは床の素材である弾力性のある肉の床を触りながら、おそらくこの床がクッションになって自分の命を救ったのだろうと考えていた。もちろん、あばらが何本か先程の衝撃で折れているが、肺などの内臓には刺さっておらず、どうやら命の別状はないようだ。
すぐにダンは自分に癒しのギフトを施していると、ブラミアが現状を話しだした。
「龍の体内のどこかだ。場所は知らねえよ。オレも落ちている途中で気を失ったからな。それより――他の五人が見えねえんだが、はぐれちまったのか?」
ブラミアと同様にダンも上体を起こして辺りを見渡すが、そこに他の仲間の姿はなくあるとすれば地面から生えた無数の刃が突き出ているような床だ。幸いにも自分たちがいるところに刺はないが、一定間隔でその刺はあり、自分たちの行く手を阻む。
「そうみたいだね……。皆、大丈夫なのかな?」
ダンはブラミアに力のない笑みを見せながら言った。
「……さあな。ただ、オレの予想だと、コルヴォは生きていると思うぜ。他の奴らは知らねえよ」
「確かにコルヴォさんは生きてそうだね。あの人はこの程度の苦難は何度も味わってそうだし。それにしても……セレーナが心配だね」
そのダンの言葉に引っかかったのか、ブラミアは首を傾げた。
「あのビニャの大木じゃなくて、あの褐色女の心配をするのか? あの女は大丈夫だろうが。あのアビリティがあるんだからどこかであれを使えば、落下から免れるだろうよ。それより、普通なら何の力もねえビニャの大木を心配するんじゃないか? お前らは友達なんだろ?」
不思議な顔をするブラミアにダンはくすっと笑った。
「確かにはたから見ればそうかもしれないね。でもね、ナダはあれでも悪運が強いんだ。きっと死んでないと思う。それよりか、精神的に不安定なセレーナのほうが大変だよ」
「そうなのか。じゃあ、あいつらを探すのか? ここからじゃあ脱出口を探すのも無理そうだ――」
ブラミアは周りを見ながら、セレーナやナダを見つけるのすら難しそうなことを悟っていた。
見渡す限り、刃の群れ。
あの刃は毒々しい形をしており、剣のような直刃ではなく、外敵に血を流させるためのような乱れ刃だ。触れるだけで怪我しそうなほどだ。
「そうだね。そもそも、僕は治療しか出来ないんだ。脱出する方法なんて見つからないよ。ブラミアだって、自力で脱出するのは不可能に近いよね?」
まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべて聞くダンに、ブラミアは頷くしか無かった。
◆◆◆
一方、場所は変わって、そこは肉でできたドームのような空間だった。
二人はそこに落ちた。
コルヴォと、クラリスだ。
コルヴォは先ほど上から落ちた時に肋骨が折れ、目の上には青あざができていて少々痛みが気になるため、腰のポーチの中にある痛み止めを飲んで、中身が無くなった瓶を肉の床の上に投げ捨てた。その際、鎧と服が傷ついていることに気づいたが、コルヴォは気にしない方向にした。
クラリスは気を失ったかのように肉の上に横たわっており、コルヴォは外傷が一つも見当たらない彼女を流し目で見ながら目の前の敵を見据える。
虫だ。
虫が彼の目の前にいた。
虫は一匹だった。
だが、その虫は以前に見た虫よりも遥かに大きかった。
いや、前の虫よりももっと――鋭利に思えた。
金属のような白銀色をしており、全体的に武器のようなフォルムをしている。
シャープな形をしている体は細く、前体部と後体部に目に見えて分かるほどはっきりと分かれており、後体部には素早く動けそうな細い筋肉質の足が四本付いている。前体部の二本の前足と思われる場所の先端には丸鋸がついており、まるで死を奏でるような金属音が肉のドームに深く響いた。
また目の部分は赤く光っており、そこに生物的特徴はなく、まるで機械で作られたモンスターのようであった。
「中々、骨のある敵が出てきたよ――」
コルヴォはかすかに笑いながら腰の翡翠の剣を――抜いた。
その刀身に傷は一つもない、圧倒的な碧色であり、薄く光っているようにも見える。それは刀身から柄まで翡翠で作られており、まるで強大な翡翠の石を丁寧に磨き上げて作り上げたような剣だった。故に鍔がなく、刀身と柄の境界線も曖昧だ。かろうじて、刃がないところが刀身と言えると言ったところだろう。
コルヴォは乱雑にその剣を右手に持ちながら、自らのアビリティを述べた。
「《鬼殺し》」
それはコルヴォの持つ唯一技能だった。
瞬間――コルヴォの右腕が肥大した。まるで空気で膨らましたかと思うほど、ぱんぱんに右腕が膨れていく。ただし、筋肉だけではなく、骨までもが肥大しており、コルヴォの身長と同じほど右腕は長くなり、さらに女性の腰かと思うほど腕は太くなっていた。
その姿は、人というよりまるで“鬼”のようで、青い血管が力こぶから醜く浮き出している。
その腕から見れば、翡翠の剣はまるでナイフのように見えた。
普段の敵では、ただのモンスターでは使うに値しないほど強力なアビリティだ。だが、その効力としては至って単純で――本人の筋力を上げるということ。
似たようなアビリティを持つ冒険者はたくさんいるが、コルヴォほど見た目に分かるほど筋肉が増加し、また骨も共に成長するようなアビリティは彼しか持っていない。
「さあ、行くぞ。化け物――」
コルヴォは久しくなかった自らのアビリティを発揮する機会に恵まれたことに歓びながら肥大した腕を天高く上げて、愉悦した顔で目の前のモンスターに語りかけた。
それに答えるようにその虫は丸のこを高速回転しながらコルヴォに近寄った。
そして、一振り。
コルヴォは真正面から虫の丸のこを叩き割る。今は回転していて見えないが、丸鋸には無数の刃が突いており、たびたびそれに翡翠の剣が引っかかるが、翡翠の剣の耐久力は丸鋸によっても傷つけられることはない。
そのままコルヴォは片方の丸のこを叩き折り、すぐさま、同じ斬撃を虫の顔面へと浴びせた。
虫は綺麗に真っ二つとは行かずに、ヘルメットのような顔面が少し潰れただけだった。
だが、コルヴォはその顔面を何度も剣を振るって徐々に潰していき、やがては地面に粉々になって鉄くずへと変わり果てるまで斬撃を続けた。
「はあ、このアビリティはやっぱり疲れるね――」
何回振っただろうか。
コルヴォはその回数を覚えていない。
だが、目の前の鉄くずがモンスターだったのは確かだ。何故なら鉄くずの中から鈍く光るカルヴァオンが見えるからだ。
コルヴォの経験上、そのカルヴァオンは持ち帰るに値しないものであることを確認すると、今度はすぐ真下にある床に向かって、肥大した腕で切りつけた。
だが――床は少しピンク色の肉に切れ目が入ってすこし赤い血が流れるだけで、断ち切れるまでには行かない。
このアビリティで龍の腹を切れれば簡単に脱出出来るのに、とコルヴォは思うが、あまり悲観してはいなかった。何故なら以前戦った龍も似たような結果であり、自分の力では龍を簡単に倒すのは無理だと分かっていたからだ。
それに《鬼殺し》は筋力を上げるアビリティであって、切れ味を上げるアビリティではない。翡翠の剣は斬れ味が良いと言ってもブラミアの持つ武器より少しいいくらいだ。その程度では龍に通用しない。
「――で、起きているんだろ? クラリス。そろそろ狸寝入りを止めたらどうだ?」
そしてコルヴォは後ろで横になっているクラリスを睨みつけながら言った。
その言葉に反応するようにクラリスは起き上がって、アヒル座りをしながら苦い笑みを受かべながら「あはは」と笑っている。
「バレちゃいましたかー。いやー助かりましたよ。コルヴォ先輩と一緒で。だって、あんな怖いモンスターがすぐ近くにいましたもん。私一人じゃ、絶対に殺されてましたよー」
クラリスはほっとしたような声で語るが、コルヴォの表情は変わらなかった。
「それで、どうしてなんだ?」
コルヴォの口調は変わらない。
依然として、厳しいままだった。
「どうして、とは起きていることですか? いやですねー先程のモンスターとコルヴォ先輩の戦闘音で起きたんじゃないですかー」
「――嘘だな」
だが、コルヴォはそんなクラリスの言葉をすぐに切り捨てた。
「そんなわけないじゃないですかー」
クラリスは頬を膨らませてコルヴォに訴えるが、それでも彼は変わらない。
「嘘を言わないでくれよ。あそこから奈落に落ちて、無防備なオレは肋骨が折れた上に顔にこんな痣まで出来たんだ。おそらく服の下にはもっと痣ができているだろう。それに比べて君はどうだ? 外傷が一つも見当たらない。鍛えているオレでもこれなんだ。本来、ギフト使いである君がそこまで無傷なのは、何らかの方法で地面にぶつかる直前に落下のダメージを対処して、無くしたからしたからだ――」
「運がよかったんですよー」
クラリスはぷんすか怒りながらコルヴォを怒るが、彼はため息を吐いた後で話を続ける。
「じゃあ、質問を変えようか」
「いいですよー。何の質問ですかー? やっぱりこれからのことですよね。私としては、皆を探したほうがいいと思うんですがー」
「――君はなぜ、ギフトを使わない?」
コルヴォの質問が核心をついたのか、クラリスの呼吸が一瞬だけ止まった。
「ギフトなら使ってますよ―。ほら、大岩を破壊する時に使ったじゃないですかー?」
だが、とぼけた声でクラリスは言った。
「違う。そうじゃない。君のギフトは闇の神なのだろう? 闇のギフトの本質は――破壊の力だ。その本質はどんなものでも侵蝕して、壊す。そんな力を持つ君は、どうして闇のギフトで龍を破壊しない?」
そもそも一番破壊力のあるギフトは、闇のギフトだ。
それはどんなモンスターにも通じ、仲間へとその破壊の力を黒い闇の奔流として渡すことも出来る力だ。
もちろん、コルヴォもそのような知識を持っていた。
「だってー、龍には通じないんですもん」
そんな風にクラリスは言うが、
「――二年生の中で、龍と戦ったものがいるとは聞いたことはないが。そもそも龍と戦ったことのある学園の生徒は全てオレは知っている。普通なら、そんなギフトの力があるのなら、この中から脱出するためにギフトを一度でも肉を破壊するために使うのが普通だとオレは思うんだが?」
龍が出て、運良く逃げ帰ったとしても、学園に迷宮探索の報告義務によって、龍にかぎらず、はぐれモンスターは全学園生徒に明らかになる事が多い。
もしその冒険者が報告しなくても、噂で生徒に広がることもあるだろう。それらを全て隠すのは難しいと言える。
コルヴォもその全部を確認したわけではないが、二年生だけのパーティーがはぐれや龍種のような大物を倒したという情報を聞いたことがない。ましてや、学園の中でも有名とされるクラリスにそんな噂は見当たらなかった。
「だから、何が言いたいんですかー?」
苛ついたような舌打ちをコルヴォは聞いた。
「じゃあ、もう一度聞こう。君はこの龍の腹に残って、何の利点がある? どんな目的で、未だに龍の腹に閉じこもっているんだ?」
コルヴォの問いに、クラリスは“にたあ”と嗤う。