第七十二話 底Ⅸ
ナダはたった一人で、ダーゴンに立ち向かう。
既に頭の中からヒードラの事は消えており、目の前のダーゴンだけに集中する。他のものは一切目に入らない。
ナダは上から下までダーゴンを眺めた。冷静にダーゴンを分析するのである。目の前のモンスターの戦力を。と言っても、ただ立ち尽くしてダーゴンを見ていたのではない。
ダーゴンは他のモンスターとは違い理知的で、非常に狡猾であるが、その本性はあくまでモンスターである。冒険者を見れば問答無用で襲ってくる。目の前にいるナダが標的なので、もちろん渦や波を飛ばしてくる。
それらから逃れて身を隠す事も可能だが、自分が消える事によって仲間へと目が向いてしまう事になると困る。彼らは彼らでヒードラと戦っている。その状態でダーゴンをけしかければ、全滅だってあり得るのだ。
ナダはダーゴンを観察しながらも、適度に攻撃を仕掛けていく。
様子見だ。
大剣をダーゴンに振るっては、一撃離脱する。どれもが命を刈り取るような攻撃ではない。力はそれなりに込めていて、きっと只の魚人程度なら剣で防がれたとしてもそれごと叩き潰すような攻撃であるが、ダーゴンにとっては槍で簡単に防げるほどの攻撃だった。パーティーで戦っていた時と違い、多方向からの同時攻撃でもないため、ダーゴンはナダからの攻撃を避ける事はなく、むしろ積極的にカウンターを狙っている。
だが、ダーゴンもナダに対する攻撃はそれほど過激ではなかった。
ナダと同じく、まだ小手調べをしているのだろうか。
近づいてきたナダにカウンターとして三つ又の槍で突き刺すか、波か渦を放つかぐらいである。どちらもまだナダの命が削れるような攻撃ではない。三つ又の槍は大剣で反らすか防ぐかし、波や渦はそこから逃げればいい。
二人は互いに手の内を隠しながら戦っていく。
と、言っても不利なのは間違いなくナダだ。ナダはこの水中では小手先の技を使えない。普段なら相手への牽制として投げナイフやククリナイフなどの武器を使う事もあるが、ククリナイフはまだしも、投げナイフは水中だと水の抵抗によってまともに飛ばない。だからナダは投げナイフを持って来もしなかった。
ナダの武器は陸黒龍之顎だけ。
それだけで、戦わなければならない。
この一本だけで、ダーゴンにダメージを与えなければならない。
ナダはまだ本気を出していないとはいえ、どれだけの力を引き絞ろうとダーゴンの槍を弾くほどの力はない。膂力は圧倒的に相手が上だ。どうやって剣と槍をまともに重ねても、力で自分が勝ることはない。
ナダは幾度となく、剣を振るい、ダーゴンの槍と重ねていく。最初は試し切りとばかりに弱かった力も徐々に力を込める。
少しずつ、ボルテージを上げるのだ。
まずは袈裟切り。簡単に槍を水平にして防がれる。あまったダーゴンの左手がナダの胴体へと手を伸ばした瞬間に体を反らして逃げる。その手の先からは、小さいが強力な渦が生まれていた。
ナダはその渦から逃げるようにダーゴンの背後へと周り、その力を利用して水平切り。この一撃にはそれなりの力を込めた。だが、それもダーゴンの槍に防がれてしまった。ナダはさらに体に熱を回す。力を入れる。だが、ダーゴンの槍はびくとも動かない。槍を撫でるように剣の向きを変えて、すりぬくようにナダは剣を動かした。そしてそのままダーゴンを斬ろうとするが、槍をすり抜けた時にはダーゴンはその場にはいなかった。
ダーゴンの動きは人の動きではない。
足を尾びれのように使い、するりと上部へと逃げる。だが、先ほどまでとは違い、ナダから距離を取ることはない。そのまま一回転し、ナダへと迫る。槍を構える。脇を締めてしっかりと持ち、ナダへと突き刺したのだ。ナダは揺れ動く波を肌で感じるが、遅い。身をよじって避けようとするが、肩を掠る。大したダメージではないが、傷を負った。
ナダは通り過ぎるダーゴンへ負けじと剣を振るおうとするが、それよりもダーゴンの泳ぎの方が早い。
遠くにいるダーゴンが水中で魚のように待機しながらこちらを見た。その顔は笑っているようにナダには見えた。
ナダはこの瞬間、ダーゴンの実力を察した。水の抵抗を受けず、魚のように泳ぎ、人と同じく武器を扱えるダーゴン。魚の中には人よりも、馬よりも早く泳ぐ種類がいると聞く。おそらく、ダーゴンはそれができるのだろう。
これがこの“はぐれ”の本当の実力なのだ。先ほどまで、人に翻弄されていたダーゴンはきっと彼の本当の姿ではないのだ。
もしもこの動きが出来たのなら、『ラヴァ』の全員でかかっていたとしても、もっと苦労するはずだ。
「学習したのか――」
ナダは舌打ちをした。
先ほどの攻防で学んだのだ。
これは厄介な事になった、とナダは思うが、それを嘆いている暇はない。先ほどの攻防に味を占めたダーゴンは、こちらへと真っすぐ襲ってきた。まるでその姿は放たれた矢のようである。
ナダはそれを受けるか、躱すか、迷ったが、一瞬しか迷う猶予は残されていなかった。まず、選んだのは回避だ。先に逃げたとしてもきっと自分の動きは補足されて、微修正されるから意味がない。
だからナダはダーゴンのスピードを測り、ぎりぎりまで引き寄せてから横へと逃げた。
一撃目は躱せた。
しかしながら、遠くで弧を描くようにダーゴンは泳ぎ、こちらへと再度襲ってくる。それも避ける事はできた。この時には大剣を自分が元居た場所に置いてカウンターしようとしたが、ダーゴンの泳ぐ水圧に押し負けた。
それから幾度となく、ダーゴンは弧を描くように軌道を修正しナダを襲ってくる。徐々にその刃は鋭く、早くなっていく。最初は完璧に避けられていたダーゴンの攻撃も、ナダには対処が難しくなっていく。まだ命にまでダメージは届いていないが、徐々に肌にダメージを負っていく。
最高速度まで達したダーゴンは、きっと放たれた矢よりも早く標的を狩るのだ。それをナダは身を持って味わっていた。
身をよじり、大剣を盾にし、無様に水中の中でもがいたとしても、ナダは手傷を追っていく。致命傷はまだないが、削られている、と言っていいだろう。
どうする?
どうすればいい?
そんな弱音が口から漏れそうになるが、ダーゴンの攻撃にそんな暇はない。ナダは水中で、シィナが作る水の壁だけを頼りに身を捩りながら、幾度となくダーゴンの矢のような槍を何とか躱そうとする。
ナダがダメージを受けながら辿り着いたのは、湖の“底”だった。
ここなら、満足に来られないだろう?
ナダはそう言いたげに嗤う。
先ほどまでナダは上下左右四方八方、様々な角度から槍で攻められていた。だが、ここなら、地面から槍が伸びてくることはない。それだけで攻撃の角度が半球、つまりこれまでの半分になる。
またナダの狙いはそれだけではなかった。
攻撃の手をいったん止めてナダよりも遥か上に佇むダーゴンを挑発するかのように、ナダは大剣から左手を離して伸ばした手の指を自分の方に曲げた。
だが、ダーゴンはナダの頭上から攻撃することはない。
少しだけ、このまま攻撃してくることを願っていたナダだが、やはりダーゴンは頭のいいモンスターのようだ。
もし先ほどと同じように槍で突進して来たら、おそらくこの底の砂にあの槍が刺さると言うのに。そしてその隙を狙えば、もしかしたら簡単にダーゴンを殺せたかもしれないのに。
そんな考えが頭になったナダとしては、目論見通りにいかなかったことが非常に残念だが、こうやって攻撃をしてこないのを見ると自分の考えがうまく行っていることにナダは少しだけ気分が軽くなった。
だが――ダーゴンは何も持っていない左腕を上から下へと振った。
それと共に、ナダの体に不可解なほどの重圧を感じた。まるで地上のようだ。いや、それ以上の重さか。
ナダは歯を食いしばって耐えるが、その力をすぐに予測できた。
きっとこれはダーゴンの“水を操る力”だ。人にとってのギフトのようなもの。ダーゴンは先ほどまでそれを渦や波として使っていたが、今度はそれを地上以上の“重さ”として使ったのだ。
今にも押し潰されそうだった。水中と言う重さから解き放たれた場所で上に下に自由に動き回っていたナダにとっては、久々にきちんと地面に足を付ける事となった。
だが、これでいい。
ナダはこの重さから逃れようとは思わなかった。
空を飛び回る敵も、壁を這いずりあがる敵も、自分はこの地面にいて殺してきたのだ。それよりも多少重かろうが、関係ない。むしろこの“熱”で力が沸き上がっている今となっては、軽いくらいだ。
最初こそ四股を踏むように耐えていたナダであったが、次第にその背筋は伸びていく。まるでダーゴンの力など意にも介さないように。
ダーゴンはその姿を見ても力を止める事はなく、そのまま湖を今度は地面を這うように泳ぎこちらへと突き刺そうとしてくる。
先ほどと同じだ。
だが、やりやすくなった。ナダは地面を滑るように槍を躱す。そしてすれ違いざまに剣を置くがナダの剣は当たらない、ダーゴンのスピードがあまりにも早いため、周りの水流によって弾かれたのだ。それどころかナダはその身に弾丸のようなダーゴンの周りの水流によって、体が吹き飛ばされそうになる。それを耐えるだけでせいいっぱいだった。
ナダは幾度となく、ダーゴンの槍を避ける。先ほどまでとは違い、体に水圧がかかっているためその場から大きく逃げる事はできない。あくまで地面を蹴って最小限の動きで逃げるのだ。
避けやすくはなった。
だが、反撃が出来ない。
平面になったダーゴンの速さは先ほどよりも明らかに上がっている。
“のって”いるのだろうか。
ダーゴンの動きはキレが増している。
このまま行けば、“熱”で自身の力が上がっているとは言えど、やがてダーゴンに上を行かれて八つ裂きされるという未来が見えるほどに。
だが、ナダはもうこれ以上強くはなれない。
――奥の手、などない。
ないのだ。
他の冒険者とは違い、アビリティも無ければ、ギフトも無い。だからと言って、剣の秘奥など会得したことはない。基本的な動きしか習っていない。これまでもそうだったし、この町に来てからも必殺技など考えた事がなかった。
だからナダは常に必死で戦ってきたのだ。
一瞬でも早くモンスターを殺そうと。
どれだけ頭を振り絞ろうと、どれだけ体に鞭を打とうと、ダーゴンに万が一でも勝てるような大技はナダの中には存在しない。
例えば当たるだけで敵に勝てるような技も存在しない。自分の剣は当たればダーゴンが消えるだろうが、それだけで勝てるとは限らないし、そもそもダーゴンを倒そうと思えば致命傷を与えるしかない。今の力で、うまく隙を狙って。
それに“熱”という力はナダに強さを与えるが、“熱”は絶対的ではない。ここから爆発的にダーゴンの力を上回るほどに強くなることはない。確かに自分の力も少しずつ増しているように思うが、ダーゴンの“キレ”と比べると誤差に等しい。
だから、ナダにはダーゴンに勝てる少しの希望も今のところ持ち合わせていなかった。
せめて仲間がいれば、いや、彼らは彼らで頑張っている。彼らに縋るわけにはいかない。この冒険の為に皆が命を削っているのだ。
なら、どうすればいい、とナダは頭を回した。
必死にダーゴンの攻撃を躱し、その間に何度も試みようとしながらも水圧によって押し返される現実をその身に味わいながら。
ナダは単純な事実に達した。
――今の自分の中に、ダーゴンに勝てる可能性のあるピースは存在しない、と。もしもそんなものがあるのなら、すぐに使っていると。
だからナダは――それを“外”に求めた。
つまり、この大きな湖の中。その中に自分が強くなる可能性が一つでもないか、と。
ナダはダーゴンの攻撃を捌き、けれども徐々に強くなるダーゴンに負けて体に傷を負い、挫けそうになりながらも辺りを見回し続けた。
大きな岩々。生い茂る海藻。美しい珊瑚。上へと続く泡。それに氷漬けになった多数の魚人。
そしてその中に――見つけた。
ナダは一筋の光明を。
すぐにその場から飛び上がり、地面を強く蹴る。そしてダーゴンの猛攻を躱しながらその光明を求めた。そして腹部にそう浅くはないダーゴンの槍を受けてから、その場に辿り着く。
氷漬けにされた魚人の元へ。
そして――その魚人が持っている“青龍偃月刀”を奪い取った。




