第十六話 二人
それはナダが迷宮へ向かった僅か数十分後のことだった。
ナダの部屋の前に一人の女性が立っていた。
イリスだ。
今日は前の格好とは違い、冒険者の装いをしていた。武器は黄金で装飾された鞘が特徴の細剣と、腰の後ろにククリナイフ。防具は黒い身体のラインに沿った服の上に、胸当てや脛当てなどの最小限で済ませており、その色は鮮やかな銀色の鱗をしていた。白金龍と呼ばれるモンスターの皮を用いた特注品だ。その上から衝撃を緩和する黒色のコートを着ていた。こちらは大黒狼と呼ばれるまた別のモンスターの素材で作られている。もちろんどちらの素材も、学園内ではトップに入るものだ。
そんな衣装を着て、ナダへと訪れたのは理由が一つだった。
――寂しく一人で迷宮に潜っている冒険者を手伝おうと思ったのだ。
「ナダーいるのー? ダンジョンに潜るのに手伝ってあげるわ―」
イリスは何の躊躇いもなく、持っていた合鍵でナダの部屋の扉を開けた。
心優しい先輩が、清く正しいボランティア精神で迷宮探索に付きあおうと言うのだから、少しばかり、ナダの嬉しそうな顔を想像して頬を桃色に染めながら部屋の中に入った。
物音一つしないのでまだナダは寝ていると思って、奥にあるベッドへと近づく。
「あれ?」
だが、そこにナダはいなかった。
もぬけの殻であった。
イリスはこんな時間から既にいないのは不自然だと思った。
だが、彼の部屋の中にあるはずの武器や防具、さらには薬の数々まで減っている。イリスはよくこの部屋に来ているので、そういった細かいものの配置は覚えていた。特にナダは必要最低限の物しか持っておらず、嗜好品の一つも部屋の中にないのである筈の物がないと一目で分かるのだ。
「迷宮……」
イリスはそう口に出して、コートを脱いで床に雑に置いて、鎧も簡単に外すと、ナダがいつも寝ているベッドに腰掛けた。
気合を入れて来たのに、と小さく呟いて口を尖らせたまま頭を後ろに倒す。
丸裸の電球が見えた。明かりはついておらず、粛然と控えていた。外の太陽は雲に隠れていて、部屋の中は暗いままだが明かりを点ける気にもならない。大きくため息を吐くと、イリスは彼の汗の臭いが鼻についた。随分と長い間布団を干していないのだと思う。最近、パーティーを抜けたことで忙しかったのだろうかとイリスは考えた。あの男はそういうところは気にするのだ。
「どうして私がこんな女中のようなことを……」
イリスはこれから自分が行おうとしていることへの不満を口にしてから、一気に立ち上がって、まずはベッドの直ぐ側にある窓を開けて新鮮な空気を部屋の中に取り込んだ。少しは気分がよくなる。
それから掛け布団と敷布団を三つに畳んで持ち上げて、アパートから出てすぐ下にある共用の物干し竿に布団を干した。それから部屋に戻ると今度は埃臭さが気になったので、ナダの部屋にあった洗ってある布を口の周りに巻いて、はたきとほうきを持って掃除し始めた。自分の家ではそれ専用の女中を雇っているのだが、あいにく、この家にそんなものは存在しない。イリスも綺麗好きなので、たまにくるこの部屋が汚れていると気に入らないのだ。
そんなことをして十数分。ナダの部屋は狭いので、すぐに綺麗になった。
そんな時、家の呼び鈴が鳴った。
家主が帰ってきた時に呼び鈴を鳴らすとは考え難いので、どこかで借金でもしたか、とイリスは予想してそれに出た。
「はーい」
「あれ、イリスさん?」
残念ながらそこにいたのは人相の悪い借金取りではなく、イリスもよく知っているナダの友人のダンだった。
小柄の体躯に小さなリュックを背負っている。
「あら、ダンくんじゃない。久しぶりね――」
「はい。ナダはいますか?」
「残念ね。ナダはいないわよ。おそらくダンジョンに行っているんじゃないかしら」
「そうなんですか!」
ダンは目を丸くして驚いた。
イリスはそのダンの反応を不思議に思った。
「ナダがいないのがそんな変なの?」
イリスが問うと、ダンは首を傾げて唸った。
「いや、ナダなら迷宮に行くことはそれほどおかしくなんだけど……」
「けど?」
イリスは言葉の尻が強くなった。
「行けるような体調だったのかなって」
ダンは心配そうな顔で呟いた。
「もしかしてナダは風邪でも引いたの?」
あり得ない、とイリスはすぐに思ったが念のため尋ねてみた。
イリスと出会ってからのナダは健康優良児だ。怪我などはよくするので病院に行くことは多いが、風邪を引いたなどは聞いたことがない。
「いや、そうじゃないんだけど……昨日のナダは顔色が悪かったんだ」
「顔色が悪い? あのナダが」
「うん。確かに悪かった」
ダンはしっかりと断言した。
「悪い物でも食べたんじゃないの? あいつ、ほら、拾い食いをしそうな感じだから。もしくは賞味期限が切れたものを食べたとか」
イリスがナダに感じる印象の一つに、食い意地が張っていることだ。
多少、色や形が悪くても平気で口にする。それでお腹を壊したのを何回かイリスは見たことがある。育ちも関係有るのかもしれない。
「そうかもしれないね。悪いものを食べたかもしれない。でも、昨日のナダはそうじゃないと思う」
「どうしてそう思うの?」
「――ガーゴイル」
「ガーゴイルって、あの赤い目をしたモンスター?」
イリスもその情報は持っていた。
知り合いの冒険者から教えてもらったのだ。
ダンもそれで合っているのか、小さく頷いた。
「はい。そうです。ナダはあの言葉に反応して、顔色を悪くしていたから。ダンジョンで何かあったんだと思う。ほら、ナダは今一人で活動中だから、ダンジョン内で何かハプニングがあってもおかしくないでしょ? それで、顔色が悪かったんだと思うんだ。だから僕は今日、薬を持ってきたんだけど……」
「だからナダがダンジョンに行って、部屋の中にいなかったわけね。でも、それならおかしいわね」
イリスは深く考え込んだ。
「どうしてですか?」
「もしナダの調子が本当に悪いのなら、それこそダンジョンには行かないはずよ。あいつはその辺のリスクマネジメントは完璧だから。だとすれば、どうしてこんな朝早くに行ったのかしら?」
「もしかしてガーゴイルと何か因縁があって、殺しに行ったんじゃないですか?」
おどけてダンは言った。
「まさか、ねえ」
イリスとダンは思わず顔を見合わした。
二人の知っているナダという人物は、よく言えば愚直だ。周りくどいことをしない。悪く言えば単純だ。思慮が浅く、突発的な考えしかしない。また物事を深く考えるのは得意ではなく、基本的に力に物を言わせた解決法が多いのだ。
そんなナダがモンスターと因縁を持った。
普通の者ならその存在を無視して日常生活を送るか、念入りに準備してその問題を解消しようとするだろう。
だが、ナダなら――ナダなら、シンプルに何も考えずに、モンスターを殺しに行ってもおかしくはないと思った。
「……ダンくん、そのガーゴイルっていうモンスターは近頃有名になっているもので間違いないわよね?」
「はい。確かにナダはあのガーゴイルに反応していました」
「気になるわね」
「そうですね」
イリスとダンはお互いに頷き合う。
すると次の瞬間、イリスはナダの部屋へ戻って行った。
鎧を着こむためだ。
「ダンくん、私はダンジョンに向かってみるわ」
奥に消えたイリスが大声で言うと、ダンもすぐに大きな声で返事した。
「なら、ちょっとだけ待ってくれますか? 僕もすぐに薬を用意しておきます。最悪、ナダなら勝つためにはダンジョンから戻る時用の回復薬を残しておかない気がするんです! ついでにイリスさんの分も用意しますから!」
イリスもダンの薬の効果を知っている。
ナダと同じパーティーにいた時に、何度かナダからその薬の施しを受けたことがあった。間違いなく、彼の作る回復薬は一級品だ。普段イリスが使っている高価な薬と比べても、ダンの作る回復薬のほうが上だろう。
イリスは大きな声で「ええ。任せるわ」とダンに返した。
ダンはすぐさま、迷宮の入り口で待っていてと告げて、その場を去って行ったのだった。
◆◆◆
イリスは素早く鎧などを装備して、迷宮の受付に行くと、まだダンはいない。先に迷宮の情報を知り合いの受付嬢から確認することにする。ガーゴイルの情報は簡単に手に入ったが、ナダのことはそうでもない。
本来なら他の冒険者の情報は禁則事項で教えてもらえないのだ。だが、イリスの持っている権力と、その相手がナダということと、そのナダが件のガーゴイルに向かった可能性がありこのままだと死ぬ可能性も無きにしもあらず、というイリスの淡々とした説得で丸く収めたので、茶髪の受付嬢は不満気に教えてくれた。彼女曰く、一時間ほど前に迷宮の中に入ったこと。
そんな情報を集めている内に、ダンが来た。
彼にナダのことを教えると、「やっぱり」と納得したような声を出していた。
ダンはすぐにもっていたバッグをイリスに渡した。
その中の薬の説明を素早く終えると、イリスはダンジョンへと向かおうとする。
ダンも付いてきたかったらしいが、イリスが一人のほうがダンジョンを進むスピードが早いということで納得してくれた。
イリスは、ダンに見送られながら迷宮へと潜る。
「さて、と――始めましょうか」
イリスはダンジョンに入ってすぐ、目の前の闇を睨めつけた。
慣れ親しんだ空気が彼女を安心させる。
最近現れたはぐれモンスターとナダとの戦いは気になるが、それに意識を取られる彼女ではない。ダンジョンの中で常に冷静に行動することは、イリスにとっては簡単だ。なんせ仲間に何が起ころうとも最善の行動をしてきた歴代最高と謳われるアギヤの元リーダーなのだから。
イリスはすぐにダンから貰ったかばんの中から一本の薬を取り出した。
それは――隼速薬と呼ばれる。
人のスピードを限界以上に引き出す薬だ。普段はこういったものに頼るのはよくないと考えているイリスなのだが、今日だけは別だった。速さを取った。
イリスはそれを一気に飲み干して、空き瓶を迷宮に捨てる。
それから右手で顔をおでこから顎へと隠すように移動させる。
すると彼女の顔が一枚の白い仮面によって隠された。その仮面は通常のものとは違い、口と鼻が仮面と一体化されており、目の部分は穴が開けられている。まるで感情が無いかのように無機質な仮面だった。
――『もう一人の自分』
イリスの持つアビリティだ。
イリスは腰のレイピアを抜くと、紅金色に光る美しい刃が出てきた。その刃はヒヒイロカネ製であり、スキルやギフトとの親和性が非常に高いことでよく知られている。
彼女がアビリティを発動すると、細剣からまるで細く絞ったような金属音が出始めた。注意深くその剣を見ると、僅かに震えているのが伺える。
それが彼女のアビリティの正体だった。
「神よ、我が道に栄光を――」
それから彼女は戦の女神――アテネのギフトを使った。
ダンジョンへ潜る時の彼女の習わしだ。
そして、彼女は明らかに人を超えるスピードで迷宮を進み始めた。
学園内でも最強と評される彼女であるがゆえに、一人の冒険にも全く支障がない。普通の冒険者なら一人での迷宮探索など恐れ多くてできないが、彼女の場合は強力なアビリティとギフトの二つを持っている。彼女を立ちはばかるモンスターなどいない。
今だってそうだ。
目の前にモンスターが現れた。
巨人の形をしたモンスターだ。
ゴーレムの一種である。
だが、それは彼女の一太刀によって簡単に引き裂かれることとなった。
彼女のレイピアはアビリティによって超高速で振動しているため、モンスターを楽に切削する。その際には熱も発生するため、それも相まってか、たかだかレイピアのように軽く細い武器でも、分厚い鱗を纏ったモンスターを楽に倒せるのだ。
特にまだ浅い階層だと弱い敵しか現れないので、全力を使わずとも簡単に屠れる。
それにしても、とイリスは考えた。
今のモンスターは懐かしいなと思う。
彼女がナダと潜った時に初めて会った敵で、ナダが諦めて逃走した敵でもあるのだ。
そんな敵に会ったので、イリスは珍しく過去のことを思い出した。
――イリスとナダの出会いは、それほど美しいものではなかった。だからといって、平凡でもなかった。
イリスとナダはこの学園都市がある街――インフェルノで出会ったのだ。
ナダと出会った日のことは今でも覚えている。その日はからからとしてうだるような暑さをしていた日だった。雲ひとつもない空で、外を歩くのは億劫な日だ。イリスはその日、当時所属していたパーティーの迷宮探索が終わって、帰路を急いでいた。
するとインフェルノの入り口に近い場所で、道端の真ん中で倒れている少年を見つけたのだ。周りの大人や学生たちは誰一人も、その少年のことをきにかけておらず、まるで死体のように道に転がっていたのだ。
イリスはそんな彼に興味をもったので近づいて、持っていたレイピアを鞘にしまった状態でその少年の痩せこけた頬を何度か突くと、ぴくりと少年は動いた。
まだ、生きているらしい。
それがイリスの率直な感想だった。
イリスは浮浪児が多い裏町ではなく、こんな大通りで倒れている少年に興味を持ったので、まるでペットを持ち帰るような感覚で持って帰った。
その少年こそ、ナダだった。
イリスは女中に命じて持って帰ったナダを世話させると、数日して彼は話せるようにまで回復した。そこで興味本位で何があったか聞いてみると、どうやら他に行く宛もないので冒険者になりたいとのことだった。
イリスも農家の少年が出稼ぎや一攫千金狙いにこの街に来ることは知っているが、まさか彼のように半死半生の身で辿り着くものがいるとは思わなかった。それも水や食料を一切持たず、着の身着のままでこの町に来るとは、とナダの生命力に驚いたほどである。
それからイリスは軽い気持ちで、ナダが学園に入学するまで自分の家に住まわせた。ラルヴァ学園は年に何度か生徒を募集しているが、まだその時ではないからだ。
それから学生生活を送りながら、イリスは暇な時だけナダに修行をつけていた。彼がククリナイフを持っているのもその名残である。
ナダは本当に何も持っていなく、手がかかる弟のような存在だった。
学は当然ながら礼儀もなく、武の心得もなく、ましてや町で暮らしていくための常識も殆ど持っていなかったのだ。
それから彼が自分の家を出た後に、彼がアビリティもギフトも発現できなくて、冒険者として落ちこぼれになったと彼女は知った。
けれども、それでも必死に重たい大剣を振って足掻いていた印象は今でも残っている。
冒険者として大成するような原石とは、流石のイリスにも到底見えなく、今も見えないが、そんな彼が強敵であるガーゴイルと戦っていると思うと興味が出てきた。
なんせ、彼は普通の冒険者ではない。
普通の冒険者は、戦いに時間をかけない。
アビリティやギフトを使って、一撃で、長くとも一分以内で倒すことを主にしている。そうでなければすぐさま他のモンスターが合流して、多数の軍勢に囲まれることもあるからだ。それにそのほうがカルヴァオンの回収効率もいい。
その中でナダは武器一本で地道に戦う道を選んだ。もちろん彼でも格下のモンスターなら一撃だが、少しでも高位のモンスターになると、肉薄した接戦が繰り広げられることになる。彼が特大武器を選ぶのもその一つだ。切れ味は凄いが技術を得るために莫大な時間がかかる武器を捨てて、また威力の出にくい武器も捨てて、攻撃力のためだけに大きな武器を選んだのだ。
だが、それで戦ったとしても、アビリティやギフトを使う冒険者と比べると、モンスターを倒すのには時間がかかる。モンスターを倒すには心臓を潰すか、脳を破壊するしか無いのだが、彼がそれを狙おうとすると、やはり隙を探すのに時間がかかるのだ。だから単純な力や常時筋力を上げるアビリティなどはこの世界ではあまり評価されない。
しかしそんな戦いでも、他の冒険者と比べると――土塊のような魅力がある。
イリスはその戦いが見たかった。最近出た強力モンスターと、土塊のようなナダのカードは少しだけ惹かれるものがあった。
そしてイリスは多数のモンスターの死骸のレッドカーペットを歩いて――ナダとガーゴイルの舞台を見つけた。