第五十二話 ハイスⅤ
迷宮内に水がぽたぽたと落ちて、水面に広がる。
それはラゴスティームの放った衝撃波によって拡散した水が天井にまで飛び、それが重力によって雨のように床に落ちているのである。
「はあはあ――」
そんな中でもナダは床に膝を付けながらもなんとか立っていた。
大剣は切っ先を床に向けており、広い刃を盾のように使ってラゴスティームの衝撃波を防いだのである。だが、ナダも無傷ではない。正中線は剣で防いでいたが、肩や太ももは衝撃波によって鎧が破れ、肉も若干だが抉れている。陸黒龍之顎で身を隠すには、ナダの体は大きすぎたのである。
だが、意識も失わずナダは立ち上がって剣をラゴスティームに向けようとして、周りの状況を確認した。
被害は甚大だった。
怪我を殆ど負っていないのはラゴスティームから離れた場所にいたアベリアだけだった。だが、彼女も余波だけで鎧が破け、煽情的な姿になって壁に背中をつけていた。
彼女以外の『コーブラ』のメンバーは地面へと倒れていた。
盾も持っていない彼らが攻撃を防げなかったのも無理はない。鎧は破け、皮膚は爛れている。壁にもたれ掛かっているネブエイロは頭を打ったのか額から血を流しながら唸っており、床に寝転がっているジェダは白目を向きながら失神していた。もちろんリゲルやハイスは重なるように倒れており、誰一人として立ち上がる様子などなかった。
いや――たった一人だけいた。
ハイスである。
彼はリゲルの下から手を出し、大きなリゲルを退けるようにして立ち上がった。だが、ハイスも大きな怪我を負っている。左手は肘が逆方向に折れ曲がり、右足の太ももが抉れている。
それでも立ち上がれたのは、リゲルの功績だろう。
リゲルの怪我は、『コーブラ』の中で最も酷かった。
四肢は一つとして失っていないものの、肩や膝は肉が剥がれ落ちて白い骨が見えるほど重症だった。彼の周りの水は赤く染まり、息も荒く命が危ない状況だった。
ハイスはリゲルを何とか持ち上げてアベリアの元まで移動させると、すぐに治療をアベリアに頼んだ。十分なほどの薬と包帯などは、ハイスが収容系のアビリティの中から取り出した。
それからハイスは他のメンバーの救助も急ぐ。
まともに立てる者はおらず、怪我は酷い。すぐにアベリアの元まで移動させて、固い床の上に避難させて上質な回復薬をふんだんに使う。一つ一つがハイス達の一回分ほどの冒険で稼ぐのと同額なほど高級な回復薬であるが、ハイスは仲間に使う薬には一つとして糸目を付けなかった。
安い回復薬でも足りるような仲間であっても、この場では一刻も早く仲間を治すために高い薬を使っていた。
見捨てる、という選択肢はリーダーであるハイスの中ではない。
どの仲間も助けようと、必死になって治療に当たっていた。
「ふう――」
治療が一段階終わって、やっとハイスは一息ついた。
その間、自身の治療は全く行っておらず、顔色は悪かった。同じく治療に当たっていたアベリアからもまずは自分に回復薬を使うように言われたが、ハイスは無視して仲間の治療を優先して行っていた。
そして仲間の命がとりあえずは助かったとしても、ハイスは自分の治療を行う事はなく、ラゴスティームを見つめる。
アベリア達がいたのはラゴスティームから離れた場所ではあったが、目と鼻の先である。
近づこうと思ったら簡単に近づくことができ、ハサミから放つ衝撃波を使えば簡単に殺すことができるだろう。
だが、それをさせないのが、ラゴスティームと一人で戦っているナダであった。
先ほどの衝撃波の後、ハイスが起き上がったのを確認してからナダはすぐにラゴスティームへと一人で勇猛果敢に斬りかかっていた。
ラゴスティームの爪を躱し、防ぎ、大剣で斬りかかるのだ。ナダは関節の継ぎ目を狙おうとするが、それを許してくれるほどラゴスティームは甘くはない。ナダの剣はラゴスティームの外殻を撫でるだけで、かすり傷を付けるだけだ。
ナダは一歩も退かない。退かないからこそ、ラゴスティームはナダを殺そうと躍起になる。だが、一人で戦っているナダへ、一度としてラゴスティームの攻撃はまともには当たらない。
そんな攻撃が続き、ナダがラゴスティームの目を惹きつけているからこそ、ハイスは仲間を逃がすことができたのだ。
その事についてハイスはとても感謝していた。ナダは『コーブラ』に一時的に加入したとしても、パーティーメンバーの一員としての仕事を果たしている。まるでニレナの事に関するわだかまりなど気にしてないというように。
ハイスが見る限り、ナダとラゴスティームの強さは互角のように思えた。
ナダは体に傷を負い、アビリティやギフトも持っておらず、武器は剣一本しかないと言うのに、全身が鎧で武器であるラゴスティームと対等にやり合っている。
もしも無傷な状態ならこの戦いはどうなっているのだろうか。
だが、あくまでそれは仮定の話。この場では関係のない話だ。
「ハイスさん、どうするんですか?」
仲間の治療を終えたアベリアが言った。
彼女はリーダーとしての指示をハイスに求めていた。
「それは――」
ハイスは仲間の状況を鑑みた。
パーティーはほぼ全滅だ。ハイスだってもうまともに戦える体ではない。一般的なパーティーのリーダーの判断としては、敗走が妥当だ。
仲間はハイス自身のアビリティ内に収容し、ナダを囮にしてこの場から離れて一刻も早く地上の病院で仲間を治療する。
決してナダを見捨てるわけではない。
ハイスもナダの実力は知っている。冒険者として規格外なほどの実力についての噂は、よく耳にしている。だからはぐれとたった一人戦う事になっても勝算は十二分にあるから、この場で彼一人に任せるのが最良の判断になるのではないか、という考えが頭によぎるのだ。
ナダ一人ならば、足手纏いの自分たちがいないほうが逃げ切ることも、もしかしたら倒す事さえも簡単だと。
だが、大切なパーティーメンバーを預かるリーダーとしての倫理が、そのような考えを認めない。認めたくない。一時的とはいえ、ナダは自分のパーティーに入った冒険者なのだ。共に生きて地上に帰らなければ仲間ではない。それを見た事もなく不確かなナダの実力を頼りに、この場から逃げ出していいのか、と。
仲間を連れて逃げるか、それとも他の選択肢を探すのか、二つの相反する選択肢を出されたハイスは、どちらを選べばいいのかが分からなかった。
分からないまま、ナダの戦いを見つめてみた。
ラゴスティームがハサミを振り回し、ナダが陸黒龍之顎で相対する。
ラゴスティームは決してハサミでナダを挟もうとは思っていなかった。斧のように扱うのである。挟まないのは隙が生まれるからだろう。人をハサミで切断しようと思えば、相手をハサミの間に入れて、閉じるという二つの工程がいるのだ。それを嫌ったのだとハイスは思った。
だが、ハサミをそのまま使えないとしても、大きく分厚いハサミは鈍器として優秀だった。特にホーパバンヨという薄い服のような鎧の上からだと、早く重たいハサミをまともに受けるだけで人は簡単に重傷を負うだろう。
だからナダも一度としてまともにはハサミを貰わない。
自分へと振るわれるハサミを躱して、弾く。だが、特に固いハサミの甲殻は刃が当たっても細い線が入るだけでダメージにはならない。ナダは相手の腹部へ剣を伸ばそうとするが、ラゴスティームはハサミを盾のように使って防ぐ。ナダは弾かれたとしてもすぐ切り返して大剣を振るうが、それすらももう一つのハサミによって防がれる。
逆にナダはハサミで大剣ごと潰されるように強く押されるが、柳のように受け流して後ろへと少しだけ下がり、また前へと出る。
ラゴスティームは左のハサミを水に付ける動きをしたので、ナダは強く剣で左の肘の関節を狙おうとする。ラゴスティームはナダの剣を防ごうと左腕を上げてハサミで受ける。
ナダは自慢の剣を防がれたと言うのに、満足そうな顔をしていた。きっと衝撃波を潰そうとしたのだろう。
そしてまたナダとラゴスティームの一歩も退かない攻防が始まるのだ。
二人の戦いは、まるで二つの激しい嵐がぶつかっているようだった。
剛剣がぶつかり、鋏斧が叩きつけられる。どちらも必殺の一撃であり、まともに当たればどちらかが死に至る。
ハイスが見とれてしまうほどの素晴らしい攻防だった。
今までの自分たちでは行けなかった境地。限られた人間だけが行ける場所だ。ハイスは今までの人生で様々な冒険者、十人十色の冒険を見てきたが、これまで見てきた中で最も洗練された戦いとも思えてしまう。
本来ならパーティーメンバーで多数に分ける筈の攻撃、防御を一人で行っている。それでいて、こちらまで届く衝撃波も潰しており、一人の技量としては冒険者としては突き抜けている。
「それで、どうするのですか?」
アベリアの声によって、ハイスは現実に戻されてしまった。
「それは――」
言葉が詰まる。
冒険者として理想的なナダの動きに感銘をうけ、ハイスはリーダーとしての役割を忘れていた。
成れるのなら彼のようになりたい、そう心の奥底で思ってしまうほど、ナダの攻防に見とれていたのである。
アビリティもない。ギフトもない。例えば素晴らしいアビリティを使って彼のような結果を出しているのなら、きっと戦闘に向かない収容系のアビリティしか持っていない自分なら無理だろう、とハイスは簡単に諦める事が出来ただろう。
だが、ナダはそうではない。
武器と、己の手一つで素晴らしい冒険を繰り広げている。
それは行おうと思えば、自分でもできるのではないか、と錯覚してしまうのだ。モンスターの攻撃を避けて、武器を振るう。行っているのは単純な事だ。だが、実際にはモンスターの動きを読み、力強いモンスターにも負けない力で、卓越した技術で武器を振るわなければならず、それを行えるのはきっと彼のように限られた人間だけだろう。
でも、自分でも彼のようになれるのでは、という期待が心のどこかに浮かんでしまうのだ。
収容系のアビリティに目覚めた事で仲間のサポートに徹する冒険を選んだ自分にも、リーダーとなり仲間に指示を出すことで足りない実力を補って上に昇ろうとした自分でも、あんな風に自分の身一つで戦う事が出来るのではないか、という希望を抱いてしまうのだ。
実力が足りない事は分かっている。
自分がナダのような攻防をしようとすれば、きっと一撃目でラゴスティームのハサミによって潰されてしまうだろう。
だが、それでもどうしても憧れてしまうのだ。
まるで幼き頃に物語で聞いた英雄たちを見るように。
「ハイスさん――」
アベリアは仲間の頭を撫でながら言った。
「なんだい?」
「リーダーとして、どんな選択肢が正しいのか、私には分かりません。そんな経験はありませんから。でも――何をしたいか、で行動した方がいい時があるのは分かります。私はギフト使いです。サポートならします。ハイスさんは何をしたいのでしょうか?」
ハイスはこれまでリーダーとして仲間に意見を出してきたが、仲間から意見を出されることは殆どなかった。
きっとどの判断も妥当だったからだろう、とハイスは思っている。
ハイスがリーダーとなってから、ずっと冒険者として最善の選択肢を選んできた。常に損得を考え、仲間の安全を選び、時には自分が犠牲になろうとも仲間を利する選択肢を選んできた。
それが冒険者としての自分の評価に繋がると信じて。
その結果、王都では自分の実力には見合わないトップパーティーとしての評価を貰った。
そんな自分が、思う通りにしてもいいのだろうか。
ハイスは酷く悩んでいた。
したいことは決まっている。どんな選択肢を取りたいのかは、頭ではなく心が知っている。
だが、それは酷く不合理で、これまで培ってきた冒険者の理念とは違ったもので、正しいかどうかは分からない選択肢だった。
「オレが何をしたいか――」
冒険者としての理性が、ハイスを止める。
「はい。ハイスさんは冒険者なのでしょう? “冒険”とは、危険の先にあるものです。決して打算などの先にあるものではありません。ハイスさんは何がしたいのですか?」
冒険者は――冒険をするからそう呼ばれている。
だが、未知なる場所に赴き、新しい場所を探索し、見た事もないモンスターと戦い、世界を広げる。人の見識が及ばない大地の下に広がる迷宮を探索するからこそ、冒険者と呼ばれるのだ。
だが、現代の冒険者はその心を忘れてしまっている。稼ぎのみを心中に持ち、幼い頃に持った冒険心を失い、栄誉のみを求めるのだ。
だから――
「――オレは」
「何ですか?」
「――オレのしたいことは」
理想と現実の二つがハイスの前に現れて、天秤にかけられた
「ハイスさんの心の赴くままに。それをサポートするのが私ですから――」
「なら、オレの、“僕”のしたいことは一つだ。アベリア、サポートを頼む。僕はね――初めて会ったあのはぐれを倒したい。あいつを倒せば、ナダを見捨てる事もなく、仲間を救う事が出来るんだ。まるで物語に出てくる主人公のように。冒険者として当たり前の事がしたいんだ。」
「はい!」
ハイスは風の後押しで、一歩前へと踏み出した。
傷ついた体で剣を強く握る。
いつだって冒険は目の前にあるのだ。
大切なのはそれに一歩踏み出すか、安牌を選んで留まるか、それだけの事なのだ。結果は重要ではない。後からついてくるものなのだ。負けたとしても後悔はない。危険を承知で、不可能に挑むのが冒険であり、冒険者の姿なのだ。
「でも、やるからには勝つよ――」
ハイスはそう強く言って、強者の戦いに割り込んだ。




