第十五話 ガーゴイルⅡ
ナダは感情が無いわけではない。
暴言を数多く受ければ、それだけ心が磨り減る。
心が少しだけ人より丈夫なだけのただの人間だった。
「かっ!」
ナダは生まれた淀みを払拭するように、腹に力を入れた。
だが、集中力は既に奪われている。
頭の中からノイズが聞こえる。
「――ねえ、ねえ、あのビニャの大木が冒険者からやめる機会を伺っているってホント? 良かった。これで学園から虫が一匹減るわ」
思考は止まらない。
ガーゴイルを見ているはずなのに、その視線は濁流に流されて右往左往してしまう。
ガーゴイルがこちらに向かって突進してきた。
ナダはそれを横へと避けるが、ガーゴイルはそんな彼へグレイブを伸ばした。ナダは反応が遅れていたため、それが胴に当ってしまった。地面へと転がった。
内蔵が捩れるような痛みがナダを襲う。
これで思考が払拭したらいいのに。
ナダはそう考えるが、残念ながらそうは行かなかった。
「――あいつがアギヤからいなくなって清々するわね」
淀みは消えない。
むしろ、濃くなっていった。
ナダはそれを振り払うように立ち上がって、腹の下から大きな声を出して頭から淀みを消そうとする。
「はあ!」
だが、消えない。
どうしてこんな時にあいつらの声が頭の中で再生される、と思いながら、ナダはガーゴイルを見た。
ガーゴイルは既にこちらまで距離を詰めていた。
頭上のグレイブが煌めく。
ナダはまた必死の思いで横に避けた。
破壊された床の欠片がナダの身体に生傷を残して、間髪をいれず跳ねたガーゴイルのグレイブが今度はナダの右肩に当たる。
だが、鎧に阻まれて致命傷にはならない。しかしながら、グレイブも鎧に軋みを作る。
ナダは痛みに堪えながら必死にガーゴイルとの距離を取って、また回復薬を飲んで体を誤魔化そうとした。
それと同時に必死に頭の中のノイズを消そうとするが、消えない。大きくなる。ガーゴイルの姿を見られない。見ていても、ぼやけてしまう。まるで涙で視界が霞んでいるようだ。
「――あはは、あいつが死ねば、皆が幸せになるわ。生きてる価値なんてあるのかしら?」
ガーゴイルがそんなナダへ距離を詰める。翼を使った低空飛行だ。さらに身体に捻りを加えて、螺旋状になりながらナダを襲う。
ナダはそんなガーゴイルから逃げ出そうと、横に大きく飛ぶが、手を大きく広げたそのグレイブからは逃れられない。
胴を一閃。
呻きながら、また、距離を取る。
内臓が逝っていないかナダは息を整えながら確認するが、どうやらその暇はないらしい。
ガーゴイルは空に舞い上がっていた。
この光景をナダは見たことがある。
次の瞬間、ガーゴイルは予想通りに水晶の氷柱を落としてきた。
ナダは舌打ちが出る。
何故なら、投げナイフはもうない。
ナダは避けるしか手が無かったのだが、ガーゴイルは直接ナダの頭上の氷柱を落さない。むしろそれらの周りの氷柱を落としてくる。
何が狙いだ――と、ナダは考えながら頭上に潜むガーゴイルの動きを注視する。
「――誰にも生きているのに役割があるって俺は神父から聞いたけどさ、あいつを見てると、そうじゃないと思ってくるよな。だって、眼に入るだけで気分が悪くなるんだから」
ナダの思考が一瞬だけ過去に侵食された。
ガーゴイルへの注意が外れる。
その刹那――ナダの頭上の水晶が、グレイブによって根本を破壊される轟音と共にまるで雨のように降りだした。
ナダは遅れて後ろへと飛ぶように逃げる。
そんなナダを追って幾つかの水晶が落されたため、必死に転がりながら避け続けた。
「どこだっ!」
壁へと追い込まれたナダは、まるで太陽の雫のように光り輝きながら、ダイヤモンドダストのようにちらはらと舞い散る水晶の欠片に隠れてガーゴイルの姿が見えない。
壁を背にしたまま、必死に顔だけを動かして辺りを見渡すが、彼の大きな図体は視界に入らない。
その時、ナダは風切り音を聞いた。
頭上だ。
ガーゴイルは幾度と無く落ちた水晶のように降ってきた。
ナダはすぐに青龍偃月刀を横にしてグレイブを防ぐが、ガーゴイルの自重とともに叩き潰された。尻もちを盛大につく。重たい偃月刀が胸元へと深く食い込んだ。ガーゴイルは続けざまにグレイブを振り上げて、ナダの頭部をかち割ろうとした。
けれどもその隙を狙って、ナダがすぐに腰のポーチから痺れ薬を取り出す。それは小さな革袋に入っていて、口で強引にその入口を開いて、中に入っていた胡椒のような粉をガーゴイルへと投げつけた。すぐに粉は飛散し、ガーゴイルの口や目に入る。
ガーゴイルは攻撃をやめて、両手で顔を抑えながら何歩か下がった。
ナダはその間に起き上がって、苦し紛れに偃月刀を振るが、金切り声を上げながら暴れているガーゴイルの予期せぬ腕の動きに阻まれた。
「――ビニャの大木と一緒にいると呪われるって聞いたよ。なんでも、あいつは神様から嫌われているんだって。死ねばいいのにね」
そして続けざまに蹴りも受けて、数歩の距離を後ずさる。
ナダは一瞬だけ、視界がぼやけた。
ガーゴイルはその間に痛みに慣れたのか、徐々に声も小さくなって、顔から手を退けた。
ナダはその時にはもう回復薬を飲んで、身体の調子を整えて、ガーゴイルへと右から走り近づいている。勢いをつけた全身全霊の振り落とし。それがガーゴイルへと当たった。
当たった。それはガーゴイルへと確かに当たって、身を切り裂いたが、そこはガーゴイルの右翼だった。皮膜を切り裂いたのだ。
黒い血が浅く噴き出るが、致命傷にもならない。
むしろそれはガーゴイルを冷静にさせて、大きくグレイブを振り回した。
グレイブの刃が的確に腹部を狙っていたため、ナダはさらに一歩詰めて柄の部分を脇腹に食い込ませた。
二メートルほど身体が飛ばされる。肝臓に食い込んだためか、酸素が十分に体全体に行き渡らず、息が止まりながらナダは膝をついた。
すぐにガーゴイルが大きく足を開いて、ナダへとまた大きくグレイブを振った。
今度はガーゴイルの振りが大雑把すぎたためか、腰へとぶつかり、ナダを吹っ飛ばす。ナダはしっかりと青龍偃月刀を掴みながらも為す術無く地面を転がった。
ナダはそのまま近づいてくるガーゴイルへと、今度は液体状の痺れ薬を取り出してガーゴイルへと投げつけた。
また、ガーゴイルは叫びながらその場を暴れまわる。
先ほどの痺れ薬もそうだが、冒険者はあまりこういった薬を使いたがらない。何故なら値段は高価で、使う相手も限られ、また直接的なダメージは期待できないからだ。ナダもガーゴイルを殺すという目的が無かったら、赤字覚悟でこんな薬を使っていないだろうと考える。
ナダは苦しんでいるガーゴイルを尻目にポーチから最後の回復薬を取り出して、それを大口で飲んで、頭から身体にかけた。幾つもできた傷に回復薬が沁みるが、ナダは小さく呻きながら我慢する。そして偃月刀を杖のように使って立ち上がった。
ナダの視界は朧気だった。
痛みで意識が朦朧としている。
それでも立ち上がったのは、これまでの経験だろう。
最早、どうしてガーゴイルと戦っているすら分からない。
どうして、ここまで苦しい思いをしているのだ。ナダは偃月刀に体重をかけながら、腰が抜けそうになっていた。
なぜ、ガーゴイルを殺そうと思ったのか、その意志さえも濁っていく。
いや――目の前の現実がまるで夢のように思えて、過去の出来事が現在のように混濁してきた。
これまで幾度と無く、ナダへと落ちていった黒い雫がまるで呪いのようにナダはその耳に蘇らせる。
「――あいつ、そろそろ学園を辞めるんじゃないの?」
似たような言葉を受けた回数は最早覚えていない。
学園に入って一年ぐらい経つと言われてきた言葉だ。
唯一技能を発現することが出来なかった。神の加護を授かることが出来なかった。
それだけでラルヴァ学園では、冒険者として落ちこぼれの烙印を押される。同学年にナダと同じような者も当然ながら何人かいて、皆が学園を去って行った。未だに辞めていないのは学生としては珍しい。同級生の中には、いつ辞めるか、それを賭けの対象にしている者だっているとナダは聞いたことがある。
なぜ、冒険者を続けているのか、その問いにナダは未だ明確な答えを持っていない。
「――ありがとう。僕はね、あの人みたいに数多くの迷宮を踏破したいんだ。そして――竜の爪のような物を僕も残したい」
ナダの脳裏に、また別の言葉が蘇る。
あの言葉を、ナダはある意味で羨ましいと思っていた。
自分には夢や目標もない。
冒険者を続けているのは単なる惰性だ。他になりたいものも無ければ、これまで生きてきて冒険者になりたいと思ったこともない。
「――ん? アンリか。いやな、最近手紙が来てよ、田舎に住んでいる父さんが体を壊したみたいなんだ……俺を村から見送ってくれた時は元気だったんだけどな……」
ナダにはそんな家族との温かい思い出ややり取りも殆ど頭に残っていない。ましてや、彼のように家族への仕送りなど考えたことすらなかった。
残っているとすれば、暗い迷宮の中と、耳をつんざくようなモンスターの叫声と、血と鉄の臭いと、重たい武器の感覚だけだ。
温かい感覚とすれば、血の生ぬるい感触はどれだけ手を洗っても消えたことはない。
まるでもぐらのように深い深い蔵穴のような場所で暮らしているに等しいのだ。
ナダにとって安らぎといえば、ベッドに眠る時の固い感触だけ。
それも、最近は悪夢に侵されてしまった。
それを振り払って、迷宮に潜るような強い精神をナダは持ってもいない。
だからこうして、悪夢の続きを現実で見ているのだ。
「――どうやら君は唯一技能の資質が無いようです」
うるさい、とナダは心の中で叫んだ。
幾度と無く聞いた死刑宣告だ。
それはトラウマのように残っている。
「――あいつさあ、イリスさんにも取り入っているよな? 金でも渡したのかな? 噂じゃあ、地方の成金貴族の息子らしいからな。あいつは。きっと汚い手でも使ったんだろうぜ」
アギヤに入った当初は、このような悪口を数多く受けてきた。
そんな金など持っていないのに。
取り入ったこともないのに。
イリスが推薦したのをナダは酔狂だと思っている。そうで無ければ、自分を入れる際の利点など存在しない。ナダはイリスと既に知り合って五年になるほどだが、彼女にはどうにも掴めない部分がある。アギヤに関してもそうだが、時々、彼女は自分の持っている非合理的な主観を持っている力で押し通ろうとするのだ。
「――あいつ、ついにアギヤを抜けたらしいぜ」
最近はこの言葉を言われることが多い。
そんなに自分がアギヤを抜けたことが嬉しいのか、話題になるのか、とナダは思う。たかだか学園内の一つのパーティーから、日の目を見ない冒険者の一人が辞めただけだというのに。
誰もが自分をほっといてくれればいいのに。
ナダは本気でそう思っている。
男の声がうるさい。
女の声がうるさい。
自分への罵詈雑言なんて聞きたくない。
だが、ナダは自分へのそれをしっかりと覚えている。頭に焼き付いている。まるでそれは火傷のように決して消えることはない。
「――いつまでもダサい武器を持っているものね。前に見た時は笑ったわ。あんな大きい武器なんてパーティーにいる仲間からしたら迷惑よ」
うるさい。
ナダは幻聴が聞こえる。
「――あいつって、幼児をいたぶる趣味があるらしいぜ。それもナイフで切り傷をたくさん残して、少しずつ衰弱していくのを見るのが好きみたいなんだ」
うるさい。
ナダは気が狂うように呟いた。
だが、声は消えない。
むしろこれまでよりも、鮮明に、明確に、頭の仲で響いた。まるで声の主がすぐ側にいるようで、何度も木霊するように頭を埋め尽くす。
「――ついにあのビニャの大木が追い出されたらしいわ」「――あいつの顔ってさ、見るだけで産まされるかと思いますわ」「――相性がよければ、ギフトは自然と与えられます。そうでないのなら、相性が悪いのでしょう」「――神の加護も受けていない。唯一技能も発現していない。だからと言って、武技の腕が優れているわけでもない。そんな人間は、このパーティーにはいらない」「――うん。僕が目指しているのはアダマス様なんだ」「――あいつ、まだ冒険者らしいぜ。追い出されても健気に頑張っているんだとよ」「――ビニャの大木と一緒にいると呪われるって聞いたよ。なんでも、あいつは神様から嫌われているんだって。死ねばいいのに……」
「―――――うるっせえんだよ!! 消えやがれ!!!!」
ナダは怒声と共に、片手で持っていた偃月刀の石突きを地面へと叩きつけた。
ナダは自分の声と、手から伝わる鈍い衝撃で黒い感情に支配された頭が、少しずつ透明に戻っていくのを感じていた。
思考に鮮やかな花が咲いていく。
そうだ。
自分は彼らとは違う。
冒険者など、なりたくてなっているわけでもない。
レアオンのように高い上昇志向を持っているわけではない。この学園で冒険者として名を挙げて、将来は一流の冒険者になり、貴族などに成り上がりたいなど、一度も思ったことがない。
また、クオンのように英雄になりたいわけでもない。アダマスという人物に憧れたこともなければ、他の英雄にも憧れたこともなく、そんな存在などナダにとってはお伽話に過ぎなかった。
ましてや、クーリのように家族のために出稼ぎに来ているわけでもない。稼いでいるお金は自分で使うし、その為に迷宮に潜っている。
自分が冒険者になっている理由など、一つしか無い。
――生きるためだ。
自分にはこの道しか残されていないのだ。
他の誰かのように帰る実家などない。帰ったところで、昔のようにボロ雑巾のように使われて酷使されるのだろう。そして働けなくなったり、作物が減ったりすれば、最初に捨てられるだけだ。そんな人生をナダは歩みたくもなければ、歩むつもりない。
他の道を探す?
どんな道が残っているというのだ。
ナダはとてもじゃないが、学はない。未だに簡単な四則計算ですら間違うくらいだ。そんな人間などどこの商会でも雇ってくれないだろう。
だとすれば、他の村に行って、農家をするのか。それこそないだろう。ああいう村は閉鎖的で、よそ者に冷たい。暮らしていたナダが一番良く分かっている。よそ者の末路とすれば、それこそ自分の村に戻ったところで変わらないだろう。
ならば、暗殺者か傭兵、もしくは誰かの護衛などか?
それこそ、嫌だ。ナダは誰かのために命をかけるのも、暗殺や傭兵のように分の悪い仕事に命をかけるのも嫌だった。
だから、唯一残された冒険者としての道に縋っているのだ。
アビリティがなくても、ギフトがなくても、ましてや信頼できる仲間がいなくても。
この世界なら、腕一本で生きられる。
――戦い続ける限り、生き続けられる。
毎日不味いオートミールが食べられて、固いベッドで眠れるのだ。
その生活を続けていくために、安定して迷宮に潜るためには、ガーゴイルは邪魔だ。
ガーゴイルがこの場所に留まっていることは知っている。ここから逃げても、いつも通りの迷宮探索が送れることをナダは知っていた。
だが、そんなことで納得できるナダではない。
自分の頭が悪いことは分かっている。
たとえ、この戦いと自分の生活が少しも関係がないとしても、ナダは冒険者として生きていく意味を見つけたこの戦いに勝ちたかった。
「だから、もう一度誓う。――お前を殺そう」
ナダは持っていた殺意の刃を、敵へと向けた。
ガーゴイルは痺れが治ったのか、悠然と迷宮の上に立つ。その手には鈍く光る刃が握られていた。