第八話 再会Ⅱ
ナダがニレナに連れられたのは、マゴスの中央に一つだけ存在する高級ホテルだった。普段から泊まる冒険者はほとんどおらず、視察などに来た貴族の為に作られた施設である。
そのホテルに移動するまで、ニレナは一言も発することはなかった。一度も振り返らずナダの前を歩いている。
ナダは逃げ出すことも考えたが、それは彼女の怒髪冠を衝くことに変わりはない。その結果がどうなるかは分からないが、きっとよくない事だと思うので大人しく付いて行くことにした。
ナダが連れられた高級ホテルは煉瓦で作られており、他のホテルと違い広く大きい。
一階のロビーには深い緑色の絨毯が敷かれ、天井にある大きなシャンデリラが淡い光を放っている。貴族らしきドレスを着た者と、ホテルのスタッフらしき燕尾服やスーツを着た者達が往来する場所で、ナダは場違いなラフな格好でニレナに連れられていた。
エレベーターへとナダは入り、最上階まで連れていかれた。
幾つもの扉がある中で、一つをアンセムは開ける。ナダはニレナが借りている部屋に入った。
きっとここはスイートルームなのだろう。壷や絵などの調度品が置かれて、部屋は幾つかに別けられている。その中でガラスのテーブルが置かれた部屋で、ゆったりとした二つ置かれたソファーの一つにニレナは座った。
「ナダさん、どうぞ目の前に座ってくれますか?」
ナダは大人しくニレナの前のソファーに座った。
いつものようにソファーに深く腰掛ける。
「今、アンセムがお茶を淹れてくれますわ。少し待っていて下さい」
ニレナの言葉通り、ナダの後ろでアンセムはことことと音を鳴らしている。お茶の準備を始めているのだろう。
それから数分後、ナダとニレナの前にティーカップが置かれてアンセムがお茶を淹れる。薄いオレンジ色をした水色であり、若々しくさわやかな香りがした。それにナダは砂糖を一つ入れてスプーンでゆっくりと回してからカップを持ち、一口飲む。
極上の茶葉から入れられたお茶はとても美味しいはずなのに、どうもこの時は味がしないように感じた。目の前でニレナが氷のような微笑をしているからだろうか。
だが、ナダに怯える様子はなく、いつものような調子で言った。
「で、何か俺に話があるんだろう?」
「ええ、そうですわね。沢山ありますわ」
ニレナは茶を一口飲む。
優雅で洗練された姿である。
「そうかい」
「久しぶりに会ったのです。まずは昔話からしましょうか。これを覚えておりますか?」
ニレナはアンセムから受け取った鍵をガラスのテーブルの上に置いた。
見た事のある白銀の鍵だ。
「これは、アギヤの武器庫か」
「ええ、その通りですわ。私に送りましたわよね?」
「ああ、送った――」
ナダは三年ほど前の事を思い出す。
ナダにとって、レアオンから預けられたこの鍵は重荷であった。四大迷宮に挑むにあたって、出来るだけ荷物は少なくしたかった。あの時はこれから攻略する迷宮以外の事を考えたくなかったから。
レアオンもそうなのだろう。彼はこの鍵を持っていたくはなかった。だからナダに譲渡したのだ。
「何故ですか?」
「……管理する暇がないからだよ」
「それはマゴスを攻略するためですか?」
「ああ、そうだ。俺はマゴスを攻略するまで、この地を離れるつもりはないんだ」
「だから誰にも、何も告げずにインフェルノから去ったと?」
「そうかも知れない――」
ナダの言葉に、ニレナは笑顔でナダを見つめた。
ナダの腕にぽつぽつと鳥肌が立っていた。部屋の気温が下がるのを感じる。
きっとニレナは怒りのあまり、無意識にギフトを発動したのだろう。
本来ギフトを発動させるには“神への祝詞が必須”だが、神と親和性の高い者はその限りではない。神に近くなればなるほど言葉は必要なくなり、意志だけで、あるいは感情の高ぶりだけでギフトの片鱗を発動させることが出来る。
ギフトの発動に適さない地上で、吐く息が白くなるほど温度を下げるニレナの実力は、きっと冒険者でも極めて高いのだろう。
ナダの知る彼女は、以前はここまでギフトが強くはなかった。
アギヤを卒業してからニレナも変わったのだろう、と思う。
「ナダさん、あなたが去ってからの事をご存じでしょうか?」
「……ほとんど知らない」
「ナダさんには血の繋がった妹さんと、親しい貴族の少女がいましたわよね?」
「ああ、いるな」
きっとナダの実の妹であるテーラと、スピノシッシマ家の息女であるカノンだろう。
「あの二人がナダさんが去ってからずっと泣いているのをご存じでしょうか? 特に妹さんは唯一の肉親であるナダさんを失ったことで、暫くの間は意気消沈していたようですよ」
「……そうかも知れないな」
その話はナダも知っている。
カルヴァオンの取引をしているサラとの手紙で知った事だ。その中には暗に少しの間だけでも帰ってくるように、とのアドバイスが書かれていたが、ナダは無視をしたのである。
「っ! では、そのフォローにイリスさんやナダさんの友達が頑張った事はご存じでしょうか? 彼らは勝手に姿の消えたナダさんの事を心配しながらも、幼い子たちのフォローに勤しんだようです。その事はご存じですか?」
ニレナはテーブルを両手で叩き、声を荒ららげながら言った。茶の入ったカップが揺れる。
ここまで彼女は大声を上げるのは珍しい事だった。いつも冷静沈着で動揺することがないのは、迷宮でも一緒だ。
ナダは彼女の怒りを肌で感じていた。
「そうかも知れない――」
「では、何故! 彼女たちに会おうとしなかったのですか? 少し会えば、一言あれば、彼女たちの気持ちも違うと言うのに! そんなに迷宮が大切ですか? 攻略が重要ですか? 遅々として全く進まない攻略が!」
部屋の天井からつららが滴る。
ニレナの目から溢れた涙が、小さな氷となってテーブルの上へと落ちた。
「……ニレナさんも、テーラとカノンに会ったのか?」
「ええ、イリスさんに話を聞いて、私も一度ナダさんの現状を確認しようとインフェルノに向かいましたから。その時にイリスさんに紹介されてお二人と会いましたわ」
「そうか。気にしてくれて助かるよ」
ナダは少しだけ表情を崩す。
あの二人を心配していない、と言えば嘘になるが、きっと大丈夫だと思うのだ。彼女たちの周りには優しい大人が多い。
自分でなくても、彼女たちは支えられるだろう。
「……私の質問に答えておりませんわ。そんなに迷宮が大切なのですか? 攻略が必要なのですか? 他の何を犠牲にしてでも」
ニレナの質問への、答えは決まっていた。
ナダは左胸を握りしめる。
これがある限り、ナダの言う事は同じだ。
「決まっている。大切だ。他の何を犠牲にしてでも――」
「……そうですか。殿方というのはそういうものだと、私は母から聞いた事がありますわ。時には家庭や友人よりも、仕事を取ると。父もそうでした。全てを犠牲にして、仕事に精を出しておりました」
「そうかよ。ニレナさんも苦労したんだな」
ナダは他人事のように言った。
「その結果、得られた物は大して価値のないものだと、父は言っていましたわ。失ったものは大きい。取り戻すのには失った時間以上に時間がかかると」
ニレナは優しく諭すように言う。
きっと彼女の家庭にも問題があったのだろう。
ナダはその話を殆ど知らないが、実例を出してナダの気持ちを変えようとしていたのだ。
「そうか。でも、俺は変わらない。このマゴスの攻略を目指す。ようやく手がかかったんだ。それを手放すわけにはいけない」
ナダは、強い意思で言った。
「では、マゴスを攻略したら、インフェルノに帰ると?」
「……そうだな。一段落がつくからな」
アダマスと同じ道を辿り、真実を掴めたのなら心に余裕が生まれれば、一度インフェルノに帰る道もあるだろう。
「そうですか。なら――私も迷宮探索を手伝いますわ」
ニレナは口元に笑みを浮かべたまま言った。
「はあ?」
久しぶりにナダの口から素っ頓狂な声が出る。
「先ほどナダさんは言いましたわよね。マゴスを攻略すれば、インフェルノに帰ると。ナダさんをインフェルノに連れて帰って、皆の元に晒しますわ。そして糾弾を受ければいいのです――」
既に彼女の目に涙はない。
いつもと同じような笑みを浮かべていた。
はたして先ほどのニレナの感情の吐露がどこまで真実で、どこからが嘘かナダには分からなかった。
「……嵌めたな? でも、マゴスの攻略は全ての冒険者が手こずっているんだ。簡単にはいかないぞ」
「組合はそう言っていますわね。でも、ナダさんは手がかりを掴んでいるのでしょう?」
「……」
ナダは答えなかった。
忌々しそうにニレナを見ていた。
「知っていますか? 私、実はナダさんが勝手に姿を消えた事に怒っているんです。せめてもの意趣返しですわ――」
ナダは諦めたように天を仰いだ。




