第一話 オケアヌス
ナダは一人で迷宮から地上へと帰る。
迷宮の入り口から歩くと、そこには年老いた舟守がいた。彼がこいでいるのは小さな手漕ぎの船だ。マゴスは湖の中心にあるため、行く時も帰る時も船を利用しなくてはならない。
もちろん料金はその場での支払いではなく、先に冒険者組合で払う事となる。行き返りの分で二回分の料金を払わなくてはいけない。収入が少ない冒険者にとって船の代金は死活問題だが、そのような冒険者がオケアヌスに集まるような事はない。マゴスに挑戦する冒険者は殆どが中堅の冒険者だ。
多くは三十代以上であり、まだ学園からでたばかりの年齢に近いナダはオケアヌスにおいては随分と若い冒険者だった。
ナダは広い船を一人で座り、ほっと一息をつく。
腰につけたポーチも外し、水平線の彼方に沈んでいく太陽を眺める。もうそろそろ夕方なのだろう。迷宮に潜っていると時間間隔が薄くなる。ナダは深い息を吐きながら船の縁に体を預けた。
オケアヌスの船着き場に着くと、他の冒険者と同じように冒険者組合を目指す。黄昏時前に冒険を終わる冒険者は多い。黄昏はモンスターが強くなり、冒険に失敗する確率が高まるからだ。
他の冒険者たちが五人、あるいは六人など集まって冒険者組合へと向かう中、ナダは一人で進む。
その隣には誰もいない。
今ではナダに注目する者も少ないが、この町に来たころは奇異に見られる事が多かった。
新しい迷宮での、ソロでの迷宮探索。
それがどれだけ無謀なのかは、熟練の冒険者であればあるほど顕著に感じているだろう。
初めての環境、知らない迷宮構造、生態の分からないモンスター。一歩間違えれば死亡する未知の場所を一人で進むにはリスクが高く、安全な冒険を行うために相性のいい強い仲間とパーティーを組むのだ。
当然ながら国からもパーティーを組むことは推奨されている。人によってはセウやインフェルノなどの慣れた迷宮でパーティーを試してからマゴスへ挑戦する者も多い。
他の町の迷宮で名の挙げたパーティーが新しい挑戦をするために、オケアヌスへと来るような事もあった。
そんな中、ナダは誰ともパーティーを組まずに迷宮へ潜っているのだ。もちろん冒険者組合に最初に訪れた時には誰かとパーティーを組むことを強く勧められたが、あくまでパーティーを組むのは国からの推奨であり、義務ではない。
ナダは周りの反対を押し切って、一人でマゴスへと潜っているのだ。
最初は誰もがナダの事を無謀な若者、あるいは死に急ぎ、など様々な評価をした。マゴスから帰って来ても、運よく生き残ったのだろう、と言われることが多く、冒険者の中にはナダがいつまで生き残るか賭けている者さえいた。
だが、そんな悪評を覆すようにナダは生き残った。
カルヴァオンの量や質も、今ではオケアヌスにいる全体のパーティーでも“中位”に位置する。今日持って帰ってきたカルヴァオンも周りにいる多数の冒険者よりも多かった。
他のパーティーが五人以上で集める量を、ナダは一人で集めるのだ。マゴスに潜っている時間も長く、ナダは半日以上の時間を一人で迷宮で過ごしている。
モンスターの討伐数、カルヴァオンの量や質などの記録こそオケアヌスの上位に昇ることはないが、その実力については誰も疑う事がないだろう。きっと一人一人の頭割りにすれば、ナダが最もカルヴァオンを集めているのだから。
またナダの特異性はそれだけではなかった。
彼は必ず――無傷で帰ってくるのだ。
防具を失う事や折れた武器を持って帰ったり、またカルヴァオンをすべて失うという冒険の失敗をすることはあっても、その身に大きな傷を負う事はなかった。
その実力を求めて、多くのパーティーがナダを誘う事が多かったが、ナダは一つとしてどこかのパーティーに入ることはなく、また誰かとパーティーを組むこともなかった。
それから長い年月が流れて、今ではナダを迷宮に誘う者はほとんどいなかった。
ナダは他の冒険者の開けた木の扉を超えて、冒険者組合の中へと入る。
やはり新しい迷宮と言う事もあって、中は盛況だった。多くの机や椅子が並べられ、そこで数多くの冒険者が情報交換をする。また大きな掲示板には新種のモンスターの情報、新しい道の発見、現在の攻略状況など多くの事が記載されてあり、それを目当てに冒険者組合に来る者も多い。
また受付も混んでいる。
パーティーのリーダーが規則正しく並ぶ列の先には受付があり、そこで冒険者たちは迷宮に潜る前と潜った後には手続きをしなければいけない。
ナダが行うのは、冒険の報告だった。
前に並んでいる冒険者たちは冒険の報告をする者が多く、少しだけ時間がかかってナダの番になった。
机を挟んだ先には目を伏せた受付嬢がいて、茶髪の彼女はいつもと同じようにナダへと話しかけた。
「お帰りなさいませ、ナダ様、今日もとても遅いお帰りでしたね」
彼女はインフェルノにもいた頃にもよく冒険の受付を行ってくれた受付嬢である。あの頃から三年も経ったので、美しさは変わらないが以前と比べて大人の色気が増したようにも思える。全体的に体の肉付きがよくなり、かつてはショートカットだった髪も長くなってそれを紐で纏めていた。オケアヌスに多くいる男性冒険者から求婚されるほど彼女は美しいのだが、どうやらまだ未婚のようだと風のうわさでナダは聞いた事があった。
彼女を見るたびに、ナダはインフェルノの事を少しだけ思い出すのだ。
「そうか?」
ナダはおどけたように言う。
時間が長いのは承知だった。
いや、本来ならもっと長く潜れるのに、他の冒険者からの奇異の目線を減らすためにわざと半日程度の冒険で済ませていると言った方がいいだろうか。
「ええ、そうですね。ナダ様、知っておりますか? 他の冒険者は六時間ほどで冒険を終えます。どうやら他の迷宮と比べてマゴスは過酷な環境なので、あまり長い冒険が推奨されておりません」
「そうかもな」
「まあ、既に慣れておりますが」
それから彼女は幾つかの質問と共に、ナダの冒険の記録を手元の書類に書いて行く。
この行為も他の者ならいざ知らず、彼女と行うととても懐かしく思えた。
まるでインフェルノに帰ってきたようである。
(そう言えば、もう一年になるのか)
ナダは受付台に肘をつきながら下を向いている彼女の顔をじっと見た。
ナダが――彼女と再会したのはほんの一年前だった。どうやら新しく迷宮が増えた事によって、冒険者組合の職員の人材不足が叫ばれているようだ。だから彼女もこの町へと派遣されたらしい。
ナダは彼女と再会した時の記憶を思い出す。
彼女は驚いた顔でこう言った。
「ここ二年ほど会っていなかったので、死んだかと思っておりました。ナダ様の姿が見えなくなった時は、まだ学園を卒業する時ではありませんでしたので」
その時の彼女の目には涙が浮かんでいたが、それからすぐにいつもの無表情へと戻り、あの頃と変わらぬ日々が続いている。
ナダがじっと受付嬢の顔を見つめていると、彼女は困ったように口を開いた。
「あの、ナダ様。私の顔に何かついているでしょうか?」
「そうだな。昔の事を思い出しただけだよ」
ナダは彼女から目線を外し、遠い目をした。
「そうですか……皺でも増えておりましたか?」
「……あの頃と変わらねえよ」
「そうですか。では、今回の冒険の報告についてお知らせがあります」
彼女は少しだけ口元を緩めて、手元の書類を纏めながら言った。
「何だよ?」
「どうやら今回の迷宮探索は凄く長かったようですね」
「……」
ナダは答えない。
「いつもなら私どもの質問で報告を終わらせるのですが、残念ながらナダ様のカルヴァオンの量だとそうにも行きません。特に最近はとても迷宮探索を盛んに行っているようで、幾つかの報告が抜けておりますので――」
ナダは彼女の話を聞いて、渋い顔をした。
予定では明日も今日と同じような冒険を行うはずだったのだ。
「――ですから、明日、もう一度冒険者組合にいらしてください。みっちりと報告書を纏め上げてもらいますので。ナダ様は書類に慣れていないと思いますので、私がサポートいたしますので、絶対にいらしてくださいね。なお、この報告が終わるまで次のマゴスへの迷宮探索は認められません」
受付嬢はいつもの凛とした顔で言った。
ナダは頭を何度かかいて、仏頂面になりながら不満そうに返事をする。
「分かったよ――」
それからナダは持っているカルヴァオンを出し、その計量を彼女に行ってもらう。それが終わると今日の報告は終了と言われた。
残りはどうやら明日に行うようだ。
ナダはカルヴァオンを持って受付を去ろうとした時に、彼女は思い出すように言った。
「ああ、そう言えば、もう一つナダ様にご報告がありました」
「何だよ?」
「ナダ様に、上からパーティーについての幾つかの候補があるようです。今すぐご覧になられますか?」
ナダはうっとうしそうに口元を歪めた。
最近は他の冒険者からパーティーに誘われる事は殆どなくなったが、冒険者組合からどこかのパーティを勧められる事が多かった。そのパーティーの殆どが中堅より上のパーティーであり、中には最前線のパーティーの一つも含まれている。
一人で中堅クラスのパーティーの実力を持つナダが、どこかのパーティーに所属すれば今より大きな成果を得られるだろう、との上の判断だった。
「ゴミ箱に捨てておいてくれ」
しかし、ナダの返事は決まっていた。
誰かとパーティーを組むことはなかった。
「そうですか。かしこまりました」
彼女は短く頷いた。
それからナダは冒険者組合を離れて、街中に戻って、三年前から借りているアパートの一室を目指す。
既に日は落ちていた。
ナダは今日の夕食は何をしようか、と悩む。あまり食欲はなかったが、食べないと冒険者として体に毒なので食べたいものを必死に考えた。
肉か、魚か。悩んだので、一番近くの店でどちらも腹いっぱいになるまで食べようと思った。
昔とは違い、食を選べるほどの蓄えがあり、生活にも余裕が生まれていた。
だが、ナダが満たされる事はない。
あれからもう――三年も経つが、一向にマゴスの底は見えない。どれだけ迷宮に潜っても、かつてのアダマスのようにマゴスの攻略はできておらず、その糸口すら見つかっていないのだ。




