第五十二話 ノヴァⅣ
前回の冒険から七日が経った。
ナダは一人、自室にいた。
ベッドの縁に座りながら小さな丸いテーブルの上に置いた瓶を物憂げな様子で見つめている。中に入っていた白い粉は半分ほどまで減っていた。
瓶の中身の正体は――ユニコーンの角から作り出した秘薬である。
それもただ角を削っただけではない。癒しの神のギフトを持っているダンによって祈祷が込められており、角以外にも薬の効果が増すように幾つかの薬草なども足された特製の秘薬である。
ダン曰く、死ぬ寸前の人でも踊りだすような薬、だと言っていた。
使い方を間違えれば大変危険な代物であり、あと一日の命と言われていた老人がこの薬を飲むとたちまちにベッドから立ち上がってスキップして自宅に帰る姿をナダは目にした。
その光景を見た時はこの薬にも大層な期待を抱いたものだった。
尤も、その老人は三日後に死んだらしいが。
どうやら病や怪我は治すが、寿命まで伸ばしてくれるようなものではないようだ。
本来なら指の先ほどでいい秘薬を、ナダは小さな瓶の半分も飲んだ。
だが、胸のしこりは取れない。
未だに心臓は熱かった。
ナダは瓶の隣に置いているコップに入った水を飲む。もう半分ほどしか入っていないが、一気に飲み干した。
「治らない、か――」
この薬では、自分の病は治らない。
ナダは予想していた事なのでショックは少なかった。
そもそもこの病はアダマスが治そうとして、迷宮に活路を求めたと聞いた。伝説の冒険者である彼ならユニコーンなど狩ったはずである。それでも治らずに、新たな迷宮へと活路を求めたのだ。
治らないのは当然である、と思っていたが、それでもナダはため息をつくのを辞められなかった。
もはやナダの視界の中に瓶に入った薬はなかった。
これを売ればきっと巨額の富や名声を得る事ができるだろう。だが、既にナダに興味はない。
角の大半は殆ど押し付けるようにダンに預け、自分は必要な分だけ貰った。この小瓶の量だけでも多いほどである。そんな少量ですら、病に苦しんでいる者からしたら喉から手が出るほど欲しい物であり、瓶に残ったわずかな量でもかなりの額が付くだろう。
だが、ナダはそんな薬を部屋の中に無造作に置いたまま、虚空を朧げに見つめてこれからの自分の行動を考えた。
目的は決まっている。
そのための手段も既に決めている。
準備は殆ど終わっている。
あとは仕上げだけだ。
――これで自分の病が治れば、自分は順風満帆な冒険者生活を送れるのに。
そんな風心の中で嘆いてから、ナダは自室を後にした。
行先は決まっている。
学園、だった。
◆◆◆
ナダが大きくドアを叩くと、扉の向こうからしゃがれた声が聞こえてきた。
「入りたまえ」
そんな言葉を聞いてからナダは扉を開ける。
シンプルな部屋だった。
入ってすぐの場所に二組のソファと一つのガラス製の背の低いテーブルが置かれてあり、奥には高級な木で作られた執務机に革張りの椅子があった。
革張りの椅子には老人が座っており、肌に刻まれた皺と傷跡が歴戦の戦士だという事を教えてくれる。
そんな老人はラルヴァ学園の学園長であるノヴァであり、ここは――学園長室だった。
「確か私に用があるんだったな」
ノヴァは机に両肘を置いて、ナダを快く歓迎した。
「ああ、そうだ」
ナダは扉を閉めて頷いた。
「ふむ。私も暇な身ではないが、特に断る理由もない。それも学園でも優秀な冒険者ならばなおさらだ。座りなさい。ゆっくりと君の話を聞こうではないか」
「ああ」
ナダは不躾な態度でソファに座って、肘を膝の上に置いた。
そんなナダにノヴァは怒る様子もなく、微笑みながら言った。
「ナダ君よ、君はコーヒーが好きかね?」
「……好きでも嫌いでもねえよ」
「私はね、コーヒーが好きなんだよ。一口飲むと落ち着くからね。君もどうだい? 殺気立っているようだから、コーヒーを飲んだ方がいいと思う。まるで今からモンスターと戦うかのような空気だ」
「……分かったよ、じゃあ、貰うよ」
ナダは舌打ちをしてから頷いた。
ノヴァはいい返事が聞けると、自らコーヒーを入れ始める。
「ナダ君は砂糖かミルクはいるかね?」
「どっちもいらねえ」
「分かった」
ノヴァは自分の前とナダの前にコーヒーを置くと、ナダの前に足を組むようにして座り、コーヒーを一口飲んだ。
ナダもそれに習うようにコーヒーを一口飲む。苦かったのか、少しだけ顔をしかめた。
「それでは話を聞こう。君は、私にどんな話があった?」
ノヴァはカップをテーブルに置くと、ナダへと微笑みながら聞いた。
「――単刀直入に言う。外の迷宮に俺は潜りたい」
「外の迷宮と言うと、どの迷宮だい? インペラドルやセウかい?」
「まさか。そんなわけがねえだろうが。直接あんたに頼んでいるんだ。俺が潜りたい迷宮は四つ。新しく開かれた迷宮だ」
「ああ、その迷宮の事か。分かっているよ。存分に潜ってくれたまえ。勿論、君が“卒業”した後でね。君はもう少しで六年生だ。あと二年もすれば潜ることができるよ」
貼り付けたような笑みで言うノヴァに、ナダは吐き捨てるように言う。
「そんなのは糞食らえだ。許可を出せ。俺を今すぐ、四つの迷宮に潜る為の許可を出せ」
ノヴァは有無を言わさないようなナダの胆力に帯びる様子はなく、足を組み替えながら顔に冷笑を張り付ける。
「それは無理な相談という事だ。それは私が許さない。いいかい? 君は未熟だ。新しい迷宮に行っても、きっと環境の違いに挫折し、すぐに冒険を諦めるだろう。学園の中なら“多少”優秀な冒険者のようだが、私から見ればひよっ子も同然だ」
「だから? あんたの御託なんかどうでもいいんだ。俺は迷宮に潜りたい。あんたはその許可を出せばいい。簡単な話だろう?」
「許可は出さない。行きたければ勝手に行くがいいさ。尤もそうなったら学園は追放処分だ。向こうの冒険者組合が受け入れてくれるとは思わないがね」
せせら嗤うようにノヴァは言う。
「出せ。許可を――」
「出さない。ふう、そんなつまらない話かね? こんな話は事務員にでもすればいい。きっと答えは一緒だろうから。どうして君は私にこんな話をした? 私だったら、許可を出すと思ったのかね? 君が最近活躍しているような冒険者だから、わざわざ時間を作ったが、どうやら無駄な時間のようだ。帰りたまえ――」
ノヴァが椅子から立ち上がろうとした時、ナダはノヴァを睨みつけたまま言った。
「――ああ、あんたなら許可を出すと思った」
まるでノヴァを侮っているかのようなナダの発言に、ノヴァは眉をひそめた。
「どうしてそんな風に思ったんだい?」
「あんたは英雄だろう?」
ナダは執務机の横に立てかけられた濃青色の剣を指差しながら言う。
その剣はトゥファオと言い、かつて英雄だったノヴァの半身とも言える名剣だ。ノヴァはその剣でモンスターを狩り、はぐれを倒し、龍を殺し、英雄になったと言われている。
「昔の話だがね」
「だったら、許可を出すはずだ。“マナ”が言っていたんだよ。困ったことがあったら、私のような英雄に頼めって。あんたは英雄だろぅ? だから頼んでいる」
マナの名前が出た瞬間に、ノヴァの顔色が変わった。
現代に生きる冒険者の中で、最も有名な者の一人であり、現代の英雄と言われている者だ。
――瞬間、ノヴァの手が机をひっくり返した。ナダに向かってガラスの机が飛ぶ。だが、数々の冒険で視線を潜り抜けているナダにとって、この程度の奇襲は通用しない。ガラスの机を突き破るように右手を伸ばした。ナダの力によってガラスの机は飴細工のようにぼろぼろと割れる。
ナダはノヴァの首を掴んだ。
体中に熱が回る。
ナダは勝った、と思った。
そもそもナダとノヴァでは体格が違う。冒険者として現役で戦っているナダに比べて、ノヴァは殆どが事務仕事で学園から出る事はない。確かに体には激戦の跡が見えるが、手足は鶏のように細く、体もそこまで大きくはない。体重差もナダのほうが圧倒的に上である。
このまま全力で力を振るえば、老人の体を浮かし、地面へと叩きつける――筈だった。
だが、ナダの掴んだノヴァは大樹のようにぴくりとも動かず、浮かすことは全くできなかった。
あろうことか、ノヴァの細い右腕に捕まれると、ナダは一切の抵抗が出来ずに宙に浮いて、地面へと叩きつけられる。起き上がろうとするが、枯れ枝のようなノヴァの足に踏まれて抵抗すらできなかった。
「ふむ。確かに冒険者としてはそれなりに優秀なようだ。まだまだだがな」
ノヴァはナダの固い左胸を踏み押さえながら言った。
「なにしやがるんだっ!!」
ナダはせめてもの抵抗として、踏んでいるノヴァの足を掴んで退けようとした。体には熱が回っている。力もモンスターと同じように出ている筈だった。
だが、それでもノヴァの足をナダは退ける事ができず、折ることもできない。
いや――奇妙な感触に、思わず握る手が弱まった。
ノヴァの足は肉がある人のように柔らかいわけではなく、ごつごつとした触感だった。
まるで“石ころのように”固かったのだ。
ナダはそんな足を持っているノヴァへの驚きのあまり、足を手放してしまった。ノヴァも同様にナダから足をどけて、もう一度ソファへ座る。
「さて、ナダよ。確かに君の言う通り、私は許可を出す気になった。座りたまえ、話をしようではないか」
一転して我が子を見るような優しい目をしたノヴァを、ナダは呆然と見つめていた。




