第三十三話 テーラⅡ
「なんじゃ、もう帰って来たのか?」
まるで自宅のようにスピノシッシマ家の屋敷に戻ってきたナダとテーラは、庭で土を弄っていたカノンに呆れたように言われた。
カノンは農民が着るような麻のズボンとシャツを土まみれにしながらスコップで土を掘り返して種を植えていた。
何の種かは分からない。
「また自分で種を植えているのかよ?」
ナダは呆れたように言う。
カノンのこの姿を見るのは初めてではない。夏や秋にも同じ姿を見た気がする。
「ああ、そうじゃ。勿論、そうじゃ。春は母様の好きなガーベラを植える予定じゃ。それにカーネーションも。どちらも綺麗な花じゃからのう。今からでも咲いた姿が楽しみじゃ」
喜々としながらカノンは言った。
どうやら春に向けて新しい花を育てるらしい。普通の貴族の家なら専属の庭師がいるのだろうが、貧乏であるスピノシッシマ家にそんな存在はいない。執事や女中も最低限しか屋敷にはいないのだ。
水やりなどは屋敷の皆が手伝ってくれるが、多くの世話は勉強や仕事の間を縫ってカノンが行っているようだ
「ねえねえ、私も手伝っていい?」
隣にいるテーラがナダを見上げながら言った。
どうやら随分と前からテーラもカノンのガーデニングを手伝っているらしい。そもそも故郷において農業を営んでいたテーラにとって、土の臭いは懐かしく、それほど嫌でもなくむしろ好きであるらしい。
「ああ、行って来いよ。ほら、荷物は持ってやるから」
ナダはテーラが両手で持っていた紙袋を預かる。テーラは両手が軽くなると、大好きなカノンの元へ駆け足で近づいて行く。
もちろん少々高い革靴が土で汚れようと気にしない。テーラは今着ている服が少々上等なものな事に気づいておらず、それを汚すことに躊躇いもなかった。
もちろんナダも何も言わない。子供が服を汚すのは当然の事だと思っているからだ。
「ねえねえ、お姉ちゃん! 私も手伝うよ!」
「おー、そうか。それは助かるぞ! 儂の庭は広いからのう。こんなに大きいと、種を植えるのも一苦労じゃったから本当に助かる!」
カノンは嬉しそうにしながらスコップを渡し、持っていた種も渡して植え方を簡単にテーラへと教える。それから二人は楽しそうに二人で並んで花の種を植え始めた。
まるでその姿は仲のいい姉妹の様で、とても微笑ましく思える。
少しだけナダの口角も上がった。
「ねえねえ、どんなお花が咲くの?」
「それはもうすっごく綺麗な花じゃ! きっとテーラも喜ぶぞ。勿論、母様だって喜ぶと思うのじゃ」
「そうなんだ!」
「うむ、母様も花が見えるほど元気になればいいんじゃがのうー」
カノンはせっせと種を植えながら言う。
「まだお体がよくないの?」
「うーむ、よくはないのう。お医者さんが言うにはよくはなってきているらしいんじゃが、やはりまだまだ外を出歩くのは早いという事じゃ。寒空は体に堪えるからのうー」
「最近は寒いもんね。はあーって吐くと白い息が出るもんね」
「そうじゃ。でも、母様も儂の植えるお花を楽しみにしている、って言っておった。もしも外に出歩けなかったら、その時は花をとって一緒に母様の元へ届けに行こうぞ」
「そうだね! それまでしっかりとお世話しないとね!」
「うむ。共に頑張ろうぞ!」
それからまた二人は和気あいあいと種を植えるのに精を出した。
その様子をナダは寒空の下で暫く見つめていると、屋敷の中から出てきた男が近づいてくる。燕尾服を着た男はスピノシッシマ家の執事長であり、当然ながらナダも知っている男だった。
「帰ってこられましたか」
彼は微笑みながら言った。
「ああ」
「どうでしたか? 久しぶりに一緒に過ごしたテーラ様との買い物は楽しめたでしょうか?」
彼はナダと一緒に二人を見つめている。
「……ああ、よかったぞ。久々にゆっくり過ごせたような気がする」
王都ではゆっくりとできると思っていたナダであるが、まさか迷宮に潜ることになるとは思っていなかった。体の休まる暇がないほどに考えていた以上に色々と詰まった日々だった。
久しぶりな武器、慣れていない迷宮、それに強敵との連戦、新たな出会い。それに偉い人からの呼び出し、久々に濃い日々を過ごしていたと思う。
それに比べると、妹と買い物に出かけたのは久々に時の流れが遅いように思えた。
「それはよかったです。短かったとはいえ、ナダ様がいなかったことでテーラ様は寂しがっていましたから」
「そうなのか?」
ナダは声を少しだけ大きくして驚いた。
帰ってきた時にナダは「寂しかったか?」と聞いたのだが、テーラは首を横に振っていた。だからこの屋敷に馴染んで、自分がいなくてももう平気だと思っていた。
「まだまだですね。ナダさんは――」
「かもな。そんなにテーラの事は見えていなかったかもな」
もしかしたら自分の事でいっぱいいっぱいだったかも知れないと、ナダは反省していた。
だからこそ、カノンと並んで楽しそうに種を植えるテーラをよく見る。今の姿は顔に土がつきながらも本当に楽しそうだった。
「ナダ様、気づいていないかも知れませんが、テーラ様は気丈で聡明な子です。あなたが忙しいのは分かっているので、寂しいと思ってもそれは表に見せない優しい子なのです」
「……今もカノンのところに行っているから、すっかりこの屋敷の子かと思っているんだがな」
「それでも実の兄には勝てませんよ。テーラ様にとって、あなたは唯一の家族で、私たちはどこまで行っても他人です。もちろんカノン様とも姉妹のように仲良く見えますが、それでも血の繋がりには勝てません」
「……そうかもな」
ナダは反省するように頷いた。
しっとりと染み込むように執事の言葉がナダの胸にのしかかる。
「テーラ様はいい顔をするのですが、やはりナダ様がいる時が一番いい笑顔です。今だってそうです。ナダ様が近くにいるからこそ、屈託のない笑顔が生まれるのですよ」
「……そうかもな」
「やはりナダ様がいない時のテーラ様はたとえとても楽しそうにしていても、時々寂しそうな顔をしますから」
「……そうかもな」
ナダは小さく呟いた。
「ええ。でもナダ様の事情も分かっております。次はいつごろ出かける予定ですか?」
「……さあな。でも、当分はいるよ」
「それはよかったです。テーラ様にとって、ナダ様と一緒にいる時間が何より大切な時間ですから。それにカノン様も」
彼は時々こちらを見てくるカノンを温かく見守っていた。
「そうなのか?」
「ええ。この屋敷にはカノン様と対等に接することの出来る者は、カノン様のお母様であるサラ様、テーラ様、それにナダ様だけです。サラ様はご病気なので甘える事はできず、テーラ様は年下。特にナダ様は男性という事もあって特別ですから。もしかして早くに亡くなられた旦那様を重ねているかも知れません」
そう言えば、とナダは思い出す。
時々、テーラを抱いたりしていると、カノンがこちらをじーっと見ているような気がするのは、きっと気のせいではないのだろう。
「はあ、分かったよ。ちょっとこれを屋敷の中に入れてくれるか? 俺とテーラの荷物だ。カノンへのちょっとしたお土産もある」
ナダは持っていた幾つもの紙袋を執事へと渡し、一緒に着ていたコートも脱いで執事へと預けた。
「どうするのですか?」
執事はナダの持っている荷物を受け取りながら言った。
ナダは軽々と持っていた荷物であるが、紙袋が六つもある荷物は初老である彼には重たいらしく少しだけ苦しそうな顔をしていた。
「久しぶりに土遊びがしたくなってよ。ちょっとあいつらに混ざって来るんだ。これでも農家生まれだからな。土を弄るのは慣れている」
「はい。分かりました。行ってらっしゃいませ、ナダ様」
ナダはひらひらと手を振ると、二人の元までゆっくりと近づいて行く。
「なあ、俺も混ぜてくれよ」
「おぬしも植えるのか?」
「久々に土と遊びたくなったからな」
「じゃあ、ナダおにいちゃんにもこの種あげるね」
「見とけよ! これでも、俺は種を植えるのが得意だからな!」
「何を言っておるんじゃ。儂のほうが上手いに決まっておるじゃろう!」
そんな三人の様子を見ていた執事は、楽しそうにはしゃぐ三人に背中を向けて荷物を運ぶために屋敷の中へと戻っていく。
「楽しそうで何よりです」
それから暫くの間、スピノシッシマ家の庭には楽しそうな声で満ちていた。




