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「続いて榛原選手と加藤選手の試合を行ないます」
呼ばれるなり右手を前に差し出す両者。試合開始前の挨拶は滞りなく、一瞬の沈黙の後に、すぐに試合が開始される。
甲高い笛の音。拳を打ち離し合い、距離を取るかに思えたが
(っ?)
直後曇るのは榛原の顔。試合開始早々、相手が勢いよく懐に飛びこんできたのだ。
榛原は素早く身をかわし、その攻撃を避けようとする。交錯する一瞬。相手選手である加藤の繰り出した右ストレートは、榛原のボディを間一髪で掠める。
加藤はすぐさま次の追撃に繋げようと身をひねるが、当然榛原は相手の好きにさせない。
数秒もなかった。気付けば榛原は加藤の手が届かないほどの距離まで後退し、右手を上に構える。驚異的なフットワークに、加藤は目を見張った。
(いけませんね、私とした事が……)
榛原はその場で小さく笑みを浮かべ、高く構えた右手を下に降ろす。
(なかなかやるみたいですが……、さすがに『これ』を出すほどじゃない)
彼女は封印する。コンヴェルシ・ブローという技は、それを使う価値のある相手に対してのみ使うべきものだ。そしてそれは決してこの程度の相手ではない。
彼女の表情から溢れるのは、限りない自信に裏打ちされる余裕。
(決めました。ここでは本気を出しません。じゃないと……まるで退屈になってしまう)
時間を稼ぐ必要がある。それもよくわかっている。
が、仮に本気を出さなかったとしても、問題はない。
(さて、折角だから9分間、私の練習に付き合ってもらいましょう)
榛原の全身を覆う、邪悪なオーラ。
相手選手の加藤がその重圧に気付いた時には、すでに彼女は逃げられない蟻地獄の淵に立っていたのだ。
(早く歩きなさいよこの女……)
口を尖らせ、眉を曲げ、この上なく不機嫌そうに歩く麻衣の肩には、相も変わらず体重の全てを他人に預けて歩く女性の姿がある。
年齢は二十代半ば頃で、本人曰くペースメーカーが胸に入っているらしいが、麻衣は絶対に嘘だと思っている。大体ペースメーカーが入っていてその辺で倒れていたら真っ先に救急車を呼ぶべきだと思う。麻衣がそう告げると女性はよくわからない理屈をこねて否定するので、麻衣はもうどうでもよくなった。
麻衣と共に女性の身体を支えているのは茜。彼女は不満げな様子を微塵も表さず、むしろ微笑んですらいるような優しい顔で黙々と歩き続けていた。彼女だってベルヒットの試合を誰より楽しみにしていたはずなのに、文句の一つも言わないのは、彼女の人の良さがよく表れていると麻衣は思っていた。
見知らぬ町の中、なるべく大きな通りを通って目的地を目指す。
あとどれぐらいで着くだろうか。今の時刻は何時くらいだろうか。
正確なことは何一つ分からないけれど、大遅刻であることは確かだった。
ひょっとすると試合に遅れたことでもう棄権の扱いになっているかもしれない。
だとしたら自分から誘ってわざわざ来てもらった千佳には、ひどく迷惑をかけたことになる。
(うわぁ、最低だ私……。なんでこんなことに……。もう帰りたくなってきた……)
そんな風に一しきり鬱モードに突入していた麻衣だったが
不意に、歩道を歩く彼女達のすぐそばに、逆側の車線からUターンしてきた車が停車する。
「?」
麻衣たちがほぼ同時にそちらへ顔を向けると、車の窓が開き、中から見慣れた男性が顔を見せる。
「やっと見つけた……。二人とも一緒だったか。ったくどこほっつき歩いてたんだ?」
「早川先生!」
麻衣と茜が仲良く声をあげる。麻衣は特に嬉しそうに。何せ終わりのない旅からようやく救出されたようなものだったからだ。開口一番彼女は尋ねる。
「先生、試合は?」
「今は由紀たちに任せてる。俺の予想じゃ多分大丈夫だ。ま、急いで会場に向かうに越したことはないけどな」
そう言って後ろのドアを指差し、茜と麻衣の二人に乗るように促す。
と、ここで違和感に気付いたのは茜だった。
「麻衣ちゃん、さっきの人……」
麻衣はまだ気付かず、大声で早川に訴えようとする。
「そ、そうだ。人が倒れてて、区民体育館に行きたいって言うから……」
いまいち要領を得ない説明だが、とにかく遅刻の原因は道で倒れていたその女性にあるのだ、と麻衣が主張しようとしたところ
彼女は先程まで女性が体重を預けていた自分の肩の方を見て
思わず唖然とした。
「あれ、いない……?」
そんなはずはない。先程まで、確かにここにいたのだ。
でも、周りをきょろきょろ見回したところで、どこにも女性の姿は見当たらなかった。
「ん? どうかしたのか?」
早川が不思議そうに問い返す。
「え、いや、ここにもう一人……いたはずなんだけど」
「?」
ますます怪訝な顔をしている早川に、状況が整理できず困惑するばかりの麻衣と茜。
「あれは顧問か……」
彼らのいた場所から少し離れた建物の影に、一人の女性が隠れていた。
今しがたまで麻衣と茜の肩を借り、区民体育館を目指していたはずの彼女。
彼女は早川の乗った車が現れるなり驚くほど俊敏な動きで麻衣たちの傍を離れ、近くの建物の影に身を潜めた後、そこから顔をわずかに覗かせて様子を伺っていたのだ。
「危なかったな。さて、早く会場に向かわねば」
軽い調子でそう呟き、彼女は麻衣たちに別れも告げぬまま、路地裏の奥へと消えて行った。
区民体育館は少しずつ熱気を増してきていた。
まだ一回戦であるとはいえ、団体戦の勝ち残りを賭けた大事な試合。由紀の対戦相手も必死で、3ラウンド目となっても試合のペースを落とす気配はない。
が、由紀の方もそれは折りこみ済みで、額に汗をかきながらも相手の勢いに負けないよう懸命に脚を運んでいた。
(ふぅ……、まだ脚にはきてません。これなら、逃げ切れそう……!)
最初の頃に比べれば段違いに増したスタミナを実感する。今回の相手程度ならば、試合の三分間を逃げ続けても体力は尽きない。
序盤に上手く稼いだ10点のリードをこの段階まで守りきれている。だからあえて攻め急ぐ必要はない。今は時間いっぱいまで逃げ続けるのが得策だ。由紀は、ただ試合に勝つだけではなく、時間稼ぎをしていたのである。
(うふふ、一騎お兄ちゃんと練習した必殺技はまだ温存してますし! やっぱり私強くなってます! 今日はたくさん活躍してやりますからね!)
そんな事を考えていたら、不意に相手が動きを速め、すぐ目前に迫っているのに気付く。
「うっ、わ」
慌てて牽制のクイックを見せる。それを掻い潜るように迫る対戦相手。由紀は咄嗟の判断で、相手とすれ違うように前へとステップする。
その瞬間、相手は身体を硬直させる。急な方向転換に対応できず、少し遅れて由紀の後を追う彼女に対し、今度は由紀がミドルキックの動作を見せる。
実際に蹴り出したわけではないが、斜めに踏み込む動作だけで、相手はそれ以上近づかなくなった。この試合序盤から何度もミドルキックを見せていたおかげで、同じフォームから同じ技が繰り出されると相手は反射的に思ってしまったのだ。
(あっぶない……。思わず必殺技を出しかけました……)
内心ヒヤリとしながら、由紀は蹴り脚を戻して後退する。まだ必殺技を出すタイミングではない。そして、そのタイミングはこの試合中には訪れない。
由紀の思いを代弁するかのごとく、直後響き渡る甲高い音。試合終了の笛の音。達成感と疲れがどっと押し寄せてくる。
「ありがとうございましたー」
由紀は対戦相手にお辞儀して礼を言う。相手も小声で返答。なんだかんだで試合は10点差のまま決着し、由紀の記念すべき――真っ当な――初白星となる。
長いこと更新をさぼっていてすみませんでした。
休息を経てモチベーションが回復したので続きを書き進めたいと思います。
なるべくサボらないように頑張りますのでよろしくお願いします。




