12
区民体育館の一角で、とある女子高生の抗議の声が響いていた。
「なんなのですか一体! 急にこんな格好をさせられても、私はベルヒットなんて一切やったことがないのでございます!」
そう憤慨するのは林道。彼女はすでに運動用の服に着替え、防具を着ければすぐにでも試合が出来るような状況だった。服装だけは。
「まあそう怒るな。実は選手が揃ってなくて困ってるんだ。補欠用の枠にお前もエントリーしといたから、よろしくな」
平然とそう言い放つ早川だったが、当然林道は食い下がる。
「よろしくな、ではありません! だいたい、私がエントリーしたところで……」
「時間稼ぎくらいにはなるだろ、多分」
「時間稼ぎっ? この上なく失礼な響きなのでございます!」
必死の抵抗も聞き流し、早川は時計を確認する。もうじき9時半になろうかというところ。茜や麻衣がここまで待って来ないということは、何か事件にでも巻き込まれた可能性がある。もしそうなら、大会どころの話ではなくなってくる。
(携帯は繫がらないし、とりあえずあいつらの自宅に連絡取ってみなきゃな……。それで居場所がわからなきゃ、警察に連絡するしかない……。何事もなければいいが……)
心の底から彼女らの安否を心配する早川だったが、そんな中でも大会のスケジュールは着々と進行している。9時から試合が開始されているが、フィールドは4面しかないため同時に進行できる試合数は限られていた。
早川たちのチームは、最初の試合が終了してから入ることになる。よって、試合開始時刻はおおよそ9時半過ぎ。もうさほど時間はないが、早川はそれに構ってばかりもいられない。とにもかくにも茜と麻衣の安否確認が最優先だ。
「由紀、俺は茜と麻衣が無事か調べてみるから、しばらく外すぞ。試合の方はお前に任せた。オーダーは由紀、林道、榛原、天見の順番で行こう」
近くにいる由紀へと声をかける。由紀は少し不安そうな顔をしているが、頷いて了解した。隣で林道がまだ文句を言っていたが、早川は無視して彼女らに背を向ける。
彼は歩き出しながら、一応の念押しとして告げる。
「出来る限り、時間をかけてくれ。試合進行が早まればその分俺らの不利になっちまう」
麻衣と茜が無事だとして、彼女らが到着するまでなるべく時間を稼ぎたい。
そんな早川の言葉に、大儀そうに答える榛原と、凛々しく返す天見の姿があった。
「全く、私に時間稼ぎをさせるだなんて……。あなた達はどこまで失礼なんだか」
「善処します。出来る限りは」
「ほ、本気なのでございますか……」
その隣でいよいよ自分の運命が避けられないことを悟り愕然としている林道がいたが、由紀はやはりスルーしてこう言った。
「行きましょう、もう時間になります! ……茜ちゃんと麻衣ちゃんが来るまで、ここは私達で乗り越えなければ!」
準備万端で迎えたはずのこの大会。しかし朝からアクシデントに見舞われ、彼女らの第一試合は選手が揃わないままに行われるという事態になる。
優勝するためには、まず一回戦を勝ち上がらなければならない。
彼女達にとってこの第一試合が、一番の鬼門となるかもしれなかった。
「あれ、こっちじゃなかったかな?」
倒れていた女性の言うままに見知らぬ町を歩き続けて、まだ目的地へたどり着かないのかと茜も麻衣も怪訝に思っていた頃だった。
女性はそ知らぬ顔で首を傾げ、今までの苦労を一瞬で水泡に帰すようなことを言ってのけたのである。
「すまんな。どうやらあっち側らしい」
彼女は今歩いていた方向とは別の方角を指差した。
当然麻衣は口をあんぐりと開け、流石の茜も目を丸くしていた。
「ちょっと……こっちとかあっちとか、本当に行き先わかってるんですか? わからないなら人に聞くなりしないと……」
麻衣は気を取り直して、やや苛立った口振りでそう尋ねる。今の正確な時刻はわからないが、恐らく集合時間は軽く過ぎてしまっている。携帯を取り出して早川に連絡を入れたいけれど、この女性はそれをすると怒るので出来ない。
そんな麻衣のイライラを表情から汲み取ってか、女性は露骨に悲しそうな顔をする。まるで悲劇のヒロインのような口振りで彼女は語り始める。
「私はな、ただ……。お婆ちゃんが大好きで……。お婆ちゃんの作ってくれる味噌汁が……、本当に美味しかったんだ……。私は、ただ……」
(何の話よ……?)
全く意味がわからず真顔になるばかりの麻衣だったが、茜はなぜか感化されて涙ぐんでいた。
「麻衣ちゃん、もう少し協力してあげようよ!」
「うん、そだね……」
真剣な顔でそう訴える茜の様子に、あくまでも茜に対して罪悪感を覚えた麻衣は、心の底からうんざりしながらも今しばらく付き合ってやることにしたのだった。
そんなわけで、再び彼女らの長い旅路が始まる。
途中で橋を渡ったり、トンネルを潜ったり、坂道を降りたり、階段を上ったり、とにかく知らない町を長々と歩き続け、女性の言う目的地を目指す。
(ああ、区民体育館が遠のいていく……)
その最中麻衣は二三度このように思って頭を抱えたが、女性を信じきっている茜を置いて体育館に向かうわけにもいかなかった。
そうやって長いこと歩き続けた先で
「ふむ、方角を間違ったか」
ぽつり、と女性が呟いたのを聞いて、とうとう麻衣の頭の中で、何かがぷつん、と音を立てて切れた。
「いい加減にッ! しなさいッ!」
麻衣が叫ぶ。血相を変えて。女性は言わずもがな、日頃の彼女とは一切違う様子に、茜ですら目を白黒させていた。
「さっきから何十分つき合わされてると思ってるのよ! 世界はアンタ中心で回ってるんじゃないの! 私らだって今すぐ区民体育館に行かなきゃならないんだから!」
そう言って茜の腕を引っ掴む。もう堪忍ならない。茜がなんと言おうとも、彼女を連れて会場に向かうべきだ。それでこの女性が困るとしても、自業自得というものだろう。
が、そこまで考えた麻衣と、腕を掴まれてびっくりする茜に向けて予想外の一言が、女性の口から放たれた。
「待て、区民体育館? ……実は私も、そこに用があるんだ」
「……は?」
思わず聞き返す麻衣。
だって意味がわからない。今日、区民体育館では何が行われている? ベルヒットの大会だ。そして、それ以外には何も催される予定などなかったはずだし、この行き倒れの女性が体育館などに用があるとは露ほども思えなかった。
それでも何とか合理的な解釈をするとすれば、
(大会の関係者? 選手ではなさそうだし、顧問とか、もしくは主催者側……?)
という可能性が麻衣の頭に思い浮かんだ。
いずれにせよ、こんな場所でモタモタしている理由はない。癪に障ることではあるが、この女性も目的地が一緒なら連れて行くのが道理だろう。
「ああもうっ。だったら最初に言えばいいのに! さっさと行きますよ、ほら!」
麻衣は女性に今一度肩を貸し、引っ張るように歩き出した。すると
「すまんが、疲れたからゆっくり歩いてくれ」
女性がそう告げて、麻衣の肩に重くのしかかる。
(ぐっ、ムカつく!)
麻衣は内心怒りで爆発しそうだったが、ようやく会場に向かえるという事実でなんとか気持ちを抑える。
対して茜は女性のもう片方の肩を持ちながら、
(さっきはびっくりしたけど、麻衣ちゃん落ち着いてくれたみたいでよかった)
微妙に呑気な考えを浮かべ、小さくニコリと笑顔を作った。
区民体育館の玄関。館内とは違い非常に静かなそこで、早川は電話をかけていた。
「そうですか……。わかりました。はい、また何かあればご連絡します。では」
そう言って携帯から耳を離す。ふぅとため息を一つ。麻衣と茜の安否確認のため、ひとまず麻衣の自宅へ電話してみたのだが、彼女の母親から告げられたのは次の事実だけだった。
(時間通りに家を出て、それっきり音沙汰なしか……)
つまり麻衣は体調不良などで家を出られずにいるわけではなく、ちゃんと到着するように出発したのだ。なのにまだ会場に辿りつかないでいる。だとすると事態は深刻かもしれない。迷子になっているだけならまだしも、事故や事件に巻き込まれていれば大事だ。
「茜の方は、気が重いな……」
茜の自宅に電話しようとして、その指が止まる。
彼女の父親といえば、彼の意向から茜が部活をやめさせられそうになった事件は記憶に新しい。
今回茜が会場にたどり着いていないのは別に早川のせいではないのだが、部活の大会に揚々と出かけて行った愛娘が失踪とでもなれば、あの父親からどんな風に監督責任を追及されるかわかったものではない。
とはいえ、そんなことより教え子の身の安全が第一と思う早川は、意を決して茜の自宅に通話をかける。ベル音を数度聞いて、若干緊張しながら待つ早川。
投稿が遅れましてすみません。