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「それはな、ローキックだ」


 早川は短く答える。ローキック。最近はミドルキックを練習しているが、ローキックに関してはまだ麻衣も由紀も教わっていないのだった。


「ベルヒットでは正直、ローキックは地味な技だ。リーチはそれほど長くないし、当てても1ポイントしか奪えない。その代わり、隙は蹴り技の中では最も少ないし、避ける事が非常に困難な技でもある。一番の特徴は、それがベルヒットでは唯一の下段技ってことだ」


 下段技。要するに相手の身体の下側を狙う打撃は、このローキックを除いて他にはない。ローキックを受ける相手は、否応なく身体の下側へ意識を割かなければならない。普段はボディのガードだけ固めていればいいものを、ローキックの選択肢が増えるだけで一気に処理すべき視野の範囲が広まるのだ。


「素早いフットワークで踏み込んで、ローキックとブローの2択で揺さぶる。使いこなせばかなりのレベルまで通用する武器になるぞ」


 早川の指導に口答えする理由など麻衣にはなかった。今までも彼の言うとおりに練習すれば、必ず結果に繫がってきたのだから。早川が自信を持って教えるということは、きっとそれ相応の価値がある技術ということだろう。


「了解。ところで……ミドルキックとローキックはどっちが優先なの?」

 麻衣は率直に疑問を口にした。今現在ミドルキックの練習を進めているところだが、次の試合までに完成度を高められるのは恐らくどちらか片方だけだろう。


「ああ、とりあえず麻衣に関してはローキックを重点的にやっていこうと思う。ミドルの方はゆっくり時間をかけて……」

「先生。やっぱり私のフォーム、問題あるのかな?」


 麻衣が早川の言葉を遮ったのは、以前からの不安が表出したからかもしれない。


 先日最初にミドルキックの練習をした時、麻衣だけが標準のフォームに違和感を覚えた。結局、練習としては標準のフォームに矯正していくことになったが、根本的に違和感が残っているのは事実であり、その感覚に引きずられてフォームまでおかしくなっているのではないか、と麻衣は心配しているのだった。


 早川は普段、指導中にあまり言葉を濁すような真似はしない。良いものは良いと言うし、その逆もまた然りである。だからこそ、今回早川が麻衣のフォームについて詳しい言及を避けていたことも、麻衣の不安を増長させていた。


「……いいや、問題があるわけじゃないんだ。ただ……、蹴り技っていうのは足に負担がかかるからな。フォーム作りは慎重にしないと……」


 この日も、早川は言葉に詰まるような様子でそう答えるだけだった。


 麻衣はいまひとつ腑に落ちない感覚を覚えながらも、それ以上追求することはしない。このように麻衣の練習計画はほぼ順調だったが、どこか重要な問題を抱えているように麻衣には思えたのだった。






 最後に指導の順番が回ってきたのは茜だった。


「茜、練習の方針はお前に任せようと思う。他の二人みたいに手取り足取り教えるってレベルでもないしな。だからお前がどういう風に上達していきたいか、それを教えてほしい」


 早速早川が茜に質問する。茜ぐらいのレベルになると今の問題点も、今後の展望もわかっているだろう。ベルヒットのプレイスタイルは人それぞれだから、自分の目指す形がわかっているのならそれに練習を合わせるのが望ましい。その上で、勝つために不足している部分をコーチである早川が指導できればいいのだ。


「うん、本当はもっとキックを使って攻めたいんだ。遠い距離から相手にリスクを与えられれば、近づけるチャンスももっと増えると思うし……それに」


 早川には、なぜかその先に続く言葉が直感的にわかった。


「朝音さんもそのスタイルだったな」


 藤堂朝音。茜の母である彼女は、ブローの威力もさることながら、やはり強烈なキックで世界を取った女性だ。ブレイクに代表される全身を使った蹴り技は、体格の小さな日本人でも屈強な世界の選手にダメージを与えられる有効な手段だった。当然、茜もその技を引き継いでいるはず。


「前はもうちょっと出来てたんだけどね。中学のブランクもあるのかな、体が重くてさ」


 明るく振舞う表情の中に微かに浮かぶ自嘲的な影。彼女は彼女なりに、自分の現状に納得していないのだ。そう早川は思った。


「そうだな……。以前と比べて体も成長してるだろうし、思うようにいかないのは仕方ない。時間をかけて戻していくしかないな。練習内容としては、下半身、体幹のトレーニングにボディバランスか」


 身体の支えをしっかりと作ること。それがキック力、さらにはブローの重さにもつながってくる。


「でも、それだけじゃ足りないとも思うんだ。何が、ってわけじゃないけど……」


 茜はそう言葉を濁す。彼女にもはっきりとは掴めていない不安の正体。それを早川はすでに予想していた。


「ああ、俺が思うに防御面だな。今はまだ一方的に攻めることで誤魔化せているが、上に行けばいくほどそれは通用しなくなる。自分より攻撃的な選手に当たった時、ディフェンスに穴があると痛い。お前はまだ、その状況を経験していないみたいだ」


 早川が指摘する茜の弱点は、守りの技術だった。

 早川の予想では彼女はまだ、本当の意味で守りを磨く機会を得ていないのだ。裏を返せば、守る必要が無いくらい圧倒的な攻撃力を持っていたということ。その強さが弱点を隠してしまう。


「今後もウィービングの練習は続けていく。あれをお前の防御の要にしよう。もっともっと強い相手にも通用するように」

「……うん!」


 強く頷く茜。その様子を見て微笑む早川だったが、本心では彼もまたわずかな不安を抱えていた。


(いくら防御を固める練習をしたって、実際に必要な場面にならなければ、本当に大事なことは身につかない……。それがいつになるかはわからないが、価値のある敗北は早いほうがいい……)


 敗北は、自分の弱点を見つめなおす機会だ。


 弱点を気にせずに勝ち続けられてしまうことは、一見すると良いことのようだが、実は危険な落とし穴なのだ。

 ある一つの面で大きく優れた選手ほど、その落とし穴にはまる危険性が高い。

 だからこそ、彼女はなるべく早く挫折するべきだ。早川はそうまで考えていたのだった。


 そんな中、不意に茜が尋ねる。


「早川先生。ずっと気になってたんだけど、先生はもう試合に出たりしないの?」

「え?」


 茜の突拍子もない質問に、早川はきょとんとしてしまった。

 そんな彼に続けて尋ねる茜。


「だって先生まだ若いし、インターハイ出たくらい強かったのに、私達に教えるばかりで自分はやらないなんて勿体ないんじゃないかなって……」


 言葉を選びながら。その様子は、言葉そのものよりももっと重たい意味を含んでいるように早川には思えたのだ。


「ひょっとして、自分でベルヒットをやれない理由があるの? その、例えば……、どこか怪我してるとか……」


 言い辛そうな言葉をなんとか口にした茜の顔には、早川を心配する気色がありありと浮かんでいた。彼女自身、母親の事故の件もあり、そういった事情に敏感になっているのかもしれない。早川が若くして指導に専念している理由を、そう解釈したのは母親の件があってこそだろう。


 早川は突然の事にしばらく驚いていたが、数秒の後


「いいや、そんなんじゃないよ。俺は怪我なんてしてないし、ベルヒットをやめなきゃいけない理由なんてない。ただ、今はお前らに教えることが一番楽しいだけさ」


 彼はにぃ、と明るく笑顔を作って答えたのだ。


「言われてみれば、確かにたまには自分でやるのもいいかもな。由紀と麻衣が一人前になるまではそんな余裕なさそうだけど」


 冗談めかして笑う早川。だが嘘をついている様子ではない。そう茜は思い、ホッとしたように胸を撫で下ろす。


「なんだ、よかった」

「ま、余計な心配すんなってこった」


 あくまで軽い調子で、早川はそう茜に告げたのだった。






 こうして茜の練習計画もほぼ固まった。

 後は出来うる限り愚直にやるべき事をこなしていくだけだ。


(そうとも、俺はベルヒットをやめる必要なんてなかった……)


 通常練習に戻った部員たちの様子を眺めながら、どこか遠い目をしている早川がいた。

 その瞳の奥にあったのは、後悔とも、憤りとも取れる不思議な感情。


(やめなきゃいけなかったのは、俺じゃない……)


 彼の目が見つめていたのは……。


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