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「アップ終わりです、浅倉先生」
坊主頭、と言っていいくらいの短い髪、爽やかな男子生徒が、やや老年に差し掛かりつつある男性教諭にそう告げた。
「うむ。峰岸とスパーリングに入れ。大会も近いからな」
「はい!」
わずかに滲む汗をタオルでふき取りながら、男子生徒は明るく答えて振り返り、もと居た場所へと駆け戻っていく。場所は体育館。燃えるような熱気に包まれたその空間は、確かに彼ら全ての青春を包み込んでそこにあった。
男子生徒が戻った先には、同じように短めの髪を後ろにかき上げた、浅黒い肌の青年がいる。
彼は高校生にしてはひどく落ち着いた声色で、こう尋ねるのだ。
「今日もお前とスパーか」
「ああ、試合ももうすぐ近くまで迫ってる。実戦形式の練習を多めにしたい」
「……まさかこの学校で、ちょうどいい練習相手が見つかるなんてな。入部したての頃は、夢にも思わなかった」
浅黒い肌の青年は急に含みのある言い方をする。それを聞いた男子生徒は、微妙な表情を浮かべて答えた。
「峰岸。確かにうちは弱小だった。でももう過去の話だ。俺たちは胸を張れるだけ勝ってきたじゃないか」
「そうだな……。去年の秋も、この春も……、まさかお前があそこまで勝ってくれるとは思っていなかった。俺たちが勝てたのは全て、お前のおかげだよ」
峰岸、という青年が口にした賞賛は、しかし男子生徒の顔色を優れさせなかった。
「それは違う。俺たちはチームだ。勝ったのは皆の力だろ」
峰岸はそれを聞き、ふん、と小さく息をつく。
「結果的に見れば、団体戦の勝ち星は全て俺とお前のものだった。俺とお前の力で勝ったんだ」
「峰岸……!」
男子生徒は怒りを帯びた顔つきで峰岸を睨む。
「落ち着け、俺は他の連中を責めてるんじゃない。お前を褒めてるんだ。こんな学校で、まさか団体戦に望みをかけられるとは露ほども思わなかった。お前がいなければ……」
男子生徒は何も答えない。ただ押し黙って、峰岸の顔を見ていた。そんなことを気にも留めず、峰岸は語り続ける。
「なあ、もしもだ。もしも、俺かお前のどちらかが、ベルヒットを続けられなくなったら……、その時はどうなるんだろうな、このチーム」
「……」
男子生徒は顔を背けた。そんな話に興味はないと、言外に告げるように。
するとその様子を察した峰岸が小さく笑って言う。
「冗談だよ。本気にするな」
「……当たり前だ。それより早く始めるぞ。大事な試合の直前に、バカな話をしてる暇はないんだから」
「わかったわかった。ったくお前は本当に……」
峰岸は、両腕を低く構える独特なファイティングポーズをとりながら告げた。
「超がつくほどの熱血だなぁ。早川」
「先生! 早川先生!」
急に聞こえた声は、他ならぬ教え子のものだった。
「ん、あ、ああ……」
早川は気付く。今は練習中だった。それも自分の練習ではない。自分が顧問を務める第七格闘部の練習だ。その指導を行なっていたはずが、自分でも気付かない内に考え事で我を忘れてしまっていたらしい。
不思議そうな様子で早川の顔色を覗き込むのは麻衣。
「どうしたの? 練習中にボーっとして」
「いや、何でもない」
なるべく表情を変えずに早川はそう答えた。しかし麻衣の目からすれば、そうやって表情を固くしている早川の様子が、何よりも変に見えるのだった。
「しっかりしてよね。俺が止めるまでフットワークだって言ったのは先生でしょ」
麻衣は口を尖らせる。早川は慌てて今の時間を確認する。予定の時間をオーバーしてしまったようだ。茜と由紀もさすがに長すぎると判断したのか脚を止めてこちらを見ている。3人の代表として麻衣が早川に確認しに来たのだろう。
「ああ、すまんすまん。次は一人ずつ指導するから、まず由紀から来てくれ。麻衣と茜は例のトレーニングだ。前にやったのを休憩挟んで3セット」
「げっ」
露骨に嫌そうな顔をする麻衣だった。例のトレーニング、というのは先日練習したミドルキックの土台となる下半身の特訓のことであり、非常に消耗するキツイ練習なのだ。
苦い顔をしながら、麻衣が茜と由紀のもとに戻り早川から告げられた内容を伝える。すると由紀が意気揚々早川の前まで歩いてきた。
「はいはーい。私からですか。一騎お兄ちゃん」
「おう、面倒ごとは最初にすませて……」
「失敬な!」
憤慨する由紀をスルーして早川は早速由紀の指導を開始する。
由紀の現時点での到達点を一言で表すならば、初心者脱出、といったところ。
まだ細かい穴が目立つものの、防御に関してはそれなりに固まってきたし、カウンターを狙う立ち回りも茜との練習の甲斐あって、そこそこ形にはなってきている。
が、やはりまだ基礎体力という点で劣っている。由紀は良い動体視力を持っているが、それだけで何とかなる場面は少ない。打ち込まれても避けてカウンターを狙うためには、やはり素早い身のこなしが必要不可欠だった。
「クイックで打ち込むからな、全部かわせよ」
現に早川がスパーリング形式でブローをかわす練習を行なったのだが、
「はーい。って、そんなに近づくんですか?」
「本番じゃ相手は立ち止まってくれないぞ。ほらほら」
「ちょっと、ま、待って」
早川が距離を詰めて数発ブローを打つだけで由紀は裁ききれず当たってしまう。
「脚を止めちゃだめだ。至近距離のブローを見てからかわすなんて無理なんだから、とにかく自分の得意な距離をキープしないと」
「そんなこと言われても……」
「つべこべ言わない! お前はまだまだ鍛錬が足らんと言う事だ!」
泣き言を言う由紀に厳しい声を飛ばす早川だった。このように、由紀の練習はやはり基本的な身体の動かし方に重点を置いていくこととなる。
ただし、まるっきり目新しい内容が無かったわけでもない。
「一つだけ、お前に教えることがある。これを実践するだけで劇的に試合が楽になるんだが」
「はっ、もしや私にも必殺技が!」
由紀は目を輝かせて早川の次の台詞を待つが、彼女の期待は叶わなかった。
「いや、教えるのは姿勢の話なんだ。相手が近くに来た時、今よりも少し上体を低く落として、ボディのガードを固めるといい」
口を開けたまま悲しい顔をする由紀。早川は気にせず続ける。
「ガードを固めて反撃のタイミングを待つ選択肢を持つわけだ。今まではとにかくステップで距離を取るしかなかったから、読まれると辛かった。今後は脚を止めた防御も織り交ぜて、相手の意識を分散させていこう。上手くやればすぐにでも結果につながるぞ」
早川が由紀を元気付けるように言うと、渋々といった様子で由紀が答える。
「うう、わかりました……。やってみます……」
以上が校内選考会に向けた由紀の練習プランだった。
続いて早川の前にやってくるのは麻衣。
「お願いしまーす」
いつも通りの挨拶と共に麻衣の指導は開始する。
「麻衣、お前は現時点で守りは十分だ。前回の試合で痛感しただろうけど、自分から点数を奪いに行く手段を身につけたいな」
「うん。今のままだと、最初にリードを奪われたらどうしようもないしね」
攻め手に欠ける。早川と麻衣の問題意識は同じだった。
「基本の攻撃はクイックだ。特に麻衣はフットワークがいいから、素早く近づいて打つだけで十分武器になる。それは今後練習していくとして、もう一つプラスアルファの技術を教えようと思う」
早川が自信ありげにそう告げた。麻衣もその内容が気になるようで目を丸くして尋ねる。
「その、プラスアルファとは……?」




