序章2
「いやーごめんごめん」
脇から、一人の女生徒が声をかける。ボールを飛ばしてしまったことを謝り、夜風からボールを受け取る。その女生徒は特に何の感慨も示さなかったが、茜は違った。
女生徒がもとの場所に戻るや否や、茜は堪えきれずに言ったのだ。
「すごい……! 今どうやったの!?」
別の方向から迫り来る二つのボールに対応し、そのどちらも完全に勢いを殺しきって受け止める。そんな芸当が自分には出来そうもないと、茜は思ったのだ。
「……」
夜風は黙ったまま、足元のボールを拾い上げて両手で抱えた。そしてそのまま両手を茜の方に突き出して、ボールを差し出すような素振りを見せる。
(受け取って、ってこと?)
茜はそう考えて夜風の手にあるボールを掴もうとした。すると、
するり、とすり抜けるように、ボールは茜の目前から消える。一瞬遅れて茜は、夜風が片手でボールを弄び自分から遠ざけていることに気付いたのだった。
「取ってみろってことだね……!」
茜は顔色を変えて夜風に向き直る。どうやら彼女は茜に対して挑戦状を叩きつけているようなのだ、つまり、自分が持っているこのボールを、奪えるものなら奪ってみろ、と。
茜は真剣な目でボールをじっと見つめる。夜風がそれを動かす様子はない。ずっと片手で持ったまま、茜の動きを待っている。茜が動いてから反応する自信があるのだ。反射神経に自信があるのか、はたまた動体視力? どちらにせよ、茜はそれを打ち崩す方法を持っていた。
「ふっ!」
茜は鋭く息を吐いて、ボールに右手を伸ばす。素早くボールを奪うために。
が、それは本当の狙いではなかった。
夜風がぴくり、と体を動かし、ボールを茜の手から守ろうとした瞬間、茜は大きく踏み込んで左手を伸ばし、逆側からボールに触れようとする。たとえ反射神経が良かろうが、むしろ反射神経が良いからこそ、この手のフェイントには引っかかってしまう。ベルヒットで培われた戦略の一つだった。
そして目測に狂いなく、茜の左手がボールに触れようかという瞬間
不意に、茜の視界からボールが消えた。
と思ったのも束の間で、気付けば夜風がボールを高く掲げており、茜を弄ぶようにひらりと身を翻したのだ。茜は咄嗟に対応できず舌を巻いた。
(読まれてた……? いや、次こそ!)
茜はめげずにもう一度、夜風からボールを奪おうと挑戦する。
しかし、一回、また一回と、その試みは失敗に終わっていく。全く力む様子も無い夜風は、踊るような身振りで茜の体をすり抜ける。
そんな行動を何度か繰り返し、いよいよ茜は実感する。
(さ、触れない? そんな、まさか……)
ベルヒットで鍛えた身のこなし、作戦が全く通用しない。
それどころか、茜が策を講じれば講じるほど、むしろそれを逆手に取られているようにすら思えるのだった。
(すごい……! こんな子がいるなんて!)
茜はいつしかこの勝負に夢中になっていた。
必死にボールを追っているうちに、彼女は少しヒートアップしてしまったのだ。
夜風が茜からボールを遠ざけた瞬間、茜は咄嗟に飛びつくようにそのボールへ掴もうとしたが、ボールよりも前に夜風の体に手が触れる。
茜は予想せず、夜風の体に抱きつくような格好になってしまう。
「……あ」
そう声を漏らして、しかしすぐに夜風の体を離さなかったのは、夜風が驚きでぴたりと動きを止めていたことに気付いたからだった。
恐る恐る、そして出来るだけ速やかに、彼女の持つボールを奪い取った茜。
「えっと、私の勝ち、なんちゃって……」
図らずも正々堂々とは言えない方法でボールを掴んでしまった茜は、ようやく夜風の体を離して恥ずかしそうに笑った。
(いっけない……、やりすぎちゃったかな?)
頭の中では少しばかり困惑した思考を転がしながら。
今日始めて会った人間にいきなり抱きつかれたりしたら、誰だってびっくりするだろう。
馴れ馴れしいやつだ、と思うかもしれない。
無言の夜風の心境を勝手にあれこれ想像し、戸惑っていた茜は、直後それが杞憂だったことに気付いたのだった。
「……くす」
初めて聞いた、か細い笑い声。
人形のような細い喉を鳴らし、微かに聞こえるそよ風みたいな音色。
今までついぞ一言も発さなかった無口な少女が、俯いたまま小さく肩を震わせていたのだ。
「あ、あはは。なんか変な感じになっちゃったけど、面白かったね」
茜もつられて笑顔になる。会話と呼べる会話はしていないけれど、意志の疎通は充分できている。そんな気がしていた。
「……」
夜風はなおも一言も喋らないままだったが、顔をちらちらと上げては茜へ視線を送る。が、時折目があうと、再び恥ずかしそうに顔を伏せてしまうのだった。
「時間じゃー! チームに分かれて試合をするぞー!」
そんな最中、老年の男性の声が響き渡る。
茜たちもその声の方へ向き直り、この時間の終わりを悟る。
初対面の相手に過ぎないけれど、どこか名残惜しいような、もっと続けていたいような、そんな不思議な気分に襲われる茜。彼女はその気持ちをぐっと我慢して、口を開いた。
「楽しかったね。またやろう!」
夜風は答えず首を縦に動かした。
それが彼女なりの感情表現であることを、すでに茜は理解していた。だから決して聞き直したりすることもなく、嬉しそうに微笑んだのだった。
その後、彼女達はそれぞれのチームに別れてサッカーの試合に興じることになったが、茜と違って夜風がグラウンドを駆け回ることはなかった。茜は経験者顔負けの活躍をしながらも頭の片隅で、試合に参加していない少女のことを少し気にしていた。体が弱いために見学せざるを得ない彼女のことを。
しかし今はまだ、結局二人は他人同士だった。
その日の放課後。厚いカバーの本を抱えた少女が廊下を歩いていた。
彼女は長い髪をなびかせ、俯きながら歩いている。そのため表情は窺い知れない。ただお世辞にも力強いとは言えない足取りで、よたよたと進んでいるのだった。
彼女の口元が少しだけ弛んでいたことに、気付いた人間は全校中に一人としていなかっただろう。しかし確かに彼女は、その日ばかりは普段と違っていた。
「ねーねー、図書館ってどこ?」
そんな彼女に、声をかける人物が一人。
「っ……」
驚いてぴくりと肩を震わせる少女は、しかし決して顔を上げることはせず、ただ恐る恐るといった様子である方向を指差したのだ。すなわち、自分が歩いてきた後方を。その指先が震えていたことに、声をかけた女生徒は気付かなかった。
「え、あっち……ってこと?」
女生徒は難儀そうに眉を寄せる。彼女は追ってこう質問した。
「んー、西棟なの東棟なの。2階なの3階なの」
矢継ぎ早に重ねられ、途端に無口な少女は動きを止める。
「……」
彼女は何も口に出さず、ただ俯いて立ち尽くしている。
道を尋ねた女生徒はとうとうじれったくなった様子で声を荒げた。
「ちょっとー、聞こえてますー? どうして何も言ってくれないのかなー?」
そう言って下から覗きこむように強引に視線を合わせようとする。しかし無口な少女はそれを恐れて顔を背けようとした。女生徒はムッとしてさらに無理やり顔を覗き込もうとする。そんな競り合いが数秒続いた後、
「ひょっとして、その子いじめてんの?」
不意に、横合いから声がかかったのだ。
道を尋ねた女生徒が振り向く。彼女は目を丸くした。
でかい。そんな単純な感想。自分の身長を大きく上回る女。だが鈍重には見えない。均整の取れたしなやかな肉体。完璧なアスリート体型。どこからどう見ても、天性のものとしか思えない。そんな女が、目を細くして睨んでいたのだ。
女生徒は、その人物に見覚えがあった。噂にも聞いた事がある。第一格闘部の部員なのだ。
今年度入学した生徒の中でも飛びぬけた実力を持ち、すでに先輩を差し置いて今年度のレギュラーの座を奪いかねないほどと言われている、本学2番手の特待生徒。
中学時代から、双子の妹と共に道内では有名な選手。その名は確か……




