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序章1

 少しずつ暖かくなってきた5月の中旬。ゴールデンウィーク明けのやや気だるい雰囲気を醸し出しながら、ジャージ姿の生徒達が体育館の裏口から次々と屋外グラウンドの方へ出て行く。その中には、第七格闘部の部員でありエースである広橋茜の姿があった。


 この時間は体育の授業だった。どんな競技であれ身体を動かす事が好きな茜にとって、退屈な授業の間に時折訪れる楽園の時間とも言える。


 茜はTシャツとボーイッシュな短パン姿で、グラウンドに駆けていく他の生徒達を見ながら、その場で軽くストレッチをする。

 日差しが彼女の髪に反射して、いつも異常につやつやとした健康的な輝きを放つ。


 赤茶けたグラウンドの土を踏みしめて、走り出す茜の足元に、転がってくる白黒のボールが一つ。


「おっと?」


 彼女はそれを反射的にトラップしてドリブルを始める。慣れた様子でボールを蹴りながら、それが転がってきた方向に目を向ける。一人の生徒がボールの沢山入った籠の脇で手を振っていた。見知った顔だった。どうやら彼女が、茜にボールを渡してくれたらしい。


 適当にボールを転がしながらグラウンドの中央付近まで行くと、そこで老年の体育教師が指示をしているのが聞こえる。彼は校内でも有名な先生で、第一格闘部の顧問の一人であることだけは茜も知っていた。名は確か浅倉先生といったはず。


「二人一組でパス練習開始じゃ!」


 周りの生徒達がすぐにペアを作って練習を開始する。といってもボールを互いにパスしあうだけである。茜は誰と組もうかくるりと見回す。まだペアを組めていない人はたくさんいるようだったが、その中である一人に視線が止まった。


 顔が隠れそうなぐらい長い髪に、軽く俯いたその表情はうかがい知れない。華奢な少女。ただ周りの人達が次々ペアを組んでいく中で、彼女だけはほとんど身じろぎもせず、グラウンドの端の方でちょこんと佇んでいたのだった。


「……」


 茜は生来、積極的に友達を増やそうとするタイプではない。


 一度関わりを持てば大抵どんな人とでも仲良くなれるものの、あえて他人と交わろうとすることは少ない。全く知らない人に自分から声をかけることなど滅多になかった。


 だから彼女自身不思議だった。

 どうして私は、この子に話しかけてるんだろう、と。


「ね、一緒にやらない?」


 茜は気付けばグラウンドの端の方におり、立ち尽くしている長髪の少女の前で口を開いたのだ。


 それぐらい近づいてもまだ、髪に隠れて顔はよく見えない。

 ただひどく細身な体つきで、運動が大得意、という風貌ではない。ひょっとしてこのサッカーの授業にもあまり乗り気ではないのかもしれない。


 そんなことを考えながら、茜はふと彼女の顔が小さく縦に動いたのを感じた。


(いいよ、ってことかな?)


 返事はなかったが、拒絶されたのではないことを本能的に確信した茜は、ボールを優しく彼女の足元に転がした。


 長髪の彼女がちゃんと足で受け止めたのを見てから、茜は初めて名前を告げた。

「わたし、広橋茜。名前教えてもらってもいい?」


 そして返事を待つ。少女の声を聞けるかと思ったが、少しばかりの沈黙の後、その予想は裏切られた。


「……」


 無口な少女は、左肩を前に出して、そこに縫いこまれた刺繍を指で示したのだ。

 体操服の肩口に書かれた文字は、彼女の名前だった。


 『霧島 夜風』と書かれている。


「きりしま……よかぜ?」


 茜は珍しそうに聞き返す。すると少女は俯いたまま、小さくこくりと頷いた。


「夜風ちゃんっていうんだ。爽やかで素敵な名前だね」


 茜はあまり人にお世辞を言うような性分ではなかったが、またも自分で驚くくらい自然と褒め言葉が口からこぼれた。ことによると自分は、この無口な少女のことがひどく気になっているのかもしれない。そんな風に茜は思った。


 不意に、茜はその少女がもじもじと何かをしている事に気付く。


「ん? なになに?」


 茜はそう聞き返す。傍から見るとまるで意味のわからない行動だったが、茜の目には何かのジェスチャーのように見えたのだった。


「……!」


 無口な少女はぴくりと肩を震わせて動きを止める。驚いている、と茜は解釈した。


「どうしたの?」

「……、……っ」


 今度は慌てて小さく体を動かす少女。茜は目を丸くする。


「ええっと……体が弱くて、激しい運動が出来ないってこと?」

「!」


 少女はこくこくと首を縦に振って肯定する。


「そっか……。それじゃあ、やめといた方がいいのかな」


 茜が残念そうに呟くと、夜風はまたもや慌てて体を動かす。意外に感情表現が豊かだ、と茜は気付いた。


「……!」

「あ、ちょっとぐらいなら大丈夫なんだ。それじゃ激しくならないようにするね」

「……」


 少女は自分の意図が伝わった事に満足した様子で肩を降ろす。その仕草がとても可愛らしく思えて、茜は思わず笑っていた。全く喋ってはくれないけれど、悪い子ではなさそうだった。


「夜風ちゃん、練習しよっか」


 茜はそう言いながら身振りで、足元のボールをこちらに蹴るように伝えた。

 すると少女は、わずかばかり身じろぎもせず立ち尽くしてから、不意に足を後ろに引いたかと思うと、とても軽い力でボールを蹴った。


 ボールはゆっくりと転がり、茜の足元まで。弱弱しい動きだった。

 茜は転がってきたボールを左足でトラップし、今度は少し後ろに下がってからボールを蹴った。


 先程より勢いのあるボールだったが、夜風という少女はそれを柔らかく受け止めて、すぐに蹴り返す。意外と上手だ。そうやって何度かボールを行き来させているうちに、茜はいつしか夢中で彼女とのパス練習を楽しんでいた。


(受け取りやすい位置に蹴ってくれてる……)


 次第に気付く。彼女は決して運動が出来ないわけではなさそうだ。力強さはないけれど、繊細で柔らかい体の使い方をする。茜は今までこんな人間に出会った事がなかったから、無意識に気分が高揚していた。


 そんな中、茜が何度目かのパスを行なおうとした瞬間だった。


「あかねー! ボール取ってー!」


 横合いから響く焦ったような声。


 声の主を判別するより先に、声の方角から茜の目に白黒の球体が映る。と、同時に、今まさに足元のボールは蹴られ、茜の制御下から離れてしまう。


 そして一層厄介なことに、横合いから跳んできたボールと、茜がたった今蹴ったボールはどちらも、同じ場所に向かって進んでいるようなのだ。

 すなわち、夜風という無口な少女に目掛けて。


「あ、ごめん!」


 茜は咄嗟に声をあげた。

 が、その瞬間


 少女は非常にゆっくりと――近づいてくるボールのスピードを考えると現実的にはありえないことだが、とにかく茜の目にはそのように見えた――俯きがちな顔をあげたかと思えば、自分に向かってくる2つのボールの軌道上に立ったまま、


 空中を飛んでくる片方のボールには、右腕を。

 地を転がってくるもう一つのボールには、左足を。

 何の力みもない穏やかな動きで、差し出したのだ。


 その一連の動作を茜は、目を丸くして見つめていた。


(綺麗……)


 体が心と一つになっているような。

 体が望むとおりに自然に動いているような。

 そんな不思議なしなやかさを感じた茜は、思わず夜風という少女の顔に視線を奪われた。


 長い髪の下から微かに覗く、端正な顔。透き通った素肌。物憂げな、瞳。神秘の妖精に魅入られるように。


 気付けば彼女の右腕の上に、まるで小鳥がとまるかのように、一つ。

 左足に、まるで最初からそこにあることを義務付けられていたかのように、一つ。

 彼女達の制御を離れていたはずのボールが、迎えられていた。

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