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フィールドの上ではまだ、勝負が続いている。
(近づけない……)
榛原から距離を取り、その様子をじっと観察するのは茜。
見るからに相手は体力の限界を迎えている。勝負をかけるのであれば近づいて連打すればいい。が、今1点リードした状況で、榛原に近づくという選択肢が茜には採れなかった。
「わたし、が……」
榛原は悲痛な声を漏らしながら、必死に自らの身体を支える。
弱弱しい足掻きのようにも見える。しかし茜の目には、それは十分恐れるに足る執念だった。
勝ちたいと思う意志。たとえ実を結ばなくとも、その力はかようにも強い。
震える脚が30秒間を耐え抜いたのは、決して偶然などではない。
「また、試合をしよう……。今度は変な事情も抜きで、必ず……!」
茜は榛原に聞こえるように大きな声で言って、後ろへ振り向いた。
振り返ったその先に、感極まった様子で立ち上がる顧問と仲間達の姿が見える。
長い長い笛の音が鳴る。
茜もずっと固く引き締めていた表情を崩し、笑顔を見せた。
そのまま彼女は駆け出して、迎えに来ようとしていた由紀や麻衣のもとへ急ぐ。腕を大きく広げた由紀の胸に飛び込んで、三人はその場で飛び跳ねる。
「やった! やった!」
「勝ちましたよ!」
「私たちが!」
そこまで言って三人はふと動きを止め、すぐ傍まで歩み寄っていた早川の顔を見る。
彼もまたほっとしたような、感激したような表情を浮かべていた。
茜は一度皆の顔を見回した。それから
「私たちが勝ったんだ!」
観客にも聞こえるぐらいの大きな声で、そう宣言したのだ。
終わってしまえば、勝負はなんとも呆気ない。
(完敗だった……)
フィールドの中央に座り込みながら、呆然と空を見つめる榛原。彼女の耳には、観客たちが彼女の様子について語る言葉も、何も聞こえてはいなかった。
ただ敗北したという事実が、今の彼女にとって全てだった。
(無様だ……、私は……)
脚がもう動かない。立ち上がる気力もない。たった一人で佇む彼女の目には、いつしかじわりと熱い涙がこみ上げてきた。
勝負に負けて泣くだなんて、惨めすぎる。こんな弱みを他人に見せたら、もう二度と自分が強いなどとは言い張れないだろう。必死で服の袖やプロテクターを使い涙を拭うけれども、溢れる感情は止まらない。
「未来」
その時だった。
榛原の体が固まる。聞きなれた男性の声だ。自分の名を呼ぶその人の顔を、榛原は直視する事ができなかった。出来るはずがなかった。
「お、お父様……」
辛うじて喉から漏れるのはそんな言葉だけ。血の気が引くような感覚。終わりだ。彼が試合を全て見ていたのなら、自分がどれだけ情けなく負けたのかも知っているのだろう。
「ごめんなさい、お父様……! 私は、また負けてしまいました……。勝つ事が出来ませんでした……!」
いつかと同じ。思い出す。刻み込まれた恐怖。
『何も言うことはない』
父のそんな言葉を予想し、彼女は目を瞑った。
が、
「……頑張ったな」
この学校の理事長である、榛原未来の父親はそう優しく言って、俯く彼女の頭を撫でたのだ。
「お、父さま……?」
理解が追いつかない様子で、咄嗟に顔を上げる未来。
そんな彼女に言い聞かせるように、理事長は続けた。
「次がある。敗北から学ぶのもまた、強さだ」
瞳から自然と涙が溢れる。胸がぎゅっと締め付けられるように苦しくて、どうしていいのかわからない。ただ彼女は自分の感情を制御する事もできぬまま、父の身体へ抱きついた。抱きついて、泣き続けた。こんな風に甘えたのは、一体いつぶりだろうか。
憑き物が落ちたみたいに、どす黒かった彼女の雰囲気は涙と共に洗い流され、自分でも驚くくらい純粋な気持ちに包まれる。
何を差し置いても勝ちたいと願っていた。
たとえ他人を傷付けてでも、己の強さを証明するのは価値のあることだと。
しかし今、そんな邪念は心のどこにもなかった。
欲しかったものが何だったのか、気付いたからだった。




