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「ぐっ、か、は……?」
思わず咳き込み、目を開く茜。喉に違和感が残る。息を吸うのが苦しい。自分の身に起こった事が飲み込めない。当然、構えていた腕は振り出されずに終わった。
開けた視界の先に、見えるのは榛原の姿。
彼女はすでに、茜の手の届かない遠くにいる。
笑っている。不気味に、妖艶に、冷たく。
茜はそこで理解した。同時に、背筋が凍るような悪寒。
「どうしました……? まさか、目をつぶっていればいいとでも? この私相手に……」
榛原はそう尋ねる。茜を詰るがごとく。茜は思わず審判を見る。自分の理解した通りであれば、審判が何らかの反応をしていなければおかしい。なぜなら、
「喉元を打ったから反則……、そんなことを考えても無駄ですよ。あなたの腕に隠れて観客からは見えてません。審判は……私の味方です」
淡々と告げる榛原。審判は表情を変えず、試合の様子を見ているだけだった。
首に残る違和感と痛みに堪えながら、茜は拳を強く握る。喉は有効な打撃部位ではない。それどころか、顔面と同じで打てばペナルティが与えられる。普通の試合であれば。
「最初から、審判にも手を回してたってこと……?」
茜は震えそうな声を絞り出して尋ねる。
「ふふ、何か不満がありそうな顔をしていますね……」
対して榛原は、悪びれるでもなく、うそぶいたのだ。
「1パーセントでも負ける可能性があるのなら、徹底的に排除するのが賢明でしょう。どんなに良い試合をしたところで、負けてしまえば何も残らないのだから……」
榛原未来の信念。哲学とでも呼ぶべき、思想。
それは父親から与えられたものか。それともその関わりの中で自ずから築いたものか。
「負けた人間にかける言葉などない……。だから私は勝つんです。たとえどんな手を使っても……」
執着する。病的なまでに固執する。勝利という二文字に。
「一人でも多くの人間を踏み越えて進む……。踏みしめた敗者の数が、上に立つ者の強さを証明する……。そうして得られる強さだけが、人を価値のあるものにする……!」
断言する。
「広橋茜! 私はあなたに勝って、また一つ上に行く!」
「それは違うよ……!」
茜の瞳に、小さな炎が灯る。
怒りにも似た感情。未だかつて抱いたことのない気持ちを、彼女は留めもせず吐き出していく。
「強さの本当の意味なんて、私にはわからない……。でもあなたの言う強さより、もっともっと大切なもの、私は知ってる。勝負に勝つことよりも、もっともっと大変で、もっとずっと向き合っていかなきゃならないこと、私は知ってる……!」
その目は毅然と榛原を見つめる。濁りのない、純粋な、それでいて燃えるような瞳。
「私は、たとえ勝負に負けても、弱い自分には負けたくない!」
言い放ち、走り出す。榛原未来へ向かって。
脇目も振らず、後のことも考えず、ただ突き進む。
渾身の力で地を蹴り、榛原との距離を瞬く間に縮めていく。
(速い……!)
榛原も必死のステップでその追撃を避けようとするが、やはり逃げ切れない。
瞬時に巡る思考。リードは10点。しかしこれを守りきろうとするのは得策ではない。
(気迫で押せば、私が後手に回るとでも……?)
榛原の右腕が高く掲げられる。コンヴェルシ・ブローの構えだ。この試合において茜を苦しめ続けたこのブローに、榛原は勝負を委ねる。
「目をつぶるなら、今度は顎先に当てますよ……」
構えたまま、榛原は小さく呟いたのだ。
それは植えつけた恐怖心を刺激するための言葉。茜の猛進を止めるべく撒いた仕掛けである。勝つためならば手段は選ばない。実際には反則行為であっても、それで相手の動きを止めることが出来るなら、榛原は迷わず利用する。
そして、鋭く振り出される拳。茜の顔面を狙い、一直線に。
茜が止まらなければ、その頭を打ち抜くであろう軌道で進む。
榛原が目を疑ったのは、次の瞬間だった。
広橋茜は、自分から当たりに行くように、ブローの軌道上に頭から突っ込んだのである。
両目は大きく見開いたまま、怖じる様子など微塵もなく。
榛原は目を疑い、咄嗟に身を固くした。
(な、にを、考えている……!)
榛原は幾重にも重ねた恐怖という網で、茜の動きを縛ったと思っていた。
一度わざと喉に当てることで、反則行為もいとわないと暗に示したはずなのだ。茜にも、それが伝わっていないはずはなかった。
それなのに、なぜこいつは前に進んでくる?
榛原は、大きく開かれた茜の目の内に、強い意志を見た。そしてそれに恐怖した。
(まずい……!)
榛原は間一髪で、茜の顔面を打ち抜こうとしていた拳を上に逸らす。直撃すればいくら審判を味方にしていようが反則負けは免れない。咄嗟の判断だった。
結果、身体の重心が大きく上に浮き、身体が開く。バランスを保てない。得意のフットワークも、重心が不安定では形無しになってしまう。
(しまった……!)
驚愕する榛原の視界に、今まさに腕を引き、全身の力を右腕に集約する茜の姿が映った。
直後、鈍く彼女の全身を穿つ衝撃。
異常なほどの圧力が、胴体の一箇所に叩き込まれ、その周囲へと広がる。
痛み、痺れ、形容しがたい何かが体中を駆け巡り、榛原の意識が一瞬真っ白になる。
(……た、おれるわけには……)
下半身に襲い掛かる強烈な重力。船の上にいるように覚束ない足元。震える脚を支えるのは、執念だった。
勝たなければならない。
たとえどんな手段を使っても。たとえ相手を傷つけてでも。
勝たなければ、私は私でいられない。
(私は、勝たなければならないんだ……!)
辛うじて踏みとどまる榛原。
だが、その前には
「やあああッ!」
咆哮し、宙へと飛び上がった広橋茜の姿があったのだ。
彼女は空中で身を縮め、全身の力をバネのように体幹へと集約させる。
全身の力を余すことなく集めた、ジャンピングミドルキック『ブレイク』の準備姿勢。
彼女の右足はうなりを上げ、鉄槌のごとく、はたまた鎖鎌のごとく、決して破られる事のなかった榛原の執念を打ち砕かんと狙いを定める。
直後訪れるのは、壮絶な一瞬。激震する空気。破壊とでも形容すべき、打撃。
重く響く轟音が、観客の息を止めた。
誰一人、声を発する事ができなかった。
幾度となく茜の強打を浴びながら、ついぞ怯まなかった榛原が
誰もいなくなったかのように静まり返る体育館の中央で、尻餅をつき、倒れていた。




