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笛が鳴る。
茜の身体に、どっと疲労が襲い掛かる。長い長い第2ラウンドの終わりだった。
振り返った榛原の背中を見つめながら、茜は何を考えるでもなく立ち尽くしていた。
しかしすぐに、ある方向から名前を呼ぶ声が聞こえ、彼女は帰らなければならないことを思い出した。
振り向いたその先には、心配そうに彼女を見る顧問と仲間の姿がある。
小走りで第七格闘部陣営へ引き返してきた茜に対し、早川は開口一番こう言った。
「お疲れ。点差は残ってるけど、重いのを何発も喰らわせたな。相手はかなり身体にきてるはずだ。焦らずじっくりと……」
しかし言い終わる前に茜が、それを否定したのだ。
「たぶん、それじゃダメだと思う……。さっきみたいなブローじゃ、あの人は怯まないんだ」
「茜……?」
「もっともっと重たいブローじゃなきゃ……!」
茜が危惧したのは、榛原の見せた闘志だった。
普通の選手ならば痛みとプレッシャーで怯むような場面でも、彼女は一切退かなかった。それどころか追い詰められるほどに優れた力を発揮し、とうとう茜の全力の猛攻をほぼ失点無しで切り抜けてしまったのである。
麻衣と由紀は、茜の様子に固唾を飲む。このレベルの勝負になると、もう彼女たちにできることは茜の勝利を祈ることばかりである。
ただ、顧問はそういうわけにはいかない。
「茜、練習でやったことを覚えてるか? お前のブローをさらに重くするために教えたことだ」
早川が茜に問う。榛原の闘志を砕けるぐらい、重いブロー。茜が今欲しがるものは、すでに彼女の手の届く場所にあった。
「うん……。逆側の肩を引きつけて、背中の筋肉を使うんだよね? 練習でやったよりも、もっともっと強く……」
ぶつぶつと独り言を言いながら、身体の動きを確認する茜。
この正念場、もはや出せるだけの策は出し切ってしまった。早川は歯がゆいが、あとは茜の力に賭けるしかない。
思えば第2ラウンドの途中、茜がミドルキックを当てた時、早川は一度勝利を確信した。
あの身体で、あれだけの重たい打撃を受ければ、よもやまともな動きはできまい、と。
それが終わってみればどうだったろうか。
(あれだけのダメージを受けながら、茜と互角にやりあうなんて……)
榛原は茜の渾身のハードヒットを受け止め、さらには全力の猛攻を退けてしまった。
考えれば考えるほど、普通ではない。
早川は、自分が知らず知らずの内に、甘い予想をしていたのだと気付く。
(俺は、榛原のことを勘違いしていたんじゃないのか……?)
ただのお嬢様だと思っていた。
甘やかされて性格が歪んでしまっただけの、箱入り娘だと。
だから土壇場で、ボロが出るだろう。接戦になればこちらの有利だろうと、そう考えていたのだ。
だがそれは大きな間違いだった。
(ただのお嬢様じゃ説明がつかない……。榛原の強さは……)
その強さが一体どこから来るのか。
早川は、自分が彼女についてまだ何も知らないことに気付いた。
(何が、あいつを支えている……?)
「黒木先生、さきほどの話の続きですが……」
不意に理事長がそんなことを言うので、黒木は面食らってしまった。
「は、はい」
思わず飛び出たただの返事が、少々大きめの声になってしまい周りから視線を集める。といっても近くにいるのは格闘部系の顧問が多く、見知った顔ばかりではあった。
彼女達は会場の脇の方で、試合を観戦しながら会話をしていたのだ。
試合の展開が大きく動いたため一時的に話を中断していたのだが、黒木はまさか理事長から話の続きを切り出されるとは思っていなかった。
「私は、女性こそ強くあるべき、という考えでしてね」
一言、理事長がそう言った。
黒木はその言葉に、取り立てて大きな感情を抱きはしなかった。そういう考えの持ち主だということは知っていたからだ。
この朝日野女子高校を道内屈指のベルヒット強豪校に育て上げたのは、他ならぬ彼の功績だった。ベルヒットを通じて、女性の強さというものを広げていこうと、そう考えているのかもしれない。
「ですから普段は放任である私も、勝負事に関しては多少厳しくすることもあります。普段の接し方といえば、変わったところはそれぐらいかと」
「……では、理事長はこの試合の未来ちゃんをどうご覧に?」
黒木は慎重に尋ねた。
彼女、または多くの人からすれば、この試合はかなりの熱戦である。
点差を追う茜に、追いつかれまいと榛原。茜が王手をかけられながら土壇場で逆襲のミドルキックを決め、一気に勢いを取り戻したかと思えば今度は榛原が執念を見せる。
どのシーンを切り抜いても、両選手の強さが際立つ。
榛原未来の強さは本物だ。
彼女の人格に関わらず、それは認めざるを得ない事実である。
当然、理事長にとっても……。
「論ずるに値しない、としか」
だが理事長が口にしたのは、黒木の予想をまるっきり覆すような返答だった。
黒木が狼狽して尋ねる。
「今、なんと……?」
「どれだけ良い動きをしようが、相手を追い詰めようが、負けてしまえばそこまでです。勝負事における評価は、必ず結果に基づいて行なわなければならない」
理事長の哲学、とでもいうべき考え方が徐々に明らかになる。黒木も第三格闘部の顧問として、勝負事に関しては厳しい価値観を持ってきたつもりだった。しかし、この人の場合は少々極端かもしれない。そう感じざるを得ない内容を、理事長は語ったのだ。
「たとえ娘であっても、いやむしろ娘だからこそ、そこの認識を曖昧にするつもりはありません。負けた人間にかける言葉などない。それが世界の常識ですから」
言い放った彼の目は、真っ直ぐに、ことによると誰よりも真摯に、今から再開されようとしている熾烈な闘いの舞台を見つめていた。
負けた人間にかける言葉などない。
勝たなければ、誰も評価してくれない。
当然のことだ。どの世界でも同じ。スポーツも、受験も、社会でも、他人より一度でも多く勝ち続けた人間が評価される。評価に別の要因が絡むことはあっても、勝てない人間が日の目を見ることはない。
(そうですよね、お父様……)
榛原未来は、羅刹のごとき眼光をその瞳に湛え、己が向かうべき場所を見据えた。
インターバルの間、彼女に話しかける人間はいなかった。それほどまでに彼女の様子は鬼気迫っていたのだ。
(広橋茜……。正直、高をくくっていました。私の知らない中で、道内にまだこれほどの選手がいたなんて……)
立ち上がり、歩き出す。睨むのは相手陣営。ちょうど広橋茜も、最後のインターバルを終えたようだった。
両者、だんだんと大きさを増す声援の最中、その中心部であるフィールド上にやってくる。二人は互いの目を見つめあったまま、3メートルほどの距離を保ち立ち止まった。
息もつかせぬ緊張感。いよいよこのラウンドで、全てが決着する。
よもや一筋縄では終わるまいと、観客たちは固唾を飲んで見守る。
その第三ラウンド。
甲高い笛の音が鳴り響き、興奮を閉じ込めた会場の熱気が、一気に沸騰する。




