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一気に騒然とする会場の中で、雄たけびをあげるのは早川。
「よぉぉぉし! いけ、そのまま畳み掛けろ!」
千載一遇のチャンスに、彼は周りの目など気にしていられないほど興奮していた。
フィールド上には、バランスを崩す榛原に対し猛然と襲い掛かる茜の姿がある。
体重を乗せた彼女のブローが、動けない榛原のガード越しに突き刺さり、その身体を大きく後退させる。苦しそうに身もだえする様子が遠くからでも見て取れた。
(決まりか……? あの重たい打撃を二つも貰えば、さすがに動きは鈍るはず)
早川の考えを肯定するように、茜は休む間もなく次なる攻撃を仕掛ける。今度は左右のコンビネーション、ボディに上手く当てれば、点差はほぼなくなる。
が、それは叶わなかった。
茜の踏み込みに対し、榛原も前へと進み、ブローを構える茜の懐に潜り込んだのだ。
驚いた茜の隙を突くクイックブロー。せっかく取り返した点差を帳消しにされるまいと茜は咄嗟に身を縮め固くガードする。結果的に榛原の打撃は防がれたが、彼女は素早く後ろに下がり最も危険な至近距離での打ち合いを拒否する。
一部始終を見た後、早川は思わず榛原を賞賛していた。
「すげぇ、あそこから持ち直しやがった……」
絶対的ピンチを、強気の選択で切り抜けた榛原の勝負強さは、敵であろうとも認めずにはいられないものだった。
いつしか会場の声援も、いまだかつてないほどに膨れ上がり、いよいよ勝負が佳境に差し掛かってきたことを知らせる。
「何を息巻いているんですか……?」
フィールドの上で、茜に聞こえるほどの声でそう言ったのは榛原だった。
茜から受けた打撃のダメージは、少なくない。身体に嫌な痺れが残っている。これほどのブローは、キックは、今まで受けた事がないかもしれない。それほど、茜の持つパワーは規格外だった。
「来るなら来ればいい。お得意のウィービングで……」
挑発するような口振り。それに応じたのか、茜は再び身体を左右に揺さぶり始めた。
的を絞らせない左右の動きを続けながら、彼女は風のように素早く榛原へと近づく。
(くっ……!)
榛原は痛む身体に鞭打って、茜の射程から逃れようとする。が、茜の方が数段速く、すぐさま距離を詰められてしまう。
またしても繰り出される左右のコンビネーション。榛原は必死でそれをガードし、失点を抑える。だが、そのままでは状況が悪くなることは明白だった。
(ステップを使う……? いや……)
榛原の脳裏に過ぎるのは先程の場面。『蜃気楼』の罠を二度かわされた挙句、三度目の後退は読まれて反撃をもらった。だが彼女は、ステップを見切られたと思っているわけではなかった。
(この短時間で見切られたはずはありません……。おそらく確率に賭けた読みに過ぎない。それでも、やられた分はやり返す……!)
榛原はガードを解き、右腕を高く掲げた。
コンヴェルシ・ブローのフォーム。茜が驚くべき反応速度で攻撃を中断し、ウィービングを始める。その瞬間、榛原の頬に浮かぶのは、微笑。
(教えてあげますよ……。相手に対応するのは、あなただけじゃないってこと……!)
それは今までにはなかった展開だった。
ウィービングを続ける茜に対して、榛原がコンヴェルシ・ブローを振りぬいたのだ。
素早く動き続ける的に向かって、変則的な軌道のブローを合わせる。それがどれほど難しい行為かは、想像するに容易い。
だからこそ、茜と早川はウィービングを、コンヴェルシ・ブロー対策の切り札として選んだのだ。にもかかわらず、
榛原のブローは針の穴を通すような正確さで、茜の顔面へ向かい、少しだけ身を強張らせた彼女のボディに、寸分の狂いもなく突き刺さったのだ。
(しまっ……)
まさかの失点。驚愕する間もなく、茜は選択を迫られる。
今のボディへの打撃でまたもやポイントは離され、もう一度ボディに受ければ試合が終了する状況になった。この状況、ミスは許されない。
退くか、攻めるか。
(……退いたら、ダメだ!)
茜は脳内で叫ぶ。
一度退いたら、今度は榛原にも同じだけの猶予を与える事になる。
掴みかけた流れを、ここで手放してはいけない。
「あああッ!」
咆哮し右腕を後ろに引く。可能な限りコンパクトに、可能な限り素早く。
そして踏み込む。たとえ王手をかけられようとも、この瞬間は怖じない。
振りぬいた右拳が、榛原の両手のガードを弾く。そして開け放たれたボディに、今度は渾身の左ストレート。
必死の形相で、身をよじる榛原。茜の拳は空を叩く。なんとか直撃を免れたが、茜の左拳はわずかに榛原のボディを掠め、有効なポイントとなる。
「シィッ!」
強く息を吐き出して榛原が後ろに下がる。汗にぬれた額に前髪が張り付いているのも気にせず、彼女は恐るべきフットワークで茜との距離をとる。
追う茜。低い姿勢で鋭く潜り込む。もう一歩で榛原に届くかという位置で、彼女はより一層深く沈みこんだ。
榛原の顔に困惑の色が浮かぶ。限界まで身を沈めたこんな姿勢から、一体何を狙うのか。
その答えは直後明らかとなる。沈み込んだ姿勢から、茜はさらに一歩、榛原へと大きく踏み込んだのだ。限界まで脚を広げ、普通ならば体重を支えるだけで精一杯になる姿勢から、あろうことか彼女は、跳んだ。
「やああああッ!」
下から上に、弾けるような速度。強靭な身体のバネに支えられた、アッパーカット。
避けきれない榛原のガード越しに、普段は受けることのない『下からの重圧』が遅いかかる。
榛原の脳内を駆け巡る一瞬の思考。
(受け、きれないっ! 腕で弾いて……)
こんな威力のブローをまともに受け止めたら身が持たない。彼女は両腕のガードをクッションにして受け流そうとしたのだ。
しかし同時に過ぎるのは確信とでもいうべき予感だった。
(腕を弾かれたら、追撃に対応できない……!)
茜のアッパーが、ガードに触れるか否かの土壇場。榛原は咄嗟に腕を身体に引き付け、茜の渾身のブローを受け止める覚悟を決めた。
直後、彼女を襲うのは壮絶な重圧。地震にでも遭ったかのような。めまいすら覚えるほどの衝撃。ぐぐぐ、と体重が軽くなり、ついには両脚が地面から離れる。身体が宙に浮き上がる。
拳を振りぬいた茜が、まだ地面を失ったままの榛原へと、さらなる追撃を準備する。
当然、ステップで距離を取る事も叶わない。『蜃気楼』も使えない。この状況でもう一発受ければ、転倒は免れないだろう。
(……それは許されない)
榛原の目が、見開かれる。
(勝たなければいけないんだ、私は)
彼女の全身から湧き上がる、どす黒い闘志。
(勝たなければッ!)
一閃。
茜のブローを受け止めた、痺れで使い物にならないはずの右腕が、風よりも速く茜の顔面に目掛けて襲い掛かる。
(危ないっ!)
反射的に硬直する茜の身体。
それが罠であると分かっていても、本能が信号を拒絶する。
瞬間、弾ける炸裂音。茜のボディを叩くのは榛原の右拳だった。
今日一番と言ってもいいほど鋭いコンヴェルシ・ブローが、茜の足を地面に縫いつけ、貴重な3ポイントを奪い取ったのだ。
茜はすぐに反撃の構えに入る。
点は奪われたが、まだ相手は目と鼻の先にいる。
(流れが変わらないうちに、もう一度畳み掛ける……!)
茜が右腕を引き、後ずさる榛原を追おうとした瞬間だった。
何かが、強烈に茜の身体にのしかかる。それはプレッシャー。尋常でないほどの、真っ黒なオーラ。冷や汗が止まらなくなるほどの、恐怖。
目の前にいる人物が発する威圧感は、今まで茜が出会ってきた選手の中でも、類を見ないほどだった。
身震いする。背筋が凍る。
脚が、止まる。
「私が勝つんだ……」
榛原未来が呟く。
微笑みを浮かべながら。
何かにとり憑かれたかのように……。




