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(びっくりした……)
倒れたままの茜は、なんとか状況を整理すべく頭を働かせる。幸い、試合はまだ終了していない。たった今奪われたポイントは……
(ガード越しの1ポイントと、ダウンの5ポイント。合計すると6……。さっきまでの点差と合わせたら、14点差……)
それはつまり、王手をかけられたと同義であった。
15点差をつけた時点で終了となるベルヒットの試合。榛原はこの後、茜に一度でも触れれば勝ちが決まるのだ。茜は逆に、榛原に触れられることなく、ポイントを奪い返さなければならない。それがどれだけ絶望的なことか、彼女は身に染みてわかっていた。
(なんで転んじゃったんだろう……。コンヴェルシ・ブローを間近で打たれて、それで……)
気付いた時には仰向けに倒れ込んでしまっていたのだ。ブローの威力で倒されたわけではない。明確に理由がわからない以上、対処法も思いつかない。
(皆に怒られちゃうな……、こんなにピンチなのに……)
茜は起き上がりながら、その顔に普通ではありえない表情を浮かべていた。
(この緊張感……。今ならもっと、いい動きが出来る気がする)
あろうことか彼女は笑っていたのだ。
第七格闘部陣営、悲痛な顔をするのは由紀だった。
「一騎お兄ちゃん、このままじゃ……」
現実的に考えれば、この14点差は覆しがたい。
そもそもこちらには後がない。そのため茜はどうしても積極的に攻めづらい状況であり、守りに入られれば残りの時間でひっくり返すのは絶望的にも思える。
意外に冷静そうだったのは早川。しかし彼も心の中ではひどく動揺していた。
(やられた……。榛原のやつ、茜の反射神経を利用しやがった!)
榛原が茜に仕掛けた技の仕組みを知っているからこそ、早川は驚いていた。
(コンヴェルシ・ブローを、本気で顔に当たるように打つなんて……)
本来コンヴェルシ・ブローとは、『途中まで』相手の顔を狙うような軌道で腕を振ることで相手の動きを止める技術である。しかし先程榛原は、それを『実際に顔に当たるように』狙って行なったのだ。その結果何が起こるかは、二つの可能性が考えられる。
一つは、相手選手が反応しきれず、そのまま顔に当たってしまう場合。
この場合、顔に当ててしまった側は重いペナルティを受け、場合によっては一発で反則負けともなりうる。
しかしもう一つの場合、すなわち受け手の反応がブローを凌駕した時はどうなるか。
顔を目掛けて飛んでくるブローをかわすため、無意識に、身体が勝手に反応し、回避してしまう。仮に回避する事で状況が悪くなるとしても。
(茜の反応速度を信用して、わざと危険なブローを打ってきた。茜なら避けてくれると期待して……)
それがどれほどリスクのある行動かは改めて言うまでもない。噛み合わなければ反則行為と見なされるのだから。それほどの行為を、まるで当然のように戦術に組み込む榛原のしたたかさに、早川も舌を巻くしかなかった。
(くそ、展開を打開しようにも点差がありすぎる。アドバイスもできない……。茜を、信じるしかないのか)
自分の無力さを痛感し、歯噛みする早川。
果たして自分のしてきた指導は正しかったのか。
そもそも、試合を引き受けたことが間違いだったのでは?
そんな栓のない思考が次々と浮かび上がり、早川を苦しめる。ネガティブに考えざるを得ないほど、状況が悪いのだ。勝つための道筋が見えない。絶望が心の片隅に影を差す。
フィールド上を見つめる早川は、いつしか祈るように両手を組んでいた。
(ようやく少しは、弱者らしい顔つきになってきましたか)
軽やかにステップを刻み、茜から距離を置く榛原は、ちらりと第七格闘部陣営に視線を送った。顧問も、隣の選手二人も、見るも痛々しい表情をしている。
榛原は思う。これだ。こうでなければ勝利とは呼べない。相手の心をずたずたに引き裂いて、二度と立ち直れなくなるぐらい叩きのめして、初めて自らの勝利となる。そのために手段を選ばない。親の七光りだろうが、持って生まれた資質だろうが、使えるものは何でも使う。それが本当の強さ。それが本当の強者……。
(そうですよね、お父様?)
榛原はちらりと、今度は会場の端側を見た。そこにいる一人の男性。一瞬だけその姿を視界に収める。
強くあること。
ありとあらゆるものを踏み台にして、勝ち続けること。
彼女が自らに課す使命。生きてきた中で、培ってきたもの。
(あなた方もそう。踏み台の一つに過ぎないの。だから、ここで無残に踏み潰されろ!)
高く掲げた腕に力を込めながら、榛原は茜へ向かって踏み出した。
その瞬間、茜の身体が素早く大きく左右に動き始める。
下半身のバネを最大限に利用し、全身を大きく揺さぶる事で相手の攻撃を避ける技術。榛原は即座に判断する。ウィービングだ。
(往生際の悪い……)
榛原はまだウィービングに対し、これといった対処法を見つけてはいない。ウィービングをされるとコンヴェルシ・ブローは打ちづらくなる。しかし大して問題ではなかった。まだ彼女には、破られていない技があるからだ。
(ステップを見切れていない以上、ウィービングも役には立たない……!)
何度も繰り返した通り、彼女は両脚に『蜃気楼』を生み出す。
傍からは判別不可能な2種類のステップ、相手の思考を読み、2つを織り交ぜる事で彼女はまるで魔法のごとく、相手の動きすら掌握する。
(あなたの目には、後ろに退くように見えるでしょう。勇んで踏み込んできなさい、そこで終わらせてやる)
後ろに下がると見せかけた、踏み込みのストレート。
たとえガードされようとも、当たればこちらの勝ち。
外す可能性は、ない。
が、
その瞬間榛原は見た。
広橋茜の目。その目は普段よりもより一層大きく見開かれ、狩りをする獣のごとく、ぎらぎらとした光を放っているのだ。
かと思えば、不意をついて踏み込んだ榛原の攻撃から逃れるように、強く地を蹴り後ろに跳ぶ。彼女の目はなおも、野生的な、獰猛な力を隠さず湛えている。
(なんだ……?)
榛原の脳裏に浮かぶ一つの可能性。見切られた? そんなはずはない。今まで試合した中で、彼女の『蜃気楼』を見切った人間は片手で数えるほどしかいない。それも、何度も試合を繰り返してようやく、だ。初めての試合で、たかだか2ラウンド試合した程度で、見切られてたまるものか。
(もう一度、同じ選択肢を迫る)
後ろに下がると見せかけた踏み込み。先程の回避がただの勘によるものならば、次こそは釣られて前に出てくるはず。それを仕留める。
何度も何度も繰り返した。勝つために身につけた。彼女だけの魔法。蜃気楼を纏う両脚。寸分の狂いもなく、地を蹴り、無慈悲に勝負を終わらせる。
しかし、止めを刺すべく踏み出した彼女が覚えたのは、壮絶な既視感。
ぎらぎらした目。野獣のような眼光。何かをまだ、狙っているような顔。
(まただ……。まだこいつは……)
直後、先程よりも若干遅いタイミングで、茜が大きく後ろにステップし、榛原の射程から逃れたのだ。
(……ようやくわかった。こいつは、自分が劣勢だなんて思ってない)
榛原の額に冷や汗が滲む。追い詰めたはずが、逆に追い詰められているような錯覚。無理もない。勝負事において、諦めの悪い人間ほど始末に困るものはないのだから。
榛原から距離を取った後、茜は次なる榛原の動きに注意しながら考えていた。
(……とにかく後ろに逃げてさえいれば、攻撃を受ける心配はないよね)
彼女はまだ榛原のステップを見切れてはいなかった。だからこの土壇場、勝ちの目をつなぐため茜が打った戦略は、徹頭徹尾相手に付き合わないこと。
相手のステップを見たら、どんな状況であろうと自分も後ろに下がる。その結果、点を奪い返すチャンスを失っても構わない。代わりに手に入るのは、もっと重要なもの。この状況を打破するために必要な資産。時間。
(このラウンドの始めからずっと足元を観察してたおかげで、ようやく見えてきたよ。踵が上がるタイミング、ほんの少しだけ違う……)
見えてきた、といっても素早い戦闘の中で即座に判断し対処するだけの余裕はない。
だから、基本は逃げる。相手がどんな選択肢を迫ろうが、とことん付き合わずに退く。
(全部のステップに対応して反撃なんかできない。だから狙うのは一つだけ……)
茜は全神経を集中し、榛原の足の動きを観察する。
同時に彼女は上体を大きく揺さぶり、ウィービングを始める。動きながらも、榛原の足を見る。視点がぶれようが関係はない。見るのは、榛原の踵と、床との距離。その距離が離れるタイミングだけ。
近づく茜に対し、榛原は再びその両脚に『蜃気楼』を纏った。
進むか、退くか。
茜の目には確かに映った。
(後ろに下がる時は、一瞬だけ踵が早く上がる……!)
榛原の右踵が、堪えられないように動いたのを。
瞬間、大きく踏み込んだ茜の左脚に体重が乗る。流れるような動きで、振り出される右足。渾身のミドルキックが風を斬る。
榛原の顔に浮かぶのは、驚愕の表情。茜は、獰猛な笑みで確信する。
(どんぴしゃり!)
直後、鉄を穿つがごとき轟音が、強靭とは呼べない榛原の左腹部を打ち抜いた。




