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「先生、茜戻ってくるよ!」


 第1ラウンド終了の合図に、麻衣が声をあげた。隣の由紀は不安げに早川の顔色を伺う。


「一騎お兄ちゃん。何か相手のことわかりました……?」

「……少し、な。まだ完全に掴めてはいないが、茜の助けにはなるだろう」


 早川の表情は決して明るくなかったが、何かしらの手がかりは見つけたようだった。


「茜、ナイスファイト! 次のラウンドから巻き返していこう!」


 フィールド上から戻ってきた茜にタオルを手渡しながら、精一杯の激励を送るのは麻衣。

 由紀が席を空け、早川の隣に座るよう茜へ促す。茜は二人に礼を言った。


「ありがと。先生、お願いします」


 彼女は神妙そうな顔をする。早川のアドバイスが勝つために必要で、早川もそのつもりであることを察していたのだった。


「……まず、お前の感覚を教えて欲しい。このラウンド何度か、届かない距離でのブローやキックをしていたと思うが、あの時お前の目にはどう見えていたんだ?」


 インターバルの時間は長くない。早川は早速核心に迫る言葉を発した。


「あれは……、当たるって思った。相手がすぐ近くまで踏み込んでくるように見えて、でも実際はすごく遠くにいたんだ。それが何度も」

「その時お前は……榛原の脚を見て、距離を測ってなかったか?」


 急に限定的な質問をされて驚く茜だったが、よくよく考えてみれば、身に覚えがある。


「普段からだけど、相手の脚を見て距離を測ることは多いかな」


 何も珍しい事ではない。しかし早川はそれを咎めた。


「次のラウンドからは、その距離感を信用するな。ステップがこっちの目を惑わしているんだ。ダンスでムーンウォークってのがあるだろ。多分、あれと似た感じ……。前に進むようで、後ろに下がるステップが時折混ざってるんだ」

「っ?」


 息を飲む茜。早川の言う不思議なステップがあり得るのかどうかは、この際あまり気にならなかった。そう解釈してしまえば、茜の感じた違和感は全て説明されてしまうのだから。


「相手の上体の動きに注意すれば、そうそう惑わされることもないはずだ。最初は難しいかもしれないが、あのステップを攻略すれば一気に有利を奪える」


 早川の力強い助言に、茜も頷く。コンヴェルシ・ブローに対して、ウィービングは機能していた。コンヴェルシ・ブローに対処するだけならば、こちらに分があるはず。


「わかった。次のラウンドは、流れを引き戻さなきゃね」


 神妙そうに呟く茜。最初のラウンドで付けられた点差は8点だ。これを取り返そうとするならば、次のラウンドできっかけを掴まなければ厳しいだろう。それを考えての一言だったが、早川の目には珍しく茜が弱気になっているように見えたのだ。


「お前にはウィービングがある。相手のステップさえ攻略すりゃ、あとはもうこっちのもんだ」


 彼女を元気づけるように、わざと楽観的なことを言う早川だった。茜はその意図を知ってか知らずか、小さく笑みを返した。


 だがその時の早川の脳裏には、全く逆の、むしろ茜以上に弱気な思考が過ぎっていた。


(確かに、ウィービングはコンヴェルシブローに対して機能していた。けど、本当にあれだけで大丈夫だったのか? あの曲者が、自分の技を対策されることに何の想定もしていないはずはない……)


 インターバル終了の時は近い。わだかまる不安は早川の表情を険しくさせる。必死のアドバイスですら、不十分なのではないかという思いに駆られ、彼は思わず何を伝えようともなく茜へ声をかけようとした。


 そしてちょうどその瞬間に、立ち上がった茜の顔を見て少し驚いた。


「ごめんね。なんかもう、楽しくて仕方ないんだ。勝たなきゃいけないってわかってるんだけど……」


 その場で二度ほど軽くジャンプをする彼女は、今までで一番、輝いて見えた。


 早川は気付いた。自分の考えていた不安要素が、彼女にとってはいかに些細なものであるか。世界中どこを探したって、この輝きに勝てる理屈なんて存在しないのだ。


「……楽しんでこい。誰も文句いわないから」

「……うん!」


 力強く答えて、フィールドへと走りだす。


「茜!」

「茜ちゃん!」


 由紀と麻衣の二人も声をあげた。一瞬振り返った茜に、ぶつけるように強い声援。


「頑張れーっ!!」


 背中で答える茜は何を思うか、早川にはわからない。けれどその勇姿に彼は、いつか見た憧れの姿を重ねる。彼女の母親の姿を。


(俺にも見せてくれ、お前だけのベルヒット……)







「見にいらしてたのですか、理事長」


 黒木牧子が普段よりも少し柔らかい声色でそう言ったのは、声をかけた相手が自分よりもはっきり立場が強いと知っていたから。


 体育館の東側の一角。壁際に並べられた、生徒用の椅子より少し座り心地が良さそうなパイプ椅子に座って試合を眺めている人物が黒木の話しかけた相手だった。


「……これはお久しぶりで。黒木先生」

「覚えてくださっているなんて光栄です」

「まさか、優秀な指導者の名前を忘れたりはしません。……娘が特待を蹴ったのは、あの子自身の意思ですから」

「そのことは、残念でしたけれど。こちらとしては気にしてませんよ」


 黒木と話すその男性は初老に差しかかろうかというぐらいの年齢である。第三格闘部の特待を蹴った生徒の父親。そして理事長。


 つまりは榛原未来の父親その人だった。


 灰色のスーツに身を包んだ彼は、どことなく冷淡な雰囲気を漂わせ黒木以上に近寄りがたい印象を見る者に与えていた。そんな二人が並んで話しているものだから、周りからはその一角だけ妙に緊迫した状況にも見えるのだった。


「理事長、一つお聞きしたいことが」


 そんな最中、黒木の表情が少しだけ変わった。声色も先程までの柔らかいものとは違い、彼女本来の突き刺すようなものになる。ただの世間話ではない、そう訴えかけるように。


「……なんでしょう」


 おのずと聞き返す理事長の顔にも険しさが宿る。


「未来ちゃんのことです。私は今回の一連の出来事を、かなり近い立場で見ていましたから言わせていただきますが……。彼女がしてきたことは、とても品行方正な人間のすることではありません」


 すっぱりと、他の教師が聞いていたら青ざめるような発言をしてのける黒木。

 すると理事長はあごを触りながら、何気なくこう呟いた。


「なるほど。確かに度が過ぎていたようだ」

「……知っていて何も言わなかったのですか」

「私からあの子を叱るようなことは滅多にありません。放任主義なものでね」

「そんな無責任な……」


 黒木は不快な感情を隠しもせず顔に表した。放任主義? 言葉こそ聞こえは良いが、実際は親の義務放棄ではないか。間違った行いを間違っていると伝えられずして、何が親か。


 しかし、そんなことを正面から言うほど黒木の肝は太くなかった。彼女は理事長に対してまともに口論することは諦めて、別の角度から話題を振った。


「……未来ちゃんの試合を見に来ることは?」

「最近はあまり。あの子が受験だったのもありますが」

「今日の試合を見ても彼女は……、才能に溢れていますよね。今からでもうちの部に勧誘したくなるぐらい」

「それは親として嬉しい言葉だ」


 当たり障りのない言葉を二三交わして、やはり黒木は思う。


 榛原未来は、一般的に見れば非常に恵まれた人間だ。身体能力はいわずもがな、家庭は裕福だし、頭だって悪くない。容姿も整っていて、とても歪んで育つようには思えない。それがあんな風に人の不幸を喜ぶようになったのは、どうしても家庭の影響があるとしか考えられなかった。


「理事長は……その、普段未来ちゃんとどう接しているのですか? こんなこと他人に聞かれたくないかも知れませんが……。例えば試合で勝ったり、負けたり、そういうときにどんな言葉をかけていらっしゃるのかと」


 なるべく怒りを買わないような話し方で、黒木はそう尋ねた。

 それに対し、理事長は少し考えるような素振りを見せた。


 その直後だった。


「ダウンだ!」


 会場中が沸き立つように、観客の生徒たちが一斉に声をあげたのだ。

 驚いてフィールド上へ視線を向ける黒木が見たのは、およそ想像もしていなかった展開。


(ダウンって……、そっち!?)


 腕を高く構え凛と構える榛原未来のすぐ足元で

 自分でも何が起こったのか分かりかねているような表情で


 呆然と尻餅をつく広橋茜の姿があった。


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