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(こ、いつ……またこの距離か……!)


 甘和は歯を噛み締める。自然に身体へ力が込められる。気に入らないやつが目の前にいる。今までの自分なら、何も考えずにぶん殴っている。


 だが、この瞬間に甘和が感じた葛藤は計り知れない。前ラウンドの映像が頭にちらつく。何も考えずに打ち込んだら、手痛い反撃を貰った。今は点差でリードしているとはいえ、もう一度同じミスを繰り返すのはまずい。


(だったら、どうする?)


 無難な方法としては、二つ。一つはとにかく付き合わないこと。ひたすら逃げて追い討ちを避ける。


 だがその方法は甘和にとってはあまりにも屈辱的だった。なぜ格下相手に尻尾を巻いて逃げなければならないのか。気に入らない。認めたくない。


 もう一つの方法は、脚を止めて打ち合うこと。その場合は手数を重視してコンパクトに。細かい打ち合いに持ち込めば、経験の差からこちらの有利に持ち込みやすいだろう。


(でも……)


 それでいいのか。自分で自分に問いかける。


 こんな素人同前の相手に対して。前に突っ込むだけの初心者に対して。脚を止めて至近距離でチマチマ打ち合いなどと、どうかしている。その絵面を想像するだけで虫唾が走る。私はその程度の選手ではない。この程度の相手、軽く捻らなければならないのだ。


「舐めんなッ!」


 甘和の罵声が、由紀の耳にも聞こえた。しかしその言葉と、同時に繰り出されるブローは、由紀を萎縮させるどころか内心小躍りさせるようなものだった。


 なぎ倒すように振り出されるフック系のブロー。速さはある。いくら大振りといえど、見てから回避するのは至難だった。だから由紀は、早川に教わった最も簡単な対策方法を無意識に実践したのだ。


 由紀の左腕が、相手のブローの軌道上に滑り込む。衝撃を吸収するために柔らかく構えたガードは、甘和のブローの威力を奪い去り、同時に大きな隙を生じさせた。


 その隙を、由紀のクイックが突く。右で一発。続けざま、ガードした方の左でもう一発。ボディへの二連撃で甘和の表情が引きつる。確か先程まで点差は9。それが今ので6点返されたとなれば、残る点差は……。


(なんで、なんでだよっ!)


 冷静に立ち回れば、自分がこの程度の相手に引けを取るなどありえない。そのはずだった。彼女は失念していたのだ。自分が今冷静とはかけ離れた精神状態にあることを。


「来んなよォッ」


 甘和は観客に聞こえそうなほど声を張り上げて、右足を蹴り上げた。

 由紀と甘和の距離はいくらも離れてはいない。この距離で蹴ろうとすれば、危険行為ともなりうる。が、甘和の思考のたがはもはや外れていた。

 





(っ? あ、ぶな……!)


 咄嗟に危険を察知したのは由紀。この距離では相手も無闇に蹴る事ができない。だから安全なはず。などという考えは通用しなさそうだと、由紀は一瞬の内に考えるでもなく感じ取った。


 辛うじて後ろに飛びずさったのが良かったのかは分からない。結果的に、彼女は甘和のミドルキックの直撃を受ける羽目になったからである。弾ける炸裂音。防具越しに皮膚が焼けるような痛みを発する。思わず顔を歪める由紀。





 が、その瞬間に一番大きな変化が起こったのは観客席だった。


「おい、今の危なくないか?」

「さっきから乱暴なプレイ多すぎるよ!」


 口々に呟く生徒達。傍から見てもわかるほど、強引で危険な行動。審判は何も言わない。そのことがより一層、生徒達の疑念を増幅させた。


「なんで審判止めないの?」

「さっきも減点するべきだったよね……」

「審判、六格に買収されてんじゃないの!?」


 一度膨れ上がると手が付けられない。大多数の感じた違和感は、それぞれの発する不満の声となって、会場の雰囲気を一気に変えていく。


「七格って初心者ばっかりなんでしょ? なのにあんなに頑張ってるぞ!」

「初心者相手にあんなプレーして恥ずかしくないのかよ!」

「頑張れ! 第七格闘部!」


 気付けば会場中、最初とは真逆の状況となっていた。

 孤立無援のはずだった第七格闘部が、今では生徒達の応援を一身に浴びる主役のように。


 その声援を誘ったのは、最後まで諦めずに闘った麻衣の姿か。それとも危険行為にも怖じずに立ち向かう由紀の姿か。どちらにせよ今フィールドの中央に立つ由紀は、声援になんてほとんど注意を向けていない。とにかく、この瞬間を全力で戦い抜くことだけ。





「だから言ったのに……。あなたの負けです、先輩」

 第六格闘部陣営、すでに防具に身を固めながら、座って試合を眺める未来。彼女は呟いてから、つまらなそうに溜め息をつき目をふせた。






(なんなんだよチクショウ! なんで周りの連中までこいつの味方になってんのよ!)


 自らその原因を作った甘和は、それでも納得が行かない様子で犬歯をむき出しにする。


 点差はすでに3まで縮んでいる。甘和にはその事実がどうしても受け入れられなかった。


(あたしがどれだけ、ベルヒットに時間をかけてきたと思ってる! あたしが、どれだけたくさんの試合に勝ってきたと思ってる!?)


 小学生でベルヒットを始めてから、今までずっと。

 最初のころは、生活のほとんどをベルヒットに捧げていた。そんな時期もあった。

 あんなにもたくさん練習して、あんなにも辛い思いをして、時には泣くほど悔しがって。


(あたしにとってベルヒットは……)


 そこで、ふと思う。なんだろう。自分にとってのベルヒットとは。始めたばかりの頃に感じていたあの火傷するような高揚は、緊張感は、情熱は? 今の自分に、それを語る資格があるのか。燃える思いをどこに忘れてきてしまったのか。


 半ば呆然としながら、無意識で見つめた相手の顔。締め付けられるように胸が痛むのは、なぜだろう。


(バカか、あたしは……)


 自分がこの試合で守ろうとしているもの。それはプライド? それとも積み重ねてきた時間? いずれにせよ、彼女は悟ったのだ。彼女は自分自身の手で、今まさに守ろうとしているものを汚してきたのだと。


 きっかけは何かの試合で負けたことだっただろうか。壁にぶち当たった時、彼女は真摯に向き合うことをやめた。自分を守るために。あんなにも真剣だったはずの自分に嘘をついて、最も傷つかなくてすむ道を選んだ。


 いつも不真面目にやっていれば、負けたところで言い訳になる。どうせ負けるなら、初めから……。


(負けるのが嫌なら、最初から闘わなければいい……。勝ち続けたいなら、そのための努力をするべきだ……。わかってたじゃないの……。でも、どうでもいいや、もうあたしは……)


 甘和は混乱した頭で、躊躇いもなく突っ込んでくる相手選手の姿に『いつかの自分の影』を見た。


 手が届くような距離になるまで、動く気にはなれなかった。

甘和は大きく腰を回した。すぐ目の前に由紀がいることは、その動きを止める理由にはならなかった。






 鈍く重たい音が轟き、会場が一瞬で凍ったように静かになる。


「え、ぐ」


 由紀の口から漏れるのは、嗚咽。

 躊躇もない膝を使った蹴り。まさしく棒のように真横になぎ倒された彼女の姿に、思わず声をあげたのは一人二人ではなかっただろう。


 どさり、と手も突かず倒れた由紀は、渦巻く痛みと沸き立つ意識の狭間から何度目かもわからない警告音を聞いた。甲高い笛の音が、鳴り響いていた。


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