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(第1ラウンド終了……)
由紀は甘和の目前で脚を止め、その笛の意味を確認する。
身体が熱く、火照っている。疲れは感じない。蹴られた箇所の痺れがまだ残っているが、勝負に支障があるほどではない。大丈夫、次のラウンドも闘える。
そんな事を考えながら、由紀はゆっくり歩いて自陣の仲間達の元へと戻った。
第七格闘部陣営ではまず早川が由紀に声をかけた。
「かなり蹴られたけど、平気か?」
「平気ですよ。点は負けてますけど」
対して由紀はわざとらしく親指を立ててみせたのだ。すると横合いから茜が由紀にタオルを手渡し、アドバイスをする。
「動きはいいよ。内容じゃ負けてない。さっきの警告があるから、さすがに向こうも強引な蹴りは控えるだろうし。次のラウンドも距離をしっかり詰めていけば、こっちの流れに持ってこれるよ」
とにかく重要なのは相手の得意な間合いで闘わせないこと。今回の場合は中距離。相手選手である甘和のミドルキックに対処する術は今のところない。だったら多少リスクを犯してでも、自分の得意な闘い方を押し付けるのが得策だろう。
近距離での打ち合いには、由紀は自信を持っていた。必死で練習した内容なのだ。実際第1ラウンドの得点の収支を考えると、近距離では由紀に軍配が上がっている。
そんなことを由紀が思っていると、不意に早川が口を開く。眉間に皺を寄せているのはあまり楽観的にこの状況を捉えられないという意思表示だったかもしれない。
「前のラウンドは相手も油断してただろうな。初心者だと高をくくってブローも力任せだった。けど他の動きを見るとそんなに甘い相手ではなさそうだ。次のラウンドは、近距離戦に持ち込んでも五分かそれ以下だと思え」
冷静に考えれば、たかだか1ヶ月程度練習しただけの初心者が、中学からベルヒットをやっている相手に有利を取れるわけもないのだ。
何か一つの技術に特化すれば最初のうちは誤魔化しが効くかもしれないが、次第に相手も対応してくる。接近戦に持ち込めば有利、などという状況はそう長く続くものではない。
「この試合、勝てると思いますか?」
由紀は不安そうな素振りもなく淡々とした口調で、そう尋ねた。
「……最後の最後で勝負を決めるのは、芯の強さだ。お前が自分を曲げないで頑張ったのなら、結果はついてくるだろう」
早川の返事に由紀は、小さく笑った。
彼女にしては珍しい、少しはにかむような笑顔で。
「一騎お兄ちゃん。私、なんでこの学校選んだか知ってます?」
早川は少し考えてから首を振る。そう言えば気にはなっていた。由紀はもともと別の進学校を受験する予定だったのだ。それをやめて、親と口論してまで彼女がこの高校に来た理由を早川はまだ知らなかった。
由紀はすでにフィールド上に向かう準備をして、顔だけを早川の方に向けながら言う。
「どうせだったら人生で一度くらい、とことん私らしくないことに挑戦してみたいなって思ったんです。この学校なら、それが出来ると思って」
そして彼女は歩き出す。インターバルの時間はあまりにも短い。しかし体力的な疲れも、精神的な疲れも感じさせない確かな足取りで、由紀は次なる闘いへと踏み出して行く。
「そっか。好奇心旺盛なのは昔っから変わらないな。ひょっとしたら、何かに挑戦しているお前が一番お前らしいのかもしれない……」
早川は彼女の言葉を頭の中で転がしながら、そんな事を呟いた。彼は知らない。歩き出した由紀が、誰にも聞こえないぐらい小さな声でこう言ったのを。
「この学校でなら、何かあれば一騎お兄ちゃんが助けてくれますしね」
それと同じタイミング、第六格闘部陣営にて。
「先輩、やけに苦戦してませんか? まさか先輩まで、私の期待を裏切るような真似はしませんよね?」
インターバルに自陣へと引き返してきた甘和は、榛原の恐ろしい眼光に睨まれ萎縮していた。
「み、未来。違うのよ。今までは油断してただけ。初心者だと思ってブローを適当に打ちすぎたんだ」
「ふぅん。まあ、理由が分かっているのならいいでしょう」
まるで自らが上の立場だと言わんばかりに、高圧的な言葉をかける未来。それに対して甘和が何も言い返せないのは、実際の力関係を表しているのかもしれなかった。
「一番簡単な勝ち方を教えてあげましょうか、先輩?」
そんな中ふと、未来が甘和に問いかけた。
「勝ち方?」
「そうです。それも一言で伝えられる……」
変にもったいぶるような言い方に甘和は怪訝そうな顔をしつつ、
「いや、いいよ。未来に手を貸して貰う必要はない」
内心怯えながらそう答えたのだった。
「そうですか。なら、これは胸にしまっておきましょう」
わざとらしく大げさな言い方をして未来が口を閉じる。
それからインターバルの最中、2人が会話をかわすことはなかった。短いインターバルとはいえ、第六格闘部の陣営には試合に参加しない生徒達も含め、気まずい雰囲気が漂っていたのだった。
インターバル終了の合図を受けて、甘和が席を立ちフィールドへ向かった時、未来がふと小さく呟いた。
隣に座っていた近藤――麻衣と試合をした選手だ――にすら聞こえないくらい小さな声で。
「そういう無駄な意地を捨てることですよ、先輩」
再び相見える両者。点差は7。これだけの得点を取り返すことは簡単ではないが、由紀は変に力む事もなく、自然体のままで第2ラウンド開始の合図を待つ。
その様子を見て、再度警戒を強めるのは甘和。何事でもそう。開き直った人間ほど恐いものはないのだ。追い詰めたつもりが、噛み付かれることだって往々にしてある。
だが、今の甘和はそれを冷静に認識できるほど大人ではなかった。
(ぶちのめしてやる……。やり返そうって思う暇すらないぐらい、徹底的に)
自分はベルヒットの大会で入賞したこともある実力者。対して相手はたかだか1ヶ月練習した程度の素人なのだ。勝って当たり前の試合。なのに蓋を開けてみれば、序盤から随分苦戦させられた。
思えば最初から気に入らないことばかりだ。舐められている。相手にも。そして榛原未来にも。
(私がこんなやつに負けそうだってのかよ、未来……!)
勝ち方を教えてあげる? そんなものは聞かなくてもわかっている。なのに教えようとする。それは、自分が下手をすれば負けそうに見えるから。これ以上の侮辱があるだろうか。
両者睨みあい、第二ラウンド開始の合図が鳴る。
(まずは一発!)
甘和はその笛の音を聞くや否や、前へと踏み出した。
対する由紀も前進、結果的にもとあった両者の距離は一気に縮まり、開始早々一触即発の様相を呈する。
由紀が構わずもう一歩前へと踏み込んだ瞬間、
「うぐっ……!」
強烈な打撃音。それと共に由紀の脇腹に突き刺さるのは甘和のミドルキックだった。ところが甘和の表情は険しい。理由は感触だった。
脇腹を正確に素早く打ち抜いたつもりが、すんでのところで腕によるガードを挟ませてしまったのだ。直撃でなければ得点は低い。そして何より、相手に恐怖を与えられない。
「ふっ!」
甘和が懸念した通り、由紀はミドルキックを喰らってもなお怖じずに前へと進む。
とにかく距離を詰める。ただそれだけの行動を、徹底されるだけでこれほど厄介だとは。そんな風に感じている自分にも腹が立って、甘和は思わず舌打ちした。
(あたしに近づくのが怖くねえってのか……!)
さらに距離を詰めようとする由紀に対し、甘和は大きく後ろに飛び退いてカウンターのミドルキックを繰り出す。体重の乗らない体勢でありながら、鋭く威力のある蹴りは、再びガード越しに由紀の体幹へヒットする。
が、その攻撃が有利な状況を生み出したとは言いがたい。
素早くもう一度前へ踏み込む由紀。対する甘和は蹴り脚を振り戻すために一瞬動けない。
ほんのわずかな硬直の差が、しかしこの場においては何よりも大きな意味を持っていた。
(飛び込め!)
由紀は頭の中で叫ぶ。相手の見せた少しの隙。これがこの試合で得られる最大限の有利的状況だった。9点差となった試合をひっくり返すには、このチャンスを生かす以外に道がない。
潜るような姿勢で甘和の懐へ。すでに手の触れる距離。だが自分からは手を出さない。今までの傾向から考えて相手のブローは大振りで見切りやすい。待っていれば、自分から隙を晒してくれるはず。
一瞬脳裏に浮かぶのは、インターバル中の早川の言葉だった。
次のラウンドは、相手も甘いブローは打たなくなるだろう、と。だから由紀の期待するような大振りのブローはもう来ないかもしれない。でも本当にそうだろうか。
(それだけ殊勝な性格なら、ここまでもつれてませんよね! 私たちの事バカにして、今でも反省してないから、こうやって試合してるんです!)
勝負のセオリーではなく、相手の人格から考えて。
多少接近戦で点を奪われようが、それで反省するような相手ではない。
だからこの瞬間は、待つ。試合をひっくり返すために、相手の弱点にとことん付け込むのだ。