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「ふっ!」
麻衣は短く息を吐きながる再び近藤へ追いすがる。
スピードでは負けていない。距離を離されないように、かと言って近づき過ぎないように。冷静かつ大胆に距離を測って相手の嫌な間合いへと飛び込んでいく。
(こ、いつ……、何を考えてる……!?)
近藤は困惑していた。相手に攻めの技術がないことは自明だった。だが、これほどまでに強気に距離を詰められると、疑念が首をもたげてくる。
(この動きで本当に素人なのか……?)
果たして、その前提は正しいのだろうか。自分が知らないだけで、何か別の格闘技をやっていた可能性は? この相手が攻め手を持っていないと断言する根拠は?
この試合、このまま守りに入って勝てる保障は?
(ふざけるな、実力ではこっちの方が上だ……! 試合を長引かせて、これ以上荒らされるぐらいなら……)
いっそのこと、ここで勝負を決めてしまえ。
誘われるように彼女の考えはそこまでたどり着く。麻衣が待ち望む展開。最も危険な思考へと滑り落ちるように……。
その瞬間だった。
麻衣は近藤を追い詰めようとしていたその足を突然止め、立ちすくむように身を強張らせたのだ。
会場の観客達ですら、その様子に何か異変を感じた。当然、フィールド上で今まさに向かい合う近藤が、その違和感に気付かないはずはなかった。
(っ? なんなんだ?)
突然動きを止めた麻衣の様子に注意しながらも、近藤は速やかに麻衣と距離を取る。今までは距離を離してもすぐに詰められていたのだが、今回はまるで縫い付けられたように麻衣の足が動かない。
(変なやつ……。でも、これでようやく落ち着いて試合を運べる……)
怪訝に思いながら、近藤は自分の優位を磐石とするため頭を回転させる。
その時、麻衣が見ていたのはある人物だった。
彼女がこの試合を行なう発端となった人物。忘れもしない。入学して間もない麻衣に強烈なパンチをお見舞いし、由紀にジュースを浴びせた許しがたい人物だ。
麻衣の視線の先、フィールドの脇の観客席の近くに、わざと麻衣の位置から見えるように立つ生徒。甘和、と呼ばれていた。第六格闘部の2年生だった。
(あいつ、まさかまた……)
彼女の思考を不安が埋め尽くす。それは身体に刻み込まれた恐怖。それもつい数分前に起こった出来事の記憶だった。
フィールド脇に佇む甘和はその手にある物を持っていた。そしてそれが麻衣の恐怖を誘ったのだ。それは透明で、うっすらと白く濁ったプラスチックの容器。チューブのような形状。中には何かの液体。麻衣が思い当たるものは、一つしかなかった。
(グリース……!?)
先程麻衣がまんまと引っかかってしまった罠だ。
謎の容器を手に持つ甘和が、麻衣と目を合わせ、にやり、と笑った気がした。
(やっぱりそうだ……! くそ、今度は一体どこっ?)
このラウンドが始まる前に再度罠が仕掛けられたとすれば、その場所は麻衣にはわからない。フィールドを見回しても、透明な液体など見てわかるものでもない。
(どうしたら……)
麻衣は思わず自陣の早川の方をちらりと見る。彼は麻衣の不自然な動きに怪訝な表情をしてはいるものの、その原因にまでは想像が及ばないようだった。
とにかく罠を避けなければならない。しかし、どこに仕掛けられているのかなど皆目見当もつかない。そうこうしている内に、相手選手の近藤は麻衣との距離を取っている。舞にとっては、その動きすら彼女を罠にはめるための策略に思えてならない。
(くそっ、なんとか追い続けなきゃ……!)
麻衣は恐る恐る足を踏み出して、近藤へと追いすがる。しかし足が重くなる。踏み出せばそこに罠があるかもしれない。転倒の衝撃は、より強く地を蹴るほど大きくなる。そんな状況で、全力で相手を追えるわけもなかった。
(ダメだ、このままじゃ……)
麻衣は軽いパニック状態に陥りながら、ただただ立ち尽くすことしか出来なかった。
(何があった? さっきまであんなにしつこく追ってきていたのに……)
対する近藤は困惑。第三ラウンド開始からすでに三十秒は経過している。このまま試合が動かなければ、彼女にとってこれ以上に楽な展開はない。
目線を向ければ、何かを恐れるように小さく足を運ぶ対戦相手の姿。
近藤にも当然思い当たる節がある。
(ひょっとして、さっきのグリースを怖がっているのか? 無理もないけど、だとしても今さらだな……)
事情を知らない彼女にしてみれば、どうしてこのタイミングで動きが鈍ったのかは判断しがたい。しかし、わからないまでも事実は事実として、相手の攻め気がかなり削がれていることは確かだった。これを利用しない手はない。
(悪いけど、このまま逃げ切らせてもらうよ)
近藤は後ろに素早くステップし、追ってこられずにいる相手を見据える。来られるものなら来てみろ、と。
試合はこう着状態に突入する。最初からそれほど大きく点の動く試合ではなかったものの、これまでは常に駆け引きがあり、せめぎあいがあり、ともすれば一瞬で勝負が決まってしまいそうな緊張感があった。
だが今になってしまえば、一向に流れの変わる気配もなく、どん詰まりのような展開。誰がどう見ても、もう勝負は決まってしまっていた。
額に浮かぶ冷や汗。嫌な感覚。麻衣は動転し、すでに冷静な判断力を失っていた。
(ダメだ、追えない! 脚は動くのに、怖くて動けないなんて……)
転倒の恐怖が彼女の身体を縛り付ける鎖となる。そんなものを払いのけられない自分が歯がゆい。しかし、相手の一挙手一投足ですら狡猾な策略の類に見えるのだ。こんな状況でまともに戦えというのが無理な話だった。
近藤は距離を保ったまま、小さく深呼吸をする。
(これで……いいのか? 初心者相手にこんな勝ち方をして、恥ずかしくないのか?)
自分に問いかける。どうして勝てそうなのに、こんなにもすっきりしない気持ちに襲われるのか。答えは明白だった。正々堂々と闘っていないからだ。自分の行いにやましさを感じているからだ。直接的に罠をはったのは彼女ではないにせよ、実際にその罠に乗じて今、卑怯にも勝利を掴もうとしている。
(こんなものが本当の勝利か……?)
拳を握り締める。試合の中盤で感じた、えもいわれぬ高揚。お互いに死力を尽くして闘うからこそ得られる充足。そして確かに生まれた、相手との繫がり。それら一切を犠牲にしてまで得る勝利は、本当に価値のあるものなのだろうか。
(勝ち負けなんてどうだっていい。本当は、私だって……!)
近藤の顔が悔しさで歪む。本当にしたい勝負が出来ないのは辛い。もしこの試合がただの練習試合や、大会の一試合に過ぎなかったら、彼女は勝ち負けなどかなぐり捨てて、喜んで相手の土俵に飛び込んで行っただろう。しかし今日ばかりは許されなかった。
榛原未来には逆らえない。逆らったら、今度は自分がやられる番だ。今の対戦相手のように。
(悪いな……。いい試合だったよ)
近藤はそう心の中で呟いて、それ以上は考えることをやめた。
それからの時間は長いようで短かった。
代わり映えのしない展開。相手にリードを許しながら、攻めきれない選手。そういった状況に苛立ちや退屈を覚えた観客の生徒たちもいただろう。
最後まで必死に喰らいつこうとした麻衣を待っていたのは、劇的な逆転などとは無縁の結末だった。
審判が無慈悲に笛を鳴らす。待ちわびたように足を止め、麻衣の方へと向かってくる近藤。呆然と立ち尽くすままの麻衣。審判の宣言に応じて、互いにフィールドの中央で礼をかわす。とはいっても、麻衣は自分が何をしているのかなどわかってはいなかった。
数秒後、自陣へと足を運ぶ最中、彼女を迎え入れようとする顧問と仲間達の顔を見て、彼女はようやく気がついた。
(私、負けたんだ……)
急に目頭が熱くなって、目の前が見えにくくなる。
最後のラウンド、自分は何も出来なかった。不甲斐なかった。皆で一緒に勝とうと約束したのに、勇気が出せなかった。悔しさが溢れ出す。自分はどんな顔をしているだろう。仲間達の顔を見れない。自分が情けなくて。
「お疲れ様です! 後は私と茜ちゃんに任せてくださいっ!」
そんな自分の肩を叩き、すれ違うように颯爽とフィールドに向かっていく人物が一人。
麻衣は驚いて、今さっき自分の横を通り過ぎたその背中を見つめた。
いつもの彼女だった。緊張も物怖じもしていない、明るく快活なままの彼女。
その姿を見て、麻衣は少しだけ自分の肩が軽くなった気がしたのだった。
(由紀、勝てなくてごめん……。頼んだよ!)
「お疲れさん、麻衣。気を落とさず応援するぞ」
「麻衣ちゃん、お疲れ様」
早川と茜が声をかけて試合から戻ってきた麻衣を迎え入れる。
「みんなごめん……。由紀、大丈夫かな?」
自分が負けてしまったため、由紀が負ければその時点で第七格闘部の敗北が決定する。彼女には相当のプレッシャーがのしかかることになる。その状況を作ってしまった事が申し訳なくて、再び麻衣の中に悔しさが込み上げてくる。
ところが、彼女の思いとは真逆に、早川と茜の反応は明るかった。
「それが意外と大丈夫そうなんだよなー。あいつ、いつもの調子で出て行ったぞ。負けたら終わりってわかってんのかね?」
「さっきまでかなり緊張してたみたいだったのに。大物だね、由紀ちゃん」
三人が視線をフィールドに向けると、そこにいるのはやはりいつも通りか、むしろ若干楽しげな様子の由紀だった。試合の緊張で高揚している、というのはあるかもしれないが、表情に固さが見られないあたりいい意味で開き直れているようだった。
と、そこで麻衣が不意に声を漏らした。
「そ、そうだ。確証はないんだけど、向こうがまた罠をはってるかも……」
真っ先に言わなければならない事を忘れていた。第一その心配をしていたせいで彼女本来の動きが出来ず、それが敗北に繫がった面もあるのだ。試合中に相手方の不穏な動きが見えたことなどについて、麻衣が仔細を伝える前に早川は口を開いた。
「第三格闘部の部員に協力してもらって、これからは妙な事できないように監視してもらうつもりだ。フィールドの清掃もな」
早川が目配せをすると、確かに見覚えのある生徒たちが急いでフィールド上に乗り込み、入念に清掃を行なっているのが見えた。第三格闘部の部員たちである。その中には先日の練習試合を通じて茜たちと付き合いのある生徒も多い。彼女らの監視の中でフィールドに罠を仕掛けることは不可能だろう。ひとまずは安心できると言っていい。
意気込んで出て行った由紀は清掃のため追い出される形でフィールド脇に一時退散せざるを得なくなっていたのだが。
フィールドの清掃が終わった所で審判が合図をして選手を招き入れる。
第七格闘部からは大星由紀。すでに気合十分の様子で相手選手を待つ。
対する第六格闘部陣営から現れた選手を見て、麻衣と茜が声をあげる。まさかここで出てくるとは。想定外の人物が出てきた事に二人は驚きを隠せなかった。
「あの子は……、さっきお前らにつっかかってきた子じゃないか?」
早川が確認するように尋ねる。麻衣は頷き興奮が抑えられない様子で答えたのだった。
「そうだよ! そもそもあいつが最初の原因なんだ。本当にひどいやつなんだから!」




