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再開される試合。その合図に会場が再び騒然となる。
(さっきはびっくりしたけど、結果的に点差は変わらないまま……。状況は変わってないんだから、気負わずいつも通り行こう!)
麻衣はグローブに隠れた拳を一度ぎゅっと強く握り、気持ちを整理する。
強く地を蹴り後退。麻衣はすでに自信を持っていた。この戦い方ならば、よほどの事がなければ崩されない。相手が経験者だろうと、がっちりと固めた守備を破るのは簡単ではないのだ。こちらはその守備を1ヶ月近く鍛えてきた。この勝負、勝ち目は十分にある。
「ちっ」
小さく舌打ちするのは相手選手の近藤。樋口麻衣を捕らえるのは難しい。その事実は先程から何度も確認している。
しかし相手はこの競技を始めて一ヶ月の初心者なのだ。中学でもベルヒットをやってきた自分が、そんな相手に遅れをとるなんて許されない。
(……あれから未来は何も言ってこないけど、この後は自分の力で勝てってこと?)
鋭い眼差しで麻衣を睨みながら、自問する近藤。
彼女がこの試合のメンバーに選ばれたのは、未来にとって扱いやすい人間と思われたから。実力は求められていなかった。ただ、どんな時でも彼女に口答えしないこと。それが彼女に与えられた役目だった。
事実、彼女はただの一度も未来に意見した事はない。未来とは出会ってまだ一月足らずだけれど、そんな短い期間でもわかるのだ。
彼女はどこかおかしい。おかしいだけならまだいいが、厄介な事に力を持っている。理事長である父親の権力だけではなく、人脈とか立ち回りとか弁舌とか、色々なものが混ざり合った勝つための力を。
自分など刃向かったところで簡単に捻り潰されることが、想像できてしまう。
しかし今、彼女はこうも思っていた。未来の意志がどうであれ、この勝負には関係ない。
(初心者に負けたままで引き下がれるか……!)
負けるはずのない相手に追い詰められているという事実が、眠っていた彼女の闘争心に火をつけていた。
途中で未来から邪魔は入ったが、結果的に点数に影響はない。その後、未来が動く様子もない。好都合だ。誰にも邪魔はして欲しくない。自分は自分の実力だけで、この相手に勝ちたいのだ。自分のプライドにかけて。
(実力の違いをわからせてやる!)
駆け出す近藤。その眼は先程からの苛立ちの色を失い、もっと純粋な、情熱の光に染まる。
麻衣は直感した。何かが変わったこと。ここから先の勝負は、一筋縄ではいかないこと。
(上等っ! 負けるもんか!)
麻衣もまた燃えていた。前回の練習試合が千佳との試合だったことを考えると、この試合は実質、彼女にとって始めての純粋な勝負だった。
自分の実力がどこまで通用するのか確かめたい。相手もまた本気だ。グリースの罠などもあったけれど、彼女の目を見ればわかる。彼女は本気で、真剣に戦っている。
近藤の素早い前ダッシュから、なぎ払うような右フックが繰り出される。特別な速度も力もない。しかし膨大な練習量からくる自信が、麻衣の目にも伝わってくる。
淀みのない一撃。なんとかすれすれで回避する麻衣。近藤は返す刀の左ブロー。角度によっては当たったようにも見えるぐらい、本当に間一髪の攻撃を麻衣はかわし続ける。
「しッ」
今度は麻衣の反撃。何度も繰り返した右のクイック。だが近藤は構わず前進する。ガードを固めたまま、麻衣のクイックを身体で跳ね除ける。
麻衣に1ポイントの得点、だが近藤はそれよりも大きなリターンを得ていた。ついにこの試合中初めて、近藤の拳が麻衣を捕らえたのだ。
鋭いブローが麻衣の脇腹に刺さる。麻衣は思わず左腕を振るいながら飛び退いた。が、身を屈めて近づく近藤には当たらない。結果的にバランスを崩してしまった麻衣は、近藤の追撃に備えるべく頭を働かせる。
(あれを使うしかない……!)
その時、試合を見ている早川は歯噛みしていた。
(速い展開になるとこっちのミスが目立つな……。ここはなんとかリードを守って2ラウンド目を終えたい……)
麻衣の3点リードに先ほどのクイックによる1点を追加し、その後3点を奪い返された。すなわち今の得点差は1。決して安心できる点差ではないが、このまま守りきれば勝ちは勝ちである。
(ここが正念場……。相手が試合を荒らしに来ている今が、一番危険な時間帯だ)
思えば先程から色々とトラブルがあった。そのせいとは言い切れないが、試合自体も先程より展開が激しくなっている。悪く言えば、お互い浮ついた立ち回りが目立っていた。
早川としては、ここでもう一度麻衣を落ち着かせたい。冷静に立ち回れば追い詰められることはないはず。だからこそ、この状況がどうにももどかしかった。
(麻衣、気をつけろ……。この試合、下手を打てばひっくり返るぞ……!)
祈るような早川の思い。
麻衣は両足を後ろに引く。
(ここだ!)
限界まで引き付けた相手に目がけ、渾身の力で地を蹴る。
ラビット・ターン。天見千佳に対抗する為に身につけた麻衣の得意技である。
この技があるからこそ、麻衣の回避一辺倒のスタイルが伏線となる。逃げ続けるだけの状態から、強引に攻めに転ずることで相手の意表を突くのだ。
成功すれば得点だけではなく、精神面でもぐっと優位に立つ事ができる。今の苦しい状況を打破する秘策。そう麻衣は考えたのだ。
そして彼女の両足が地面を掴み、全身に前向きの推進力を加えようとする。何度も繰り返した動き、よもや失敗はありえない。
そのはずだった。
(あ、れ……?)
その瞬間の奇妙な違和感を、麻衣はどう表現したらいいのかわからなかった。
地を蹴る両足が、まるで意思を持つかのごとく、麻衣の動きを止めるのだ。
いけない。これ以上は、と。
(なんで……)
すくみ上がる大腿の筋肉は、麻衣にはわからない何かを恐れていた。
推進力を得られなかった彼女の体に、問答無用で重力が襲い掛かる。バランスを崩す。
(あぶないっ!)
辛うじて踏み出した右足で全身の体重を支える。当然動きは止まってしまう。反撃の秘策は鎖に変わった。麻衣の動きを縛り付ける鎖に。
直後、わずか驚いたような顔をした近藤が、意を決して麻衣へと踏み込み、無防備な脇腹へと掠めるように2、3発のブローを繰り出す。パパン、と軽い打撃音が混乱する麻衣の脳裏に反響する。大きな失点。まずい。
麻衣は何とか反撃の構えを取ってそれ以上の追撃を牽制するが、すでに距離を取った近藤は、浮つく様子もなく麻衣の動きを観察していた。
(今ので、何点取られた……?)
点差をひっくり返されたのは間違いない。何点かはわからないが、こちらが追う形になったのだ。今までにはなかったこと。そして、自ら攻めに転じて点を奪っていくのは、麻衣の得意とする戦術ではない。
とすればこの点差は、数字そのものよりも遥かに大きな意味を持つ。追われる側から追う側への変化。
最も避けるべき展開。




