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(あ、れ……おかしいな。なんで……)


 麻衣は首を傾げる。いつかのごとく脚に疲労が溜まっているわけではない。ステップを踏み違えたつもりもない。ただ自然になんの取っ掛かりもなく、転んだ。


 審判が歩み寄ってくる。動揺して立ち上がるのを忘れていたから、立てるかどうか確認しに来たのだろう。もちろん、身体に異常はない。すぐにでも試合を再開できる。


 しかし、奇妙だ。あんなにも簡単に転んでしまえるものだろうか。それだけが腑に落ちなかった。


「大丈夫です。立てます」


 麻衣は怪訝な気持ちを隠して審判に伝え、すぐに立ち上がった。転んだ衝撃は大きかったが、幸い身体の痛みはないようだ。


 審判は近藤と麻衣の両者を再び少しの距離を置いて立たせ、試合再開の笛を鳴らす。


(気を取り直して……っ?)


 麻衣は先程と同じように、フットワークで相手との距離を取ろうとしたのだ。

 何度も何度も繰り返した、失敗するはずのない行動。


 それが今、何よりも難しい状況にあった。


 地を蹴る足が地面へと十分に力を加えるより前に、つるり、と音さえしそうほど呆気なく、その足は地面の上をただ滑り、あわや麻衣の身体は二度目の転倒という憂き目に遭いかけたのだ。


 辛うじて踏ん張ったもう片方の脚に全体重がのしかかり、予想外の重圧にひざが折れそうになる。


(やばっ……!)


 麻衣は滑る片足を引きずるように、ほぼもう片方の脚の力だけで近藤から逃げようとする。対する近藤はすぐに襲い掛かる様子もなく、じわじわと追い詰めるような動き。先程と展開の上では大差ない。違ったのは、麻衣の片足がほとんど機能してないということ。


(踏ん張れない……? なんで、どうしたら……)


 軽くパニックに陥りそうになる麻衣。そして近藤が彼女に迫る。








 その様子を見ていた第七格闘部の面々、当然異常に気付く。


「麻衣っ? 大丈夫か?」

「転んだ拍子に脚を痛めたのかも……」


 早川と茜が心配そうにこぼす中、由紀だけが声を張り上げた。


「一騎お兄ちゃん! 試合止めてください!」


 驚く早川。彼が聞き返す前に由紀がもう一度叫んだ。


「早く!!」


 早川は一瞬迷ったが、確かに麻衣の今の動きはおかしい。怪我の可能性を考えても、ひとまず試合を中断させるべきだと判断したのだ。


「待て! ストップだ! 選手の様子がおかしい!」


 彼は大声を出しながら、慌ててフィールド上に躍り出る。

 選手や審判のみならず、ギャラリーからも驚きの声が口々に放たれた。


「え、先生出てきたよ?」

「なんかあの子今動き変だった」

「中断? 中断?」


 早川はそういった声も聞こえないくらい必死で、審判へと駆け寄り事情を説明する。


「うちの選手の動きがおかしいんだ。怪我かもしれないから、少し時間をもらえないか」


 ベルヒットでは止むを得ない場合に限り、試合の一時中断が認められている。今回のように怪我の危険性がある場合は、その範疇に含まれていた。


 審判が頷き、笛を短く二度鳴らして一時中断の合図を出す。再び会場はざわめきに包まれ、異様な熱気や興奮が渦を巻き始める。








 第七格闘部陣営、麻衣をつれて戻ってきた早川が、彼女を座らせて話を聞いていた。


「じゃあ、怪我したとか脚が痛いわけじゃないんだな?」

「うん。なんだか、急にこっちの足が……」


 苛立つ様子で歯を噛み締める麻衣が、座った状態で靴の底を見る。見た感じ、変なところはない。その事実が一層彼女の精神を乱していく。


「落ち着け、何か理由が……」


 諭すように言おうとした早川の声を遮って、由紀が口を開く。


「一騎お兄ちゃん、私さっきの休憩時間中に見たんです。向こう側の選手がこそこそ話してるの」


 それは客観的には何の根拠にもならない証言だったが、由紀にとっては大事な意味を持つものらしかった。


「さんざん見てきたじゃないですか。あの人達、勝つためならなんでもやるんです。きっと麻衣ちゃんが転んだのも、向こうが仕組んだ事に違いないんです!」


 強く提言する由紀に、早川たち三人は息を飲む。


「確かに、相手の動きも変だったんだ。このラウンドの初め、なんだか企んでるような妙な感じで……」


 麻衣が言葉を濁すと、今度は茜が聞き返す。


「何か企んでる……? 具体的にどういう感じだったの?」

「うーん……、よくわかんないけど、私が動く先を制限するような……」


 その言葉に、早川はぴくりと反応する。


 しかし早川よりも先に動いたのは茜だった。彼女は素手で、麻衣のシューズの裏をさっと軽く触ったのだ。そして表情を変えた。


 早川も同じ事を考えていたようで、その二人は苦々しく口を揃えた。


「グリースか……!」


 要するに、滑りやすい油性の液体。それが麻衣の靴の裏に付いていたのだ。触れてみればすぐにわかる。こんなものがシューズの裏に付着していれば、まともに走り回れるわけもない。


 ところで問題なのは、なぜこんなものが彼女のシューズに付着しているか。


「あいつら、清掃に紛れてフィールドにこれを塗りつけやがったんだ……! 自分たちは塗った場所がわかるから引っかからない。そして何も知らない相手だけを誘導し、転ばせるってわけか。卑怯な真似しやがって……」


 早川が唸る。すぐにでも試合を中断し、相手陣営へ殴り込もうかと思案した。しかし、麻衣がそんな早川の気色を察して言うのだ。


「待って、大丈夫だよ。実力で勝てばいいんでしょ。身体は痛くないし、さっき転んだ場所に近づかなければいいだけ」


 試合から逃げるような真似はしたくない、と主張する麻衣。早川は苦い顔をする。


「そうは言ってもな、あのトラップが一つだけって保証もないだろ。向こうのやる事だ、この先もいくつも罠を張ってくるかもしれない……」

「でも、ここで試合を止めたって意味ないよ。グリースを塗ったのが向こうだって証拠があるわけでもないし、なにより……」


 麻衣は声を大きくして、曲げられない思いを口にした。


「有耶無耶にされて終わるぐらいなら、不利でも最後まで闘いたい。勝てる可能性だってちゃんとあるんだ。私に闘わせてよ、先生!」

「麻衣……」


 何も言い返せない早川に、由紀や茜からの視線も向けられる。彼女たちには、闘いたい麻衣の気持ちが痛いほどわかるのだろう。そんな彼女達の顔を見ていると、早川は試合を中断させることなど出来そうになかった。


「……わかったよ。由紀、予備のシューズ用意してやってくれ。茜は麻衣の脚をマッサージだ。俺は審判に試合続行だって伝えてくる」

「はい!」

「了解!」


 由紀と茜は元気よく返事してそれぞれの仕事を開始する。

 早川はフィールドへ駆け出した。中断されている試合の再開を申し出るためだ。


 しかしその最中の彼の顔色は、あまり優れなかった。


 選手たちに押し切られて、試合の再開を決断したものの、本当にこれでよかったのだろうか。相手の悪だくみはまだまだ底が知れない。いざという時辛い思いをするのは、自分ではなく部員たちなのだ。やはり、この試合は止めさせるべきでは……。


 そう思い、再び自陣を振り返った早川が見たのは

 すでにやる気満々といった面持ちで構え、彼の後ろに控えていた麻衣の姿だった。


(こいつら、闘う気なんだ。何されたって、最後まで正々堂々と……)


 強く、とても尊い意志。これを押さえつけられる理由が、一体どこにあるだろうか。

 どんな不利だって覆せる意志の力を、早川は信じてみることにした。






 

 早川から審判に伝達された試合再開の連絡が第六格闘部陣営まで伝わり、そこにいた榛原未来の面持ちが変わる。どこか嬉しそうな、それでいてもどかしそうな微妙な表情だった。


「少しは抗議でもしてくるかと思いましたが、無かったようですね。手間が省けてよかった。これでこちらの負けはなくなりました」


 隣に座る甘和は返事をせず頷くのみだった。やけによく喋るのは、未来にとって機嫌が悪い事の裏返しなのだ。あまり刺激しない方が身のためだった。


「しかし、表情が気に入らない。弱いくせに、自分の勝利を疑っていないような……。ああいう愚かな人間が、私は一番嫌いです」

「でも未来……、あいつらずっとあの調子だよ? 初心者だったはずが、実力もかなりあるし……。罠がばれちゃったのに、この後何もしなくていいの?」


 甘和は思わず、平素の彼女に似つかわしくない弱気な調子でそう尋ねたのだ。近藤と樋口麻衣の試合は、当初の想定から外れ樋口麻衣の優勢で進んでいた。あのまま続ければ負けていた可能性も高い。


 その状況を覆すために、未来は罠を仕掛けたのだ。しかし結果は、点差の変わらないうちに気付かれてしまい、結局変化のないまま仕切りなおしする形になっている。このままでは、再び続けたところでこちらが勝てる保障はない。


 しかし未来は何か考えがあるようで、特に不安を感じる様子もなく言うのだ。


「愚問ですね。この状況からこちらが負ける可能性はないって、少し考えればわかりませんか?」


 当然のような彼女の口振り。未来の目は本気だった。


 甘和には、その言葉の意味がまだわからない。ただ驚きの表情で、ついに再開されようとしている試合のフィールドに視線を向けた。

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