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『茜はベルヒット部を退部します』
は? と早川は本気で耳を疑った。彼は自分が職員室にいるということも忘れて、ただ心の底から理解不能な状況を精一杯に整理しようとする。
「あの、言っている意味がわかりません。どうしてそんな……」
『理由を答える義理はありません。これは私たち家族の問題です。とにかく、茜はベルヒット部を退部することに決めたのです』
早川よりも幾分年のいった男性の、落ち着いているようでその実とても興奮しているような、そんな不思議な声色が聞こえてくる。退部? ますます意味がわからなくなる早川に、受話器の向こうの男性は一言。
『これ以上話すことはありません。それでは』
「ちょ、ちょっと待ってください!」
『……何か?』
不機嫌そうな男性の声に、しかし早川はためらっている場合ではないと直感する。
「あまりにも突然すぎます! こっちは理由も聞かされていないし、昨日まであんなに楽しそうに部活に参加していたのに……。昨日の今日で即退部だなんてそんな」
『あなたに対する個人的な不満があるわけではありません。茜もあなたの事は慕っているようだ。しかし、それとこれとは話が違うのです。茜にベルヒットを続けさせるわけにはいきません』
「そんな事を心配してるわけじゃないんです。僕はただ、彼女本人があんなにも楽しそうにベルヒットに打ち込んでいたのに、それを止めさせる理由がわからないんです!」
お互いにぶつけ合うように言葉を放ち終えてから、ふと受話器の向こうの男性が低く重たい声で続けた。その声を聞いて、早川は思う。ああ、これは一筋縄じゃいかないぞ、と。
『……それをあなたに知ってもらう必要はありません』
早川は冷静に慎重に言葉を選ぶ。
「事情はわかりません。でも、あんなに楽しそうにベルヒットをしている彼女から、それを取り上げるのが正しいことだなんて絶対に思えません。彼女の気持ちを思うなら……」
その直後、今まで辛うじて落ち着いていた男性の声が、一気に調子を変えて早川に襲い掛かった。
『知った風な口をきくな! あなたに私たちの何がわかるんだ! 私だって、何の理由もなくあの子を苦しめるような真似はしない!』
「だったらどうして!」
早川も負けじと強気で切り返す、しかしその後返ってきたのは、びっくりするくらい弱弱しく、憐れみさえ覚えるような呟きだった。
『私だって辛いんだ……』
がちゃり、と無慈悲な音が響いて、通話は途切れた。職員室の片隅で一人佇む早川はしばらくの間、呆然と立ち上がることすら出来ずにいた。
(なんでだよ……? どうして茜がベルヒットをやめなければいけないんだ?)
頭の中で同じ質問を何度転がしても、納得のいく答えは見つかるはずもない。
「あいつらに、知らせるべきか……?」
茜が退部を決めた。そんな事を知らせたら、由紀と麻衣はどう思うだろう。驚くはずだ。慌てるはずだ。悲しむはずだ。そもそも早川ですら現状を飲み込めていない。本当に、茜は部活を辞めてしまうのか?
こんな混乱した頭で、彼女らに上手く説明なんてできるだろうか。しかしこのまま職員室に留まっているわけにはいかない。練習場所で待っているはずの二人のもとに向かわなければ。
半分上の空でよろよろと立ち上がった早川は、職員室の入り口からタイミングよく入ってくる人影に気付く。
「先生!」
「茜ちゃんからメールがっ」
麻衣と由紀だ。彼女らがやってきたことに驚くような判断力も、今の早川は持ち合わせていなかった。
「一騎お兄ちゃん! 茜ちゃん、部活やめちゃうって!」
ただ、泣きそうな顔の由紀が強引に見せた携帯の画面を見て、早川は息を飲んだ。
その画面に書かれていた内容はたったこれだけ。
『ごめん 今日で部活やめることになりました ごめんなさい 皆と一緒に練習できて本当に楽しかった 一緒に全国行きたかった さようなら』
それだけの素っ気無い内容だったが、早川は縋るようにその文面を読み直す。
「一緒に練習できて、楽しかったんだよな? 毎日楽しそうにしてたお前は、本物だったんだよな? お前はまだ、一緒にベルヒットやりたいって思ってるんだよな……?」
「一騎お兄ちゃん……?」
「先生……」
うわ言のように呟いた彼は由紀と麻衣が戸惑うのも気にせず、突然声を張り上げた。
「……二人は、練習を続けていてくれ。いつもやってるフットワークとスパーだ。俺はしばらく外すから」
「外すって、先生なにを……」
そう聞き返した麻衣の顔に一瞥もくれず、早川は駆け出した。
「茜の家に行く。行って納得できる説明を聞くんだ」
「ちょっと、お兄ちゃん落ち着いて……」
「これが落ちついていられるか!」
まさになりふり構わず職員室を飛び出した早川。
後に残された由紀と麻衣は顔を見合わせ、心配そうに立ち尽くしていた。
「茜、そろそろ下に下りてきなさい」
少しずつ夕日の色に染まり始めたリビングにて、茜の父親はドアから首を出して、二階の部屋にいるはずの茜に声をかけた。
「……ごめん、まだ無理」
聞こえてきたのはお世辞にも元気のある声ではない。茜は、普段の彼女からは考えられないほど弱弱しい、すすり泣きのような声で答えたのだった。
「さっきは怒鳴ったりしてすまなかった。お前の気持ちはよくわかる。でも、ベルヒットを続けさせるわけにはいかないんだ」
やや低い声が響いた後、木造の広い廊下がしんと静まり返る。茜の父は薄暗くなってきたその廊下の先をぼんやりと眺めながら、わが子の様子を想像して胸を痛ませる。
(許してくれ茜……)
唇を噛みながら、彼は続いて茜にかけるべき言葉を探した。
「友達には、連絡したのか」
彼の問いかけに少しの間を置いて茜。
「うん」
「ベルヒット部の友達とはもう会わないことだ。会えば必ず、またベルヒットがやりたくなる」
「……うん」
今度はあまり間をおかず、しかし身を切られるように悲痛な呻きに似た声で答える。
茜の父はまた少し悲しそうな顔をして、何も言わずにリビングに戻っていく。
その時、茜は自室で膝を抱えていた。
自分のベッドに背中を預けて、顔を両脚に埋めながらぽつりと一人だけ佇んでいた。
彼女は、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「そんなのひどいよ……」
誰にも打ち明けられない苦しみを、ただ自分の中にだけ吐き出していく。
部屋の一角に置かれた勉強机の上には、ピンク色の表紙のノートが無造作に置かれていた。彼女の練習日誌だった。
いつも引き出しに仕舞っていたはずのノートが外に出ているのは、それを読んだ人がいるから。今朝のやり取りを怪しんだ父が、このノートを見つけ、そして中身を読んでしまった。隠し続けていた秘密が、暴かれてしまったのだ。
そして暴かれた以上、彼女は父との約束に従わなければならない。
「せっかく仲良くなれたのに……一緒に全国行こうって、約束したのに……」
父親にはもちろん、友達にも、顧問にも言えないこと。父のために押し殺した自分の本音は、誰にも気付いて貰えない。誰も、助けてはくれない。
「いやだ……私、ベルヒットやめたくないよ……」
不意に、甲高い音が遠くから聞こえた。
誰かの訪問を知らせるベルの音だった。茜は誰だろう、と疑問に思いながら、立ち上がって玄関に向かう気力もなく、父に任せることにした。
その時、玄関では今まさにとんでもない修羅場が繰り広げられようとしていた。
訪問者に気付いて玄関を開いた茜の父は、そこで見慣れない男を発見する。
二十代半ばくらいの、精悍でどことなく優しげな男性。短めの髪の毛の下に覗く額に汗をかきながら、ひどく慌てて興奮した様子で彼は口を開いた。
「朝日野女学院高校、第七格闘部顧問の早川です。あなたが電話でお話しした、茜ちゃんのお父さんですね?」
すると茜の父親も動揺しながら聞き返した。
「何の用です? 伝えるべきことは電話で全て伝えました。これ以上は……」
「いいえ、僕はまだ一番大切なことを聞いていません」
一歩も引かずに、毅然とした態度で言い切る早川。
その瞳には、とりつく島もなさそうだった茜の父親すら気圧されるほどの、強い意志が込められていた。
「本人の気持ちです。それを聞くまでは、僕は彼女の顧問として引き下がるわけにはいきません!」
「…………」
茜の父は黙り込んで俯いた。彼は思う。教え子のために、わざわざ面倒ごとを省みず家にまでやってくるこの教師。一体どうしてここまで必死なのか。まるで自分が娘にかける情熱を、この男は持っているようだった。
生徒の自宅まで押しかけるという、非常識ともとれる行為が、それゆえに茜の父親の心に響いた。
「ずいぶん熱心なんですね。あなたを追い返すのは時間がかかりそうだ。……あがってください。立ち話ではなんだから」
彼は諦めたようにそう告げて、玄関の扉を大きく広げた。
(中に茜がいるのか……?)
早川は招き入れられるのに応じて、家の中へと入っていく。木造の広い廊下も、綺麗な壁や天井も、ところどころの部屋から漏れ出している暖色系の照明も、見れば見るほど一般的な家庭の水準からは逸脱していて、なるほど豪邸だ、と早川は思った。
「こちらに」
茜の父はそう言って早川をリビングに案内する。小綺麗で開放感のあるその一室を早川は見渡すが、茜の姿はない。
「どうぞ座ってください」
椅子に腰かけるよう促され、早川はどうも、と軽く返事をしながら席に着いた。テーブルを挟んだ向かい側に茜の父が座り、ぴりぴりとした雰囲気の中、会話が始められる。
「茜についてのことですが、電話で話したとおりベルヒット部を辞めさせる方針は変わりません」
開口一番に告げられた言葉。早川は何度目かになるその言葉を頭の中で転がした。
(ベルヒットをやめさせる、か……。なぜこの人は、そんなにも執拗に茜からベルヒットを遠ざけようとする……?)
当然の疑問であり、早川はまだ納得のいく答えを得られていない。
「理由を教えていただけませんか。先程も言ったように、茜ちゃんは本当にベルヒットが大好きなんです。お父さんだってわかっているはずです。その茜ちゃんからベルヒットを取り上げるなんて、僕には……」
言い終えるよりも早く、茜の父親は咳払いしながら語り始めたのだ。
「茜は5歳でベルヒットを始めました。その時からあの子には才能があること、それはわかっていました。親の私が言うのもなんですがね」
早川は軽く縦に首を振って、そのある意味傲慢ともとれる発言を肯定する。あれだけの才能は滅多に見られるものではない。父が誇りたくなるのも当然だった。
「彼女はメキメキと実力を伸ばし、小学生の頃にはもう他の選手たちの土俵にはいませんでした。私はあの子を国内の大会に出したことはありません。でも、同年代なら日本に敵はいなかったでしょう。あの子はその当時、日本より格段にレベルの高い海外の試合に出ていたのですから」
父親が平然と語るのは、早川の知らない茜の過去だった。小学生の頃から海外の試合に出ていた? 驚くべきことが、しかし早川にはすんなりと飲み込める。あの日本人離れした強打の由来は、とりもなおさず海外の試合で揉まれてきたことの結果だったのだ。
「あの子がそんなにも強かった理由は、彼女の才能のためばかりではありません」
茜の父がぽつりと続ける。早川も同時に考えていた。いくら才能のある選手がいても、それを指導するコーチがいなければその才能は開花しない。そして、身体的に劣る日本人が今まで海外の試合で高い成績を残せた事例はあまりにも少ない。小学生とはいえ、広橋茜が海外の試合で通用したのなら、彼女を鍛えた優秀なコーチがいるはずだ、と。
「一体誰が、茜ちゃんにベルヒットを教えたんですか……?」
湧き上がる率直な疑問を、早川は無意識に口にしていた。
茜の父は少しだけ間を置いて、
「あの子に、ベルヒットの才能を与え、そしてベルヒットを教えたのは、たった一人の人物です」
と言いながら、部屋の端の方を指差した。
その動きにつられて早川は指の先を見る。そこにあったのは、棚の上に立てられた写真立て。立てられた写真には一つの家族が写っていた。
三人いる。一人は、目の前にいるこの男性。もう一人は、まだ小さくも面影をはっきりと感じる、茜。そしてもう一人は、父親とともに茜を挟むように立ち、明るくそれでいてどこか奥ゆかしさを感じる、静かな微笑をたたえた女性。家族写真ならば間違いはない。この人は……
「茜の母……私の妻です……」
「なんてことだ……、それじゃあ……」
早川は目を大きく見開いて、あまりの衝撃に口もきけなくなってしまった。彼がこんなにも驚いていたのには理由があった。
その母親の顔を早川は知っていたのだ。むしろ、日本人のほとんどが知っているはずの人物だったのだ。
半ば呻くような口調で、早川はこう言った。
「あの藤堂朝音選手が……、茜の母親だったなんて……」




