5
あくる日の朝のこと。その日は早川の都合で久しぶりに朝練がない日だった。
天気は快晴。自室のカーテンを開けて日差しを浴びた広橋茜は、いつもするようにその場で大きく伸びをして、一日の始まりに挨拶する。ふかふかのベッドを起き散らかしながら、彼女の着ていた白地に水色水玉模様のパジャマが日光に撫でられ嬉しそうに揺れる。
普段通りにシーツ類を跳ね除けて飛び起きる。そのまま部屋を飛び出し、だだだだ、と階段を駆け下りて広い廊下を突っ切りリビングへと突撃する。
リビングには彼女と同じくパジャマ姿の男性が、湯気の立つコーヒーを口に運びつつ新聞を読んでいた。彼は茜を見て一言。
「こら、危ないから階段はゆっくりおりなさい」
「はーい! お父さんおはよう!」
茜は返事もそこそこに冷蔵庫を開けて、棚から取った自分のグラスに牛乳を注いだ。
「ああ、おはよう」
お父さん、と呼ばれたその男性は特に気にするでもなく、朝の挨拶に返事をする。彼は続けて、茜が牛乳を飲み終わる前にこう言ったのだ。
「トースト焼いておくから、顔洗っておいで」
茜は一度頷いて了解し、飲み終えたグラスをテーブルに置いて、リビングから飛び出していった。
廊下の向こう側の洗面所から、ばしゃばしゃと水の流れる音、そしてその水で顔を洗う音がして、大して時間もかけずに戻ってきた茜の前髪は濡れ、いつも以上につやつやと光を反射していた。
小気味良い金属音、リビングのテーブルに二人分の食パンのトーストと、目玉焼き、生野菜のサラダが並べられた。窓から差し込む暖かな日光が木造の明るい茶色をした壁や床に投射して、父と子の朝食風景を爽やかに演出してくれる。
「いただきます」
二人はほぼ同時にそう言って手を合わせた。目玉焼きをトーストに乗っけてかぶりついたのは茜で、父親がそんな彼女に何の気は無さそうに尋ねた。
「学校はどうだ。慣れたかい?」
「うーんまあ、ぼちぼち」
「そうか」
ゆっくりとサラダに手をつける父を尻目に、茜はかなりの勢いでトーストをたいらげ、サラダもそのままの勢いでかきこもうとしていた。
「部活は大変かい。毎日遅くまで練習してるようだけど」
「……」
茜は口に物を含んでいるため上手く答えられず、視線を父に向けた。
すると父はコーヒーを口に運ぶような動作をし、その途中でこう言った。
「……ベルヒットに比べたら、サッカーなんて大したことないか」
そしてコーヒーに口をつける。口にある物を飲み下した茜はなんでもないような口調で、
「うぅん。サッカーもサッカーで大変だよ」
と答えたのだった。
「部活の先輩とか、同級生とは仲良くなったのか」
「まあね。あ、ごめんお父さん。もう出ないと遅刻しちゃう」
あっという間に朝食を終えた茜が会話を無理やり中断させるようにリビングを飛び出し、階段を駆け上がったかと思うとよくもここまで速く着替えたものだ、というようなスピードで制服に身を包み、再び階段を駆け下りてロケットみたいに出発しようとする。
「いってきまーす!」
「待て待て、お弁当忘れてるぞ」
が、先回りしていた父親が玄関で彼女の腕を引っつかんで捕まえる。用意していたお弁当箱を鞄に強引に突っ込むと、茜が恥ずかしそうに笑う。
「いっけない。ごめんね、ありがとう」
そう言ってちらりと父親の顔を見て、もう一度はにかむように笑ってから、玄関の扉を開けようとした茜。その時だった。
「茜、また少し腕の筋肉がついたんじゃないか?」
茜の父は、朝食の時にはかけていなかった眼鏡の位置を左手の薬指で調節しながらそう尋ねたのだ。茜は一瞬驚いたような顔をして、若干の間を置き
「サッカーでも上半身の力は使うし、それに……。言ったでしょ。うちはどんな部でもたまにベルヒットやったりするんだ、って」
と弁明したのだった。だが茜の父はまだ納得がいかない様子で続ける。
「その程度の事で? 遊びでやるくらいなら、お前には大した運動にもならないはずじゃないか」
「それは……」
答えようとして返事に詰まる。そんな茜の様子をめざとく観察した父は、彼が何よりも懸念している事をとうとう口に出したのだ。
「茜、まさかベルヒット部に入ってるんじゃないだろうな? 約束したじゃないか、あれだけ……」
「お父さん……」
困りながら口ごもる茜に対し、父はまるで喋らずにはおけない、というような必死な顔つきで、胸中を吐露した。
「お前を朝日野に入れたのは、前のようにベルヒットをさせるためじゃない。お前があの競技から少しずつ離れられるように、二人で考えて決めたんじゃないか。本当だったら僕は、お前にもう一切ベルヒットをさせたくはないのに……」
父親は最後に、感情を抑えきれない様子で、憤りを込めた口調で呟いた。
「ベルヒットは危険なスポーツだ……! 茜、忘れるな……! お前のお母さんは……!」
「もうやめてよ……。その話は……」
父の言葉を遮って、茜が弱弱しく返す。
その様子を見て、我に返ったように父親は咳払いをした。
「悪かった……。けど忘れないでくれ。父さんはいつだって、茜の幸せを思って……」
茜は少しだけ暗い表情をしていたが、その言葉で気を取り直し、どこか無理をしたような笑顔で告げたのだ。
「……うん。行ってきます」
家を飛び出し、いつものように駆けだした茜。
彼女は普段よりも相当早い時間に出発していた。本当はもっとゆっくり家を出る予定だったのだが、今日はそういう気分にはなれなかったのだ。
彼女は父に対して、重大な嘘をつき続けていたから。
その日の学校、一年三組の三・四時限目の授業は体育だった。
「麻衣ちゃーん、一緒に行きましょ」
教室にて体育用のジャージを脇に抱えた由紀が、同じように体育の授業へ向かう準備をしている麻衣へと声をかけた。麻衣は当然二つ返事で
「はいよ。ちょっと早いけど行こうか」
と答え、二人は並んで体育館へと向かう事になった。
その途中に、廊下を進みながら麻衣が尋ねる。
「今日ってバスケだったっけ?」
「そうですよ。麻衣ちゃんバスケ上手で羨ましいです」
「そう? 由紀も上手かったと思うけど、シュートとか」
すると由紀が自嘲気味に一言。
「私シュートしか出来ないんです。ゴール前で待機してボールが来たらシュートうつだけなので、なんだか別の競技やっているような気分になります」
「あはは……それは……」
麻衣はなんとも答えづらく苦笑いした。
「私も麻衣ちゃんみたいに華麗にドリブル決めて、レイアップシュートとかしてみたいんですが……」
「そんなに大したもんじゃないけどね。早くいけばコート空いてるだろうから、一緒に練習する?」
提案すると、由紀はとても嬉しそうに表情を明るくする。
「いいですね! カッコいいドリブルの仕方教えてください!」
「いいよ。カッコいいかどうかはわからんけど」
麻衣は何気なくそう答えて、目の前に意識を向ける。そう時間も掛からずに体育館にはたどり着けそうだ。
果たして二人が体育館に着いた時には、まだ前の授業の生徒たちが残っていた。どうやら同じ一年生の授業だったらしく、これから授業の麻衣たちと同様、バスケットボールの試合を行なっていたのだ。
試合の邪魔にならないよう、体育館の端側を通って更衣室まで向かう二人。無意識の内に視線はその試合に向けられた。残り時間はあとわずかで、あわただしく動き続ける生徒達の中に、二人は見慣れた人物の姿を見出した。
「あ、茜だ」
「ほんとです」
同じ第七格闘部の一員、広橋茜がいたのだ。
そして、この時点で二人は気付かなかったのだが、彼女を中心としておかしなことが起きていた。簡単に言ってしまえば、彼女の周りだけやけに人が多かったのである。
その理由は直後示される事となる。試合に出ている選手のうち、茜と同じ側のチームの選手がボールを持って叫んだ。
「あかねっ!」
にわかに両チーム及び観戦していた生徒たちがざわつく。
「そいつにボール持たせるな!」
「マークつけマーク!」
怒声のような指示がどこからともなく聞こえ、終了時間間際ゆえか殺気だつような雰囲気すら感じる中で、広橋茜が動いた。
彼女は先程名を呼んだ生徒に向けて大きく手を上げてアピールする。こっちに投げてこい、と。当然相手方の選手も黙ってはいない。
彼女の周りにいた選手が一斉に彼女の動きに合わせてパスコースを塞ごうとする。その数実に三人。そんなにも多くの生徒が同時に彼女をマークしたのは、それだけ彼女が恐ろしかったから。
ボールを持っていた生徒が、遠投するような動きでボールを思い切り放った。
ボールは高々と舞い上がり、茜や彼女をマークしている生徒達の頭上を軽々越えていこうとする。誰の目からも明らかにパスミスかと思われた。しかし、
「ナイスパスッ!」
頭上を越えていこうとするボールをよく見つつ、茜が言い放ったのだ。
直後、彼女はぐぐ、と低く身体をかがめ、沈みこんだ。周りの選手たちは彼女が何をしているのかわからなかった。
一瞬だった。周りの判断が追いつくよりも速く、茜の身体は軽やかに跳ね上がり、まさか届くはずもないと思われた空中のボールを、彼女は片手でがっちりと受け止めたのだ。
そこからは独壇場。ボールを受け止めた茜はそのまま落下し、着地と同時にドリブルに移行する。その切り替えの素早さに、三人がかりでマークしていた生徒達はついぞボールに指一本触れることも許されないまま、茜のドリブルによって抜き去られていく。
「させるかっ!」
猛速で進撃を続ける茜の前に、立ちはだかるのは一人。体格の大きな生徒で、身のこなしから経験者のようだった。
一対一の攻防。茜は少しもスピードを緩めず、ゴールを守る女生徒の横をかいくぐろうとする。まず左右の激しいフェイント、体が二つに分裂したかと見紛う程の素早い動きで翻弄する。だが相手の選手も素人ではない。細かな動きは全て無視し、茜が本当に自分を抜こうとする、その一瞬にだけ注意を集中する。
(まだ、まだだ……)
小刻みにぶれるようにフェイントを繰り返す茜。
(これも、違う……)
相手の女生徒が直後、動いた。
斜めに抜け出そうとする茜の動きを正確に読んで、その方向へとがっちり身を寄せる。逃げ場を失った茜は跳んだ。ゴールから幾分離れた位置でジャンプシュートの姿勢に入る。
相手の選手は確信した。このタイミングなら止められる、と。
(バカめ、身長差がある相手に、高さで勝負する気か!)
彼女も後を追うように跳び上がり、腕を伸ばして茜の持つボールを弾こうとする。
止められるはずだった。彼女だけでなく、周りの全ての選手もそう思った。
だが、それは間違いだったのだ。
(あれ、届かな……)
広橋茜の身体は、想像よりもずっと高く、ことによると跳び箱のロイター板でも使ったのではないかと思うほど、軽やかに、高らかに宙を舞った。
そして目を疑うべきことに、そのままゴールのリングまで放物線を描くように進んでいき、ボールをその輪の中に叩き込んだかと思えば、自分はリングに片腕で掴まってぶら下がったのだ。
全員が息を飲んだせいで、一瞬全ての音が消えてしまったようだった。
それだけ異常な――さほどの身長もない女子高生がダンクシュートを決めるという――事態が目の前に起こっていたのだ。
試合終了を示すブザーの音が響き、ぶわっと風船が破裂するように、体育館中から歓声がこだまする。
「すげー!」
「あの子何者なの!?」
別のクラスの生徒達からもやんややんやの大喝采で、茜は気付いた時には全方位を生徒達に取り囲まれていた。
その中でも一番早く茜に近づいたのは、最後に彼女と攻防を演じた女生徒だった。彼女は興奮した面持ちで茜を問い詰める。
「ねぇバスケ部入りなよ! あんたなら即レギュラーだから!」
「へ、ええと私は……」
対して茜は困ったように言葉を濁すだけだった。その内に周りの生徒たちが彼女をかばうように口々に言った。
「ダメだよ。この子格闘部入ってるんだから」
「そうそう。ベルヒットしにこの学校来たんでしょ」
茜を勧誘した彼女はもったいなさそうに嘆息する。
「そうか……。絶対活躍できるのに、残念だな……」
そう言って、すごすごと彼女は引き下がっていく。周りの生徒達もいい加減騒ぎ疲れたのか、徐々に茜のそばから立ち去っていった。
その間、茜はほとんど何も喋らず、ただこの状況には不釣合いな、ひどく切ない表情を浮かべていたのだった。
一部始終を眺めていた由紀と麻衣の二人は
「茜って、すごい子だったんだね……」
「なんだか一生追いつけないような気がしてきました……」
などと言い合いながら、目を丸くしていた。
(でも、なんででしょう。なんか、茜ちゃん。いつもと違うような……)
由紀だけは敏感に、彼女の様子の変化に気付きつつあった。
その日の放課後だった。
第七格闘部は、いまだかつてない非常事態に直面していた。
「茜が、いないって?」
早川が聞き返す。その目には、大きな困惑の色があった。
「そうなんです。教室探しても……」
「掃除当番か何かかと思ったんだけど、そうじゃないみたいで……」
由紀と麻衣、そして早川は部室にいた。すでにベルヒット用のプロテクターに身を包んだ彼女たちは、そこに本来必ずいるべき人間がいないことに驚いていたのだ。
「あの、何を差し置いてもベルヒット優先の茜が」
「学校には遅刻しても朝練には遅刻しない茜ちゃんが」
「テスト6点でもベルヒットだけはやめない茜が……」
三人は一斉に息を吸い、目を見合わせて呻いた。
「部活を忘れて帰っちゃった……?」
しかし早川だけは咳払いをして、その可能性を否定する。
「いや、そんなはずがあるか。きっと何か急用があって……」
「先生に何の連絡もせずにっ?」
由紀が食ってかかると早川はううむと首をひねる。
「……連絡する暇もないくらい急いでたんだろう」
「何にせよおかしいよ。メールしても電話しても返事こないし……」
麻衣が言い終えるや否や、由紀が神妙そうな面持ちで提言する。
「あの、私今日の体育の時間に茜ちゃん見たんです。その時、茜ちゃんなんだか元気がないみたいだったので……ひょっとしたら何か関係があるのかも」
「なるほど。しかし体調が悪かった、ていうんじゃ何も言わず帰るのは不自然だしな……。あいつの家学校から近いんだったよな? 念のため家に連絡してみるか……」
部活を休んだだけでこの騒がれようであるからして、彼女の普段の部活に対する熱意がうかがわれる。しかし、早川が心配に思ったのは彼女が部活を休んだことではなく、それについて何の連絡もなかったことについてだった。
(あいつはああ見えて、しっかりすべきことはわきまえてる。顧問に無断で部活休むなんて真似はしない……と思う。だから、よっぽど重大な理由があるんだろう)
その理由を詮索する気はなかったが、茜の動向が一切わからないのは顧問としてやはり心配だった。大げさ、といってしまえばそれまでだが、軽い安否確認の意味も兼ねて彼は茜の自宅に電話をかけてみることにした。
「二人はストレッチして待っててくれ。茜の家に連絡つけてみるよ。親が家にいるなら、きっと茜が部活に来なかった理由もわかるだろう」
不安そうな由紀と麻衣にそう伝えて、足早に職員室へと引き返す早川。
その職員室で、彼は衝撃的な事実に直面する羽目になる。




