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 職員室にて、椅子に座った早川と由紀が向かい合って話していた。


「私、今週の塾は休もうかと思うんです」


 突然の申し出に早川は瞠目する。


「急だな。理由は……部活に最後まで出たいからか?」

「そうです。だって来週の土曜はもう試合じゃないですか。直前の練習を抜けたくないんです」

「親には言ってあるのか」

「それが……」


 由紀は珍しくしおらしい顔をして口ごもる。この様子では、恐らく親に話していないのだろう。由紀が言いづらそうに語り始める。


「うちの親、結構厳しいんですよ。だから部活のために塾を休むなんて言ったら、きっと駄目って言われます。それならいっそ、何も言わずに休んでしまえば、と思って。塾には自分で休むって連絡すればいいし。普段真面目に通ってる分怪しまれはしないですから」


 早川はふむ、と息をついて聞き返す。


「そこまでして部活に参加したいと思ってくれるのは嬉しいけどな。さすがに俺がそれを容認するわけにはいかんだろうよ」

「先生としてじゃなくても、ですか?」


 由紀が真剣な表情で尋ねる。意味をよく理解できない早川に対し、由紀は繰り返し聞く。


「先生と生徒としてじゃなくて、私をただのいとこだと思っても、反対しますか?」


 早川は目を細めながらその質問の意味を考える。


 教師と生徒という関係には、ある種の緊張感がなくてはならない。教師は生徒の誤りを正さなくてはならないし、そのために生徒は教師を時に恐れる。

 

 しかし、もしもその関係を度外視して、ただ一人の親戚、という立場でアドバイスをするのだとしたら、早川は由紀の行動をどう評価するか。それを彼女は聞いているのだ。

 建前のない純粋な思いを聞かせて欲しいと、彼女は言っているのだ。


 その質問に真剣に答えるとしたら自分はなんと言うのだろう。早川は考えた。考えてみて、しかし言える事は一つしかないと気がついたのだった。


 早川は一層目を細め難儀そうな顔を浮かべてから口を開いた。


「俺がお前の事何も知らないと思ってるのか。ちゃんと知ってるよ。お前中学でもすこぶる成績が良かったんだってな。それで本当は別の進学校行く予定だったってことも」


 由紀はひどく驚いた様子で目を見開いた。早川が自分の中学時代について知っているとは思わなかったからだ。


「お前の母親、入学式の前に俺に電話かけてきたよ。お前の事少しでもサポートしてあげて欲しいってさ。もともとの志望校やめてこっちに決めた時も、親と口論になったそうじゃないか。それで一年生から塾通う事約束して許してもらったんだろ。まったく、なんでこんなベルヒットしか無いような学校選んだのかわからんが、そういう紆余曲折あってお前は今ここにいるわけだよな」


「塾の事とか、知らなかった振りしてたんですか……」

「言ったら俺を挟んで親に監視されてるみたいで気分悪いだろ。だから黙ってたんだけどさ。ま、そんな事情知ってるわけだから結局、俺は先生としても兄貴分としても、言う事は変わらないよ」

「やっぱり、反対しますよね……」


 残念そうに俯く由紀。彼女の気持ちはわからないでもない。もう少しで大事な試合があるというのに、自分だけ取り残されている感覚。早川にも痛いほどわかるのだ。


 でも、だからといって言うべき事は変わらない。


「本当に厳しい親なら、お前をこの学校には来させなかったと思う。親はお前の希望を尊重してくれたんだろ。だったら、お前だって筋は通さなきゃ。塾を休みたいならきちんと話をつけるべきだし、そもそもお前は塾に通う約束でここに来てるんだから、その約束を破るべきではないと思う」


 その言い回しが少し変に思えたようで、由紀はぽつりと漏らした。


「筋を通す、ですか……。妙な事をいいますね」


 すると早川は小さく笑みを作って


「大事な事だよ。筋ってのは、弱い自分を律するのに必要なものさ。お前は今回の件、一回ぐらいなら塾を休んでも構わないと思ってるのかもしれないが、それは大間違いだ」

「……間違い、なんですか?」

「そうとも。ズルは癖になるんだ。一度やるとついつい繰り返したくなってしまう。そうならないためには、最初に決めた筋を通す事だ。自分に言い訳せずに、な」


 由紀は嘆息するように頷き、早川の目をじっと見る。


「それにさ。何も練習時間が短い事が、不利になるとは限らないんだぞ?」

「……というのは?」


 早川の言葉に今度は納得しかねる様子で眉を寄せる由紀。


「二時間ダラダラやるよりも一時間集中してやった方が効率的って事さ」


 早川は当然のごとくそう言い、由紀の返しを待たずして続けた。


「俺は、まだやれる事があるのに安易な方向に逃げて欲しくないんだよ。練習時間が人より取れないなら、その分を取り返せるぐらい集中して密度の高い練習をして欲しいんだ。お前がすでにそれだけの努力をしているのなら、塾を休むのだって俺には止められないよ」


 微笑む早川。由紀は気付く。塾を休むよりも先に、やるべき事があったのだと。練習時間が減ってしまうのなら、まず減った練習時間を取り返せるぐらい必死に頑張るべきなのだと。


 彼女はわかっていた。早川はもっと頑張れと言っているわけではない。自分の胸に聞いてみろと言っているのだ。そして、自分で決断を下せと言っているのだ。


「そうですね。まだやれる事をやりきってないですもんね、私」


 自嘲するような面持ちで呟く由紀。先ほどまでの憂鬱そうな顔色は消え、どこか吹っ切れたような笑顔を見せている。早川は嬉しそうに頷いて言う。


「とりあえず、今日も練習頑張ろうってこった」

「はい!」


 答えた由紀の声は、いつもより一層爽やかに響いた。





 その日の部活にて麻衣と茜は目を丸くしていた。


「由紀、フットワーク重いぞ!」

「はい!」

「疲れても足は止めるなよ! とにかく動いて動きまくれ!」

「まだまだぁっ」


 厳しく指導する早川に負けじと喰らいつく由紀の姿。普段の彼女からは決して想像できない闘志溢れる立ち振る舞いに、麻衣は思わず声を漏らした。


「由紀ってあんなに熱心だったっけ」


 早川との相談の後、由紀は俄然やる気に燃えていたのだ。茜でさえその練習振りには驚きを隠せなかった。


「ほんとにすごいよ。あの集中力を三十分近く継続してる。こんなに長く集中を維持出来る人、私は見たことないや……」

「由紀は勉強できるからなぁ。その集中力が生きてるのかもね」


 と何気なく麻衣が漏らした言葉に、茜は胸を刺されるような顔をして言う。


「私、一回に三分間しか集中力が続かないからバカなんだね。仕方ないよね」

「いや、あんたはまずベルヒットにかける熱意の1%でいいから勉強にあてなさいよ」


 冷静にツッコミを入れる麻衣だった。


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