序章3
「なんだ?」
早川は耳をすませる。もう朝礼が始まる直前であり、この時間に放送があるとすれば、よほど緊急の内容に違いなかったからだ。
茜たちも上目遣いで聞き入っている。歩き去ろうとした未来も途中で立ち止まって放送に注意を向けていた。語り始める放送の声は、早川のよく知っている人物のものだった。
「社会科の黒木です。現在学校中で噂されている第三格闘部と第七格闘部の練習試合の件について、第三格闘部顧問として正式に説明します」
「あ……」
その手があったか、と早川は思った。さらに言えば、仕事が早いな、と。
恐らく早川が廃部だのの話で右往左往している間に、部員たちから報告を受けた黒木が放送で弁明することを考えたのだろう。そして、今日このタイミングでそれをしてくれた事が、早川にとってなによりありがたかった。
「噂されているような、『第七格闘部による反則行為』の事実はありません。私達は三試合とも正々堂々、死力を尽くして闘いました。その結果、三試合目は様々な事情やアクシデントが重なり、途中終了と相成りましたが、それは反則行為の存在を示すものではありません」
噂が広まったのはせいぜい昨日の夜だ。このタイミングでの訂正ならば、まだ悪い印象が固まっていない。多少のしこりは残るにしても、わけも無く悪人扱いされるような事態は避けられるはず。
全校に黒木の明朗かつ鋭い声が響き渡る。
「繰り返しますが、第七格闘部は反則行為どころか、ダーティプレイも一切しておりません。彼女らはむしろ既存の格闘部よりも誠実に、スポーツマンシップに則った闘いをしていたと思います。噂の出所はただ今調査しておりますが、このような根も葉もない噂を流すのは断じて許されないことです。生徒諸君は、間違った情報を信じ込むことのないよう注意してください。以上」
放送が終わり、早川はにやりと笑う。
視線の先にいる諸悪の根源、榛原未来に向けて
「残念だったな、榛原。子供の悪知恵なんざすぐにバレるのさ。あとは……俺が第七格闘部の廃部を阻止すれば、お前の目論見は完全に失敗だ」
「…………」
未来は無言のまま眉間に皺を寄せ、明らかに不機嫌そうな顔をした。
「……つまんない」
そう捨て台詞を残し、ここに来て初めて悔しそうにその場を後にする未来。
去り際に、彼女は声を荒げた。
「とにかく、試合は受けなさいよ臆病者。じゃないと本気でつまらないから」
「言ってろバーカ。俺はお前の好きにはさせん。ボーケカース」
そのまま廊下の向こうへ去っていく未来に向かって、子供のように舌を出して罵声を浴びせる早川だった。未来が見えなくなるまで、早川の小学生のような悪態攻撃は続いた。
そんな彼の様子を見ていた麻衣が、久しぶりに口を開く。
「うわぁ、途中まですごいかっこよかったのに。今のは無いわ……」
「え?」
驚いて聞き返す早川に、由紀が追い討ちをかける。
「生徒相手にムキになって、子供じゃないんですから……」
「な、なんでだよ。俺、頑張ってただろ? あいつに言いたい放題言わせないように」
「なんか違うんだよねー。スマートじゃないというか。途中までは良かったのに」
「と、途中までは、って言うな!」
茜までも早川の行動に難色を示す。早川としては彼女達のために精一杯頑張ったつもりだったのだが、受けはあまりよろしくないようでがっくりと肩を落としてしまった。
しかしうなだれる早川に、しばらくの沈黙の後、優しい言葉がかけられる。
「でも、先生が怒ってくれたのは嬉しかったよ。あのまま言わせてたら、こっちの面目丸つぶれだったもん」
茜がぽつりと一言。すると麻衣や由紀も口々に話し始める。
「私も。スカッとした」
「聞いてる方が恥ずかしくなるような台詞も言ってましたけどね。『俺は必ずこいつらを守る』なんて」
由紀は意地の悪い顔をして早川を茶化そうとする。
「やめろ! 人が必死で言った言葉を繰り返すんじゃない!」
茜がさらに悪ノリして、いたずらっぽく尋ねた。
「守ってくれるの? 先生っ」
「やめろぉぉっ」
自分の発言を蒸し返され、恥ずかしさのあまり頭を抱え悶絶する早川。
やり過ぎたか、と舌を出す茜。その様子を見て麻衣や由紀も楽しそうに笑った。
さんざん早川を馬鹿にしている彼女達だったが、こんな風に笑っていられるのも彼が啖呵を切って安心させてくれたおかげであり、その事は三人ともよくわかっていた。
麻衣は一度小さく咳払いをし、早川が考えもしなかったことを口走る。
「……でさ。先生のこと見てたら、私もやられっぱなしじゃいけないって思ったんだ。なんとかして、あいつにも痛い目見せてやらなきゃって」
目を丸くする早川だったが、由紀や茜には麻衣の言いたい事が理解できるようだった、
「それ、私も思いました。先生たちに解決してもらう事も出来るかもしれない、けど、それじゃあの榛原とかいう人に見下されたままな気がするんです」
「悪いのは全部向こうなんだから、こっちも嫌な事されて黙ってるべきじゃないと思う。ね? 二人とも」
熱心な様子で話し、三人は顔を見合わせる。早川には彼女らの意図がわからない。が、三人はすでにしっかりと意気投合しているようなのだ。
果たして彼女らは、三人で頷き合い、声高に主張した。
売られた喧嘩は、買うしかない、と。
「私たちで、第六格闘部をやっつけよう!!」
(そんな事言ったってなぁ……)
放課後の職員室。早川は頭を抱えていた。
部員達が賛成した、第六格闘部との試合の件についてだった。
(こっちには茜がいるとはいえ、残り二人は初心者同然だぞ。団体戦じゃ二勝しなきゃいけないのに、どうやって勝つつもりだよ……)
第六格闘部との試合を引き受ける場合、負けたら廃部、という条件は免れない。その上、榛原未来は全校生徒の前で試合を行なうと言っていたのだ。呆気なくやられる姿を衆目に晒すのは辛いし、そうなる事がわかっているのなら試合を引き受けるべきではない。それが早川の考えだった。
結局先ほどは、これといった結論を出す前に朝礼の時間になってしまった。
もうすぐいつも通り部活の時間がやってくる。彼女達は今頃部室に移動していたり着替えをしていたりするのだろうが、その場に赴くには腰が重かった。
(試合なんて、するべきじゃないんだ。勝てるわけのない試合をやって、その結果あいつらが傷つくことになったら、それは俺の責任だ。なんとかして、あいつらを説得しないと)
彼女らはすでにやる気満々で意気込んでいるかもしれない。それを上手くなだめすかして、無謀な挑戦をやめさせなければならない。
しかし、どうやって? 由紀の性格は昔から知っている。あんなひょうきんなキャラを通しているが、根は相当な頑固者。麻衣だって天見千佳との件からわかるとおり、人の言う事を素直に聞くような性格ではない。茜はかなりの負けず嫌いと前回の試合でわかった。こんなアクの強い面子を、どうやって説得すればよいものか。
「もう部活の時間じゃない。行かなくていいの、早川先生?」
背もたれにもたれて頭を抱える早川に、隣からつんとすました女性の声が。
「ああ、黒木先生か。今朝はどうも。先生のおかげで本当に助かりました」
そこにいるのは麗人、という響きがまさに似合う、黒いスーツの女教師。黒木牧子だった。弱小部活と練習試合を組んでくれたり、今朝は第七格闘部の悪い噂を払拭するために一肌脱いでくれた恩人でもある。重ね重ね、早川は頭が上がらなかった。
「……どうせあいつらチンタラ着替えてるから、時間通りに行っても待たされるんですよ」
「それならむしろ時間前に行って、どやしつけるのが顧問の役目よ。私も今やってきたんだから」
「第三格闘部でもそんな事あるんですか。意外ですね」
「どこでも同じよ。怠惰な人の心はね。違うのは、それをコントロールする方法を持っているかどうか」
黒木は小さく頬をゆるめ、早川の席の左前にある自分の席に腰を下ろして尋ねる。
「第六格闘部から試合を申し込まれてるんだって?」
「……情報が早いなぁ」
地獄耳、とはこのことを言うのだろうか。などと早川は思ってみたりもした。が、榛原は試合の件を全校中に宣伝すると言っていた気がする。とすると、一部の教師や生徒達にはすでに話が行っているのかもしれなかった。
「ま、試合なんて受ける気はないですけどね。馬鹿馬鹿しい」
そう彼が言い捨てると、黒木は露骨に驚いた表情を浮かべたのだ。
「あら、君の事だからてっきり承諾するのだとばかり思ってたのに」
「僕だけの話ではありませんからね」
早川だって、馬鹿にされた仕返しをしたい気持ちがないではない。
しかし今回ばかりはそう軽率に考えられなかった。
「惨敗すれば部員たちが恥をかく。勝てば廃部は撤回なんてエサに釣られて、あいつらを傷付けるような事は出来ませんよ」
早川はすでに第六格闘部との試合など眼中になく、考えているのは目下、どうやって部員達に試合を諦めさせるか、そして、何とかして廃部を阻止する手段がないか、だった。
するとそんな考えを察したかのように、黒木が別の視点から提言をする。
「じゃあどうやって、第七格闘部を守るつもりなの?」
「そりゃ、なんとかしますよ。理事長に直談判したっていい。とにかくこのままでは……」
「理事長はこの学校の格闘部を発展させてきた立役者よ。彼の発言は絶対。あなたがどうこうした所で、彼の決定が覆るとは思えないわ」
どうにか反論しようとした結果、つい早川は口を滑らせてしまう。
「……理事長の娘が、この件に噛んでるんですよ。はっきり言って俺達を苦しめてるのはそいつ一人の仕業だといっていい。うちを廃部にする事だってそいつが理事長に頼んだんだ。だから……」
言ってから、これは少し言い過ぎたか、と口を噤む早川。
しかし、黒木は全く表情を変えず冷静に切り返した。
「知ってるわよ。妙な噂の出所を調べたら行き着いたもの。榛原未来にね。でも、だからって何が出来るわけでもない。理事長は娘を溺愛していて、過去にも娘の人間関係のトラブルを揉み消してきたって話だわ。今回の件も、まず有耶無耶にされて終わるでしょうね」
黒木の返答に、早川は言葉を失ってしまう。
早川は楽観していた。榛原の悪事を暴いて報告していけば、そのうち第七格闘部の廃部についても覆せると。しかし理事長が本気で事実をもみ消すつもりならば、こちらが抵抗できないうちに廃部を確定させてしまうことも可能かもしれない。
「だったら、どうすりゃいいんですか……」
早川は苦々しく呟く。八方塞にも思える状況に、冷静な判断力を失ってしまう。
「それしか方法がないからって、負けるのがわかっているのに教え子を闘わせればいいんですか? それは、顧問のエゴじゃないんですか」
彼は黒木に向かって問い詰めるように尋ねた。黒木は事実を言っているだけであって、彼女を詰っても何の意味もない。それはわかっていた。だが、落ち着いて話をすることなど出来なかった。それだけ早川は必死だったのだ。
「早川君、前提が間違ってるわ。負けるのがわかっているなんて前提が」
黒木はそう告げて、早川が反論する間も空けず続ける。
「私が練習試合を引き受けた時、正直あなた方が善戦するとは夢にも思わなかった。でも蓋を開けてみればどの試合もなかなかの熱戦だった。広橋茜は言わずもがな、初心者二人もたった二週間でよくもあそこまで仕上げたものだと感心した。私は、あなたの指導能力を買っている」
「じゃあ何か、この調子で練習すれば第六格闘部に勝てるとでも?」
早川も声を荒げて聞き返す。黒木の話は嘘ではないのかもしれないが、だからといって第六格闘部との試合を承諾する理由にはならない。
「善戦と勝利は違います。まして相手のレギュラー格でも出てきたら、こっちの初心者二人は為す術がないんです。そんな試合を引き受けるのは馬鹿げている」
すると黒木は一旦声のトーンを落とし、お互いに落ち着くように示唆した。
「早川君、それがそうでもないのよ。第六格闘部側が一部の人に試合のオーダーを発表しているの。弱小の第七格闘部に対してレギュラー陣を闘わせるつもりはないって。一番手と二番手は非レギュラーの選手を出すって公言してるのよ」
黒木から明かされる新しい情報。
早川が驚くよりも早く、黒木がさらにまくし立てる。
「第六格闘部はうちと違って顧問も適当だし、実績もそんなにない。レギュラー陣はそこそこの実力を持ってるけど、非レギュラーなら恐れるほどのものでもないわ。うちの千佳と善戦したあの子なら、勝てる見込みは充分にある」
黒木は真剣な顔をしてそんな事を言い放つ。麻衣なら、第六格闘部の生徒に勝てる可能性があると。早川はそこまで聞いて、ようやく黒木の話が満更出任せでもない事に気付く。この人は生徒をよく観察している。しっかり考えた上で早川に提言しているのだ。
「確かに……、麻衣の運動神経と飲み込みの早さは僕も認めていますよ。少しぐらいの経験の差なら覆せるだけのセンスを、彼女は持っている。でも、だからといって……」
「樋口麻衣を一番手に出し、そこで一勝をもぎ取る。そして広橋茜が勝てば、これで二勝よ? こうやって勝てる見込みがあるのに、その勝負から逃げるの?」
黒木は鋭い視線を早川に向け、厳しい口調で告げる。
「自分の勝手で生徒を傷付けたくない。その考えは正しいかもしれない。でもやられっぱなしで逃げるのは、生徒にとって良い事なのかしら? 憤りを押し殺して、泣き寝入りさせてしまうのは、彼女たちのためになるのかしら?」
「…………」
早川は何も言い返せない。
彼は、自分の今までの判断が間違っていたとは思わなかった。やはり自分の教え子を辛い目にあわせたくはないし、そうならないために自分が止めなければいけないと思う。しかし、黒木の言う事もある意味もっともだと思えたのだ。彼女達には非がないのに、敵に立ち向かう事すらさせてもらえないなんて、あんまりではないか。
しばらくして黒木がさらに言う。
「私だったら、試合を受けるわ。そしてきっと、三番手に広橋茜を使うわね。榛原未来の鼻を明かすには、それが一番手っ取り早いから」
「……どういう意味です?」
早川が目を丸くする。榛原の鼻を明かす? 確かに三番手にはチームで一番強い選手が出てくるわけだが、その選手を倒したからといって榛原に何の関係があるというのだろう。
そんな風に疑問に思った早川に対し、諭すように衝撃の事実を教える黒木。
「向こうの三番手は、榛原未来なのよ」
言われた瞬間、早川は思い出す。
そうか。理事長の娘という事に注目しすぎて忘れていた。そもそも理事長はベルヒットに造詣が深く、この学校の格闘部を牽引してきた人物なのだ。その娘である榛原未来は、幼い頃からベルヒットの英才教育を受けていたと聞く。そうだ、彼女は。
「彼女は序列六番の特待生徒。我が部の特待を蹴らなければ、千佳と並んで第三格闘部の柱になっていたほどの実力者よ。彼女が名乗りを挙げたのは、広橋茜の存在を知らないか、知っていても勝てると思い込んでいるからでしょうね」
早川の中で記憶の回路が繫がる。『叩き潰す』と榛原は言っていた。あれは自分も試合に出て、お前らを直々に叩きのめすという意味だったのだ。この学校の序列第六番ともなれば、道内では相当の上位陣だ。だからこちらの無名の選手などには負けるはずがない、と高をくくっているに違いない。
「それなら、あるか……。あいつに一矢報いる方法も……」
このままでは第七格闘部の廃部は確定的である。しかし仮に試合を承諾し、万が一にも勝利したなら廃部は撤回。団体では勝てなかったとしても、茜が全校生徒の前で榛原を倒してくれれば、充分に報復となり得る。
「そういうこと。まあ、決めるのはあなた達だけどね。でも私には、『そこにいる子たち』が不戦敗を望んでいるとは思えないの」
黒木はわざと強調するようにそう言って、早川の肩越しに向こう側を見やる。
早川がその視線に釣られて後ろを振り返ると、そこにいたのは
「先生! 何してんの!」
「練習の時間ですよー!」
「早くしてよー。私たち今日から死ぬ気で練習しなきゃならないんだから」
職員室の扉を開けぎゃあぎゃあと喚きたてる少女が三人。
茜と由紀と麻衣が、時間になっても現れない早川を呼びに来ていたのだ。
「お、まえら」
普段はもっと着替えに時間がかかっていたはず。彼女達がこんなに熱心に練習したがる理由は一つしか考えられない。早川はつい、三人に聞き返してしまう。
「死ぬ気で練習って、なんで……」
すると茜が当然のように胸を張って言うのだ。
「第六格闘部に勝つためだよ。決まってるじゃん」
「そうですそうです!」
「早くしろー」
由紀と麻衣も茜の後ろから口々に騒ぐ。早川の説得など、まるで意に介していなかったのだ。相手のオーダーについて知っているわけでもない。それなのに大真面目で、第六格闘部との試合に勝つつもりでいるのだ。
早川はもう一度振り返り微笑んでいる黒木の顔を見た。
そして、未だにしりごんでいる自分が馬鹿らしくなり、笑ってしまった。
「ぷっ、あははは……。あぁぁぁったく! 馬鹿だろお前ら!」
笑いながら彼は席を立ち、騒いでいる女子高生三人に歩み寄る。
「わかったよ! お前らがそこまでやる気なら、試合は引き受けてやる。けどな」
「?」
早川が改まって言うので、三人は不思議そうな顔をして彼を見つめ返した。
早川は強い力のこもった目つきで、三人を見回し約束する。
「やる以上は不甲斐ない試合は許さん。今日から試合まで、地獄のような特訓をしていくからな!」
三人は早川の発言に頷き口々に返事をする。
「了解!」
「わかってますってば!」
「どんな特訓でもどんと来いって感じよ!」
もはや迷いはなかった。
第六格闘部を打倒する。その目的のために、四人の気持ちが一つになる。
「勝つぞ! 俺達の意地のために!」
自分たちの第七格闘部を守るために。
強く宣言したその後ろで、黒木が気まずそうに忠告する。
「早川先生、ここ職員室です」
「はっ」
早川は咄嗟に周りを見回し、特に部活と関係ない教師などから白い目で見られている事に気付く。彼は赤面しながら申し訳無さそうに頭を下げたのだった。




