第九章
平和荘は、何かと毎晩天井裏で鼠が運動会でもしているのか、駆け回っているような建物であって、下水管を辿ってきてひょいと顔を出した大きなどぶ鼠と、住人とが鉢合わせ、などということもあった。
鼠捕りの罠に、一匹でいっぱいになるくらいの巨大などぶ鼠がかかったことがあり、一度近所の飼い猫と対面させたら、猫は腰を抜かしてしまい、すごすご逃げて行った。
小学校に上がって恵子がようやく鍵っ子に慣れてきたある日、学校から帰ると、アパートの下水口に白い猫がうずくまっていた。一瞬シロが帰って来たのかと思ったけれど、身体の線がしなやかで、明らかに雌と判った。いなくなった時は若かったシロだが健在なら今ごろは三歳を優に超えている。もっと大きな堂々たる猫になっていることだろう。
そっと近づき、逃げないことを確認してから撫でてみた。大人しい。初対面の子供に撫でさせるとはかなり人懐っこい猫である。しかし、毛並みを見れば野良であることは明白だ。子供の相手をしている暇はないとでも言いたいのか、撫でさせはするものの、そこから動こうとはしない。下水口から出てくる鼠を待ち伏せしているようだ。恵子はこれ以上邪魔をしてはいけないと思い、一旦その場を離れた。
家の中へ這入り、窓から外を見ると、まだそこに張り込んでいる。
猫を飼うことはもうしないと決めていたが、恵子はやはり猫が好きだ。翌日も学校から帰ってくると、同じところに同じ姿勢で待ち伏せしている。これは居ついてくれる可能性大だと恵子は思った。何故なら猫は「土地や家につく」ものであるからだ。わかりやすく言えば、縄張り、テリトリーがあり、その中で行動する生きものであるということだ。
その白猫は狩りが上手く、自分が食う分の獲物ぐらいは捕らえることができた。主に鼠や鳩などだが、天性のハンターとしての素質は十分だったと言っていい。
アパートの住人も、この猫が住人の食べものをつけ狙うような悪さをしないことが判ってきたので、たまに煮干しなどをやって餌付けを試みた。アパートの猫にしようと目論みだしたのである。しかしこの猫、人懐っこいようでいて、抱こうとするとするりと逃げてしまう。なかなか手ごわい。
恵子はついこの猫を我が家で飼えたらと思い、いろいろと子供らしい作戦を立てた。
ところが敵もさるもの。餌付けをしようにも一口二口はむしゃむしゃ食べるものの、それ以上は決して食べようとせず退散しようとする。つまり餌では釣れない。
懐いてきたせいで呼べばアパートの中まで付いてくるから、部屋に閉じこめ部屋に慣れさせようとしても、重い引き戸を前脚の力でこじ開け、そこに身体を入れ引き戸の隙間を割るようにして、脱出。
ならば少しずつ野生動物を馴らすように長い紐で外につないで馴らそうとしたが、紐の元の部分を食いちぎり、長い紐を引きずったまま逃げ出した猫は、アパートの境の有刺鉄線に紐を引っかけて宙吊りになってしまった。口もとを切って血を流しているのを見て、恵子は慌てて降ろしてやったが、自分の強引なやり方で猫を傷つけてしまったことに心を痛め、子供の恵子はその場にしゃがんで泣き出してしまった。すると猫は彼女を慰めるかのようにそばに寄り添ってきた。逃げようとしない。
恵子は思った。野良猫には野良猫の生き方や本分があり、また獣としての尊厳がある。それを人間が侵してはならないのだ。以来恵子はこの猫を飼うことは諦め、見守ることに決めたのだった。
やがて白猫はアパートの裏で二度子を生んだ。二度ともすべての仔猫を育て上げられず、一、二匹亡くしたようであったが、それは必ずしも彼女のせいとは言い切れない。野良猫が仔猫を育てるための環境が整っていないせいである。また、野生動物の世界では、こういうことは得てしてありがちなことだ。しかし、それでも白猫はほぼすべて自力で餌を獲り、二度とも三匹の子を立派に育て上げたのだった。
ある日の午後、恵子が日向の窓辺に腰をかけて、ぼんやりと白猫を見ていると、この猫がいきなり膝の上に飛び乗り、丸くなって眠りはじめた。この猫を抱くことはとうの昔に諦めていたのに、恵子は嬉しさのあまりびっくりして震えが来そうになるのを必死にこらえていた。少しの間そうしていたけれど、猫は急に伸びをして空を見上げると、膝を飛び降り目の前に干してあるシーツに大の字に飛びついた。
しばらくすると啞蟬を銜えて戻ってきて、飛ばないように翅の付け根を噛んで恵子のてのひらに置き、毛づくろいを始めた。恵子にはこの猫のやさしい心根が判るような気がした。
白猫の最初の子はどれも親離れして旅立っていったけれど、二度目の子のうち雌の雉猫だけが一匹親元に残った。その雉猫が孕んだ年の春、白猫は結局仔猫を身ごもらなかった。そして娘の仔猫を娘とともに育てはじめたのだった。
そうしてある程度仔猫が大きくなると、娘の雉猫に自分の縄張りを譲り、白猫は忽然と姿を消した。




