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平和荘  作者: 糸川草一郎
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第一章

 彼女は名を小山恵子といった。私の行きつけの居酒屋「志乃」の常連であって、五十代前半の私より少し年上に見えた。彼女とは不思議と気が合ったので、生ビール一杯でよく話し込んだけれど、恵子はある時から私の顔を見るたびに自分の少女の頃の思い出を語った。話しやすいのだと言う。彼女は言った。つまらない話だったら聞き捨ててね。けれども私は何故か聞かずにはいられなかったので、色んな興味をかきたてられ、飲みに行く度に彼女の昔話を聞いたのだった。


 それは昭和三十年代の東京だと思うが何年かを特定することはできない。人の記憶と言うものはあやふやで、事が起こるたびに記憶は刻みつけられてゆくけれど、幼い頃の思い出を年代と照合させて覚えている人は少ない。よって恵子の記憶もそのようなものであることを、最初に断わっておく必要がある。その頃彼女は何歳だったか私は知らない。小学校へ上がる前だということは判っているのでその時代であることは間違いない。


 「平和荘」というその木造アパートは大正時代からある、アパート、というより長屋だったと彼女は言った。細長い母屋は今にも倒れそうに傾いで、角柱をつっかえにして棟を支えているほどだった。関東大震災の後の建設ラッシュの頃に建てられたのだろうか。とにかく建っていさえすればいいと、粗悪な建築物が次々建設されたのであろうというようなことを私は想像した。

 とは言ってもモダンなファッションやデザインが流行った大正期の建築物である。たとえ東京の郊外に近い杉並区荻窪であっても、当時は感覚的に新しい建物が流行ったことは想像できる。このアパートも新築当時はかなりモダンな建物だったかも知れない。というのは、二階には非常口代わりにしていた観音開きのフランス窓があり、玄関には大きなギヤマンの電灯や、本格的なステンドグラスがあった。近くに教会があったというから、それにあやかったのかも知れない。


 恵子が暮らしていた杉並区荻窪は、彼女が言うには都会のベッドタウンとして栄えはじめていたと言うが、駅前に青梅街道が走り、都電や、女の車掌が乗るボンネットバスが行き交っていた。その表通りから一本裏の小路に、そこだけ時代から取り残された貧民窟のような一画があり、そこに彼女と家族が住む「平和荘」はあった。二階建てで母屋別棟合わせて十二世帯ほどだったが、暮らしはどこも貧しかった。

 平和荘は教会通りに近かった。教会通りは通りの奥にキリスト教系の病院があり、また前述の通り教会があった。「教会通り」とは、都内の外国人はその界隈の教会に通っていたのでその名があったのかも知れない。目の白いところ以外は墨を塗ったように黒い黒人や、サリーを着たインド婦人、金髪のエレガントな北欧の女性など、多くの人種を見かけたそんな界隈であった。


 平和荘はあまりに古い建物だったせいか、大家はもはや改築することを諦め、ほぼ放置状態であって、犬や猫なども飼いたい放題、その無秩序とも思える雑然とした佇まいはまさに「浮き世の吹きだまり」を思わせた。

 大家は行き場を失くした者たちに一部屋三千円で貸し、住人達は家族同然の結束力で寄り添うように暮らしていた。

 平和荘は各部屋四畳半。四畳半と言っても現代の四畳半よりは心持ち広く、一間の押し入れがあり、流しがあり、その下に氷を入れて冷やす式の古い冷蔵庫があった。風呂はもちろん無いからみんな銭湯へ行った。全体が長屋だから味噌醤油の貸し借りは当たり前。病人の看病から冠婚葬祭まで何でも支えあった。そこでは何かというとアパートの住人が、おかずやらちらし鮓やらお酒やら持ち寄り、恵子の部屋、つまり「小山さんち」に集まって世間話、井戸端会議みたいなことをやっていた。

 部屋は母屋の一階にあった。右隣は篠原さんという貧しい大工の一家、左隣は母が言うには頭が良すぎて精神を病んだ作家志望の男が住んでいた。

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