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隣国の王子殿下が泊まるにふさわしい豪華な内装の広々とした部屋は、私の場違い感を否応なしにかき立てて五臓六腑が縮むように痛んでくる。
扉側に佇む私の正面にある机をはさんで向こう側に足を組んで座った二人は、興味深そうな色を隠さずに私を真っ直ぐ見据えている。狙われている獲物にでもなった気分だ。勝負をふっかけたのはこちらだというのに、どうしても尻込みしてしまう。
もう逃げ場はない。……逃げるつもりも、ない。
「それで、話とは如何ようなものでしょう」
仮面のように常に張り付いた笑顔はやっぱり胡散臭い。本物ではないのだから当たり前か。
一度、小さく息を吸い込んで、吐き出す。緊張で唇が震える。唇を舐めて湿らせ、言葉を口に乗せた。
「……なぜ、偽っておられるのですか」
「……はて、偽る、とはなんのことでしょう……?」
私が単刀直入にそう切り出すと、偽王子の虚像の笑顔が剥がれ落ちて、焦りの滲んだ表情で小さく質問を返す。ガラリと空気が一変したのを肌で感じた。隣のアレク王子本人も、先程までの楽しげともいえる表情とは打って変わって、目を細めて睨むようにこちらを見ている。
「お二人のことです。あなた様は、アレク王子殿下その人ではありません。本物のアレク王子殿下は、そちらのあなた様でしょう」
二人の顔を見てゆっくりと言う。気分は断罪を粛々と遂行する裁判官だ。
みるみる内に硬直する二つの顔を見て、確信が深まる。もはや部屋に入った時の和やかムードは欠片もなく、冬の凍った湖面のような張り詰めた空気だけが漂っていた。
「……なぜ気付いた」
アレク王子が口を開く。その口調はもう従者のそれでなく、上に立つ者として命令し慣れたようなものだ。
なぜ気付いたか。確かに、普通の人間であったなら彼らの差異に気付くことはまずないと言える。ただの侍女に勘付かれたという事実が信じられないのだろう。
「私がそれを確信のは、あなた様が挿しているその剣を拝見した時です。柄の所にあるその虎の紋章は、王家に属する方以外は身に付けることを許されていないはずですから」
「……これは我が国の紋章だ。国に属する者であれば誰でも身に付けることはできるし、珍しいものではない」
その態度で事実を認めたようなものだというのに、アレク王子は弁解を重ねる。まだ言うか、と少し呆れてしまう。私が言いたいことは理解しているだろうに、そんなに演技が露見するのを避けたいのか。
王子の隣をちらりと見ると、王子役だった侍従の男は、注意深く私たちの会話をうかがっていた。
「……一般に許されているものはただの左向きの虎。しかし、貴国の本物の紋章には、虎と共に若葉の模様があります」
「……なぜあなたがそれを知っている。国の者でも王家の人間とごく一部の人間にしか知らされぬことだぞ。この国の人間であるあなたが知っていて良いことではない!」
冷静さを欠いて噛み付くように怒鳴る王子。場の気温が一気に氷点下まで下がったような気がする。
そんなこと言われても、と心のなかで溜め息をつく。それじゃただの我侭じゃないか。確かに、私が知っていていいことではないだろう。今の私は正真正銘この国の人間、身分だって一侍女に過ぎない。その事実が知らぬ内に漏れているとなれば一大事だ。隣国の王家の威信に関わると言っても過言ではない。
――だが……。
「大変申し訳ございませんが、今、この場でその訳をお話することは出来ません。アレク王子殿下とリゼッタ様がご成婚なされた後であれば、その問いにお答えすることが叶います。それまでどうか、見送らせてくださいませ」
深々とお辞儀をして謝罪の意を示す。
顔を上げると、その顔にありありと疑念の色を表したアレク王子が、私の言葉を吟味するように唇を噛んで床を睨みつけていた。
そして、私の顔を真っ直ぐと見据えて口を開く。
「……俺がこの国の人間となるまで答えられないと言うわけか」
「左様にございます。どうかご容赦を」
この追求をこの場でどう切り抜けられるかが鍵でもあった。私が真実を話せば、恐らく本題からかけ離れた話題に場が持っていかれてしまう。それは私の本意ではない。今は言えないのだ、どうしても。
話し始めてからじっと黙っていた侍従の男がおもむろに口を開いた。さっきまでの柔和な笑顔が嘘のように、凍った表情のままだ。
「あなたのその髪の色に関係があるのですか」
「……申し訳ございませんが、お答えすることが出来ません」
私の変わらぬ返答にアレク王子はうなだれ、侍従の男はしばらく私を見つめてから、ついと目を逸らした。
二人とも、一介の侍女の吐露をどう腑に落とせばよいのか戸惑っている様子だ。
「お認めになったということで、よろしいのでしょうか」
二人の様子をしばし見守った後、私は口を開いた。留まった空気の中の沈黙ほど辛いものはない。
あくまで本題はこちらだ。私が国家の機密事項を知っている理由など、今はどうでもいい。私の声に二人はまた顔を上げ、互いにアイコンタクトを取った後、アレク王子が口を開いた。
「あなたの言う通りで相違ない。俺たちは入れ替わっている。この国に来訪した時から」
「なぜですか」
すぐに質問を重ねる。私が一番訊きたいのはこれだ。リゼッタ様が騙されている理由。
しかし、私がそう訊くと気まずそうに侍従の方を王子は見た。はぐらかすつもりだろうか。
「お答えくださいませ」
強い口調でそう言うと、今度は侍従の男が話し出した。
「私がお話し致しましょう。シュナさんには、というより世の女性の方々には理解し難いことに感じられるかもしれませんが、どうか最後までお聞きください。端的に申しますと、今回のこれは、全て王子の作戦なのです。最終的に、王子がリゼッタ王女殿下と順調に結ばれるための」
「……どういった意味でしょう、それは。順序立てて説明して頂けませんか」
「そうですね。まず初めにご説明差し上げなければならないことは、つまり王子は女性関係に苦労なさってきた、ということですかね。認めたくありませんがあの容貌にあの身分でしょう? 良くも悪くもそれこそ王女殿下とご婚約なされるまで、王子にお近付きなろうと寄ってくる女性の数は星の数ほどおられました」
……ただの自慢にしか聞こえないが。主のモテモテ自慢か?
訝しんで、意味が分からないという視線を多分に含めて侍従に送ると、彼は微笑みを浮かべ、楽しそうに続けた。
「シュナさんにもお分かりになるでしょう。貴族のお嬢様方は、飾り立てること、そして媚を売ることのまさに天才! 幼い頃からそんな方々に囲まれて過ごしてきた王子は女性の真の姿に恐れをなすと同時に、女性の本質を見抜けぬようになってしまわれたのです。周りにいる女性は、自分を落とすことと、自分の周囲にたかる娘を蹴散らそうという魂胆が見え透く者ばかり。王子の女性運の悪さも相当ですね」
にっこりと笑って毒を吐く侍従。おい、と言ってアレク王子もたしなめてはいるが、事実であるのか内容には突っ込む気がないようだ。
「そんな折、舞い込んだのがこの縁談だったのです。リゼッタ王女殿下を疑う訳ではございませんが、経験上、丸腰で初対面するのはどうしても避けたかった。本当に信頼し合える関係を築きたいという願いを王子は抱いておられるんです。ですから、王女殿下の真の御心を知るためには、第三者目線で見るのが一番よいと王子はお考えになりました。それゆえの、現状なのです。以上で顛末は理解頂けたでしょうか」
話を締めくくり、お返しします、とでも言いたげに笑みを深める男。
……本当にこれが、真相?
――なんてことだろう。
リゼッタ様を第三者として観察するためだけに、入れ替わったという訳なのか。本人の意志を確認することもせず、監視して、本質を見極めてそのチェックをパスしたら晴れて結婚、というワケ?
リゼッタ様との会話を楽しんで、心を直接触れ合わせて、その人となりを推し量ろうという努力など全くせずに?
――バカじゃないの。
「……リゼッタ様のお気持ちを考えたことは一度もないのですか」
思ったよりも低い声でポツリとつぶやくと、ふてくされたような声音でボソリと王子が返した。
「……大変申し訳なく思っている。だが、俺としてもこれ以上苦労するのは――」
「あなたの気持ちなど聞いていない! リゼッタ様のお気持ちをお考えになることは出来ないのですか! 相手を蔑ろにしておきながら、相手の心を知りたいなんて、最悪の侮辱にあたるとは考え付きもしませんか!」
我慢の限界だった。
手も唇も緊張とはかけ離れた場所の感情の高ぶりのせいで震えが止まらない。
叫ぶようにして怒鳴ると、二人は驚愕の中で押し黙った。これ幸いと言葉を重ねる。
「平等という言葉をご存知ですか、ご存知ないはずないですよね。人類の血と汗の歴史の上で確立した、全ての人間が享受できる人権ですよ。あなたは、一国の王子として民の模範でなければならないというのに、それに全くそぐわない行動をしている!」
しまった、話題がずれてしまった。こんなことを言いたいんじゃないのに、頭に血がのぼりすぎて何を言っているか自分でも分からない。
一度唾をゴクリと飲み込み、更に続ける。
「リゼッタ様のことなど一欠片も気にされたことはないんですね。リゼッタ様が心を開いたとして、では対するあなたはどうなんですか。虚構の王子が胡散臭い笑顔を振りまくだけ、本物のあなたは仮面を脱ぐこともせずにそれを観察するのですか。リゼッタ様は観葉植物でもモルモットでもありません! あなたたちがしていることは、人を人として扱わぬ暴挙です……!」
荒々しく一気に言い切ると、驚愕で言葉も出ない二人が目に入った。
王子として自分に優しい人々ばかりに囲まれたぬるま湯の中で生活してきたのならば、こうして身分が格段に違う人間から表立って批判されることなど青天の霹靂だろう。
苦労したくない。そのために、相手を見極めてから次の手を打ちたい。きっと、本当にそんな安易な理由で二人は入れ替わっているのだろう。そして、それが悪しきことだとはきっと爪の先ほども思わない。だって、疑う必要なんてなかったのだから。身分、そして美しさという免罪符に彼は守られているのだ。
肩で荒い呼吸を繰り返していると、押し黙ってしまったアレク王子に代わって侍従の男が話し出した。
「……大変、申し訳ないことを致しました。第一王女殿下にも、あなたにも。こちらの思惑がどうであれ、偽り、謀っているのは事実ですから。私たちの配慮が決定的に足りなかったのは認めざるを得ません」
眉をひそめて、謝罪の色を前面に押し出した顔で謝る。別に私に謝って欲しいわけじゃないのに。しかも、謝るのなら下の人間でなく上の人間であるべきなのに。
「しかし、お聞きください。確かに、私たちがこのようなことをしているのは、先程申し上げたような内容です。あなたには軽い理由に聞こえるかもしれませんが、我が主にとってはとても重いことなんです。どうかご理解頂きたい。結婚は両者の合意のもとに成立するというのは常識ですが、国の利害関係が絡む王家の者同士の婚姻、いわゆる政略結婚では、そのようなものはとても軽く捉えられてしまいます。……でも、そんなの悲しいでしょう? ですから、先程も申し上げたように、恐らく王子の生涯の伴侶なるであろうリゼッタ王女殿下とは、信頼し合える本当の夫婦と相なれるようにしたかったのです」
信頼とはなんでしょう。
この人の話に耳を傾けていたら、言葉の意味すらあやふやになってしまいそうだ。
……涙が出そうだ。何も分かっちゃいない。
情緒不安定になりながらも、心の底ではアレク王子とお会いするのを楽しみにしていたリゼッタ様。あんなに楽しそうに話していた。信じて疑うことなんてしないだろう。そりゃそうだ、まさか婚約者が従者に扮してるなんて、思い付くわけがない。
真実を知ったときのリゼッタ様を思うと胸が締め付けられるようだった。裏切られたと思っても仕方がない。リゼッタ様の悲しい顔が脳裏にちらつく。
そんなことがあんたたちの考える、信頼関係を築く方法……?
信頼なんて出来るものか。騙した相手を誰が信頼などするだろう。人の気持ちを考えることが、本当に本当に出来ないのだろうか。
悲しくてもう怒鳴る気力もなかった。
力を込めて、何とか留まらせていた涙が、ついに溢れて床に吸い込まれていった。一度流れ出ると、それは次から次へと落ちていく。
「……信頼とは、何でしょう。あなたたちの考える信頼って何ですか。私には分かりません。人を信じる為に、人を騙すのですか。もう、意味が分からない……」
私の呟きのような言葉は、しんと静まり返った広い部屋に溶けていった。
しばらく誰も何も喋らず、私の鼻をすする音だけが響いた。袖で目元をぬぐっていると、おもむろにアレク王子が口火を切った。
「……あなたが言いたいことは、理解した。確かに配慮が足りなかった。申し訳ない。……だが、一応これでも許可は頂いているんだ。この三日間の入れ替わりの許可を」
「……どなたに、ですか」
「国王陛下だ」




