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皮肉屋侍女の生活  作者: りつなん
第2章 隣国の二人
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 差し出された若草色のハンカチを、一瞬ためらったものの、ありがたく使わせて頂くことにした。布巾を取ってくるには時間がかかってしまうし、この際そのご厚意を素直に受け取ってしまおうという、半ばやけくそな気分になった結果の行動だ。

 ハンカチでテーブルを拭き、床の様子を確認する。分厚い絨毯に紅茶は吸い込まれてしまって、あまりよく分からなくなっている。うん、こちらは放置。お咎めがあったら……なんて今は考えている場合じゃない。

 紅茶の色に染まったハンカチを隠すように握り、侍従殿のカップを持ってその場を一旦下がらせてもらうことにする。とりあえず新しいカップをお持ちしなければいけない。幸いにもポットには何も害がなかったので、そのままテーブルの上に置かせてもらおう。

 三人に向かって深々と頭を下げ、


「お騒がせ致しまして、大変申し訳ございませんでした。従者様の代わりのカップはただいまお持ち致します。ご迷惑をお掛け致しますが、少々お待ちくださいませ。それから……ハンカチは後日お返しする形でもよろしいでしょうか」


「それで構いません。あなたの方は大事ありませんか」


「お気遣いありがとうございます。私は大丈夫です。……では少々失礼致します」


 心配そうにこちらを見上げる侍従殿の顔を直視できず、私はそう言い残して逃げるように部屋を後にした。背を向ける際、奥のリゼッタ様が怪訝そうな顔つきで私を見ているのがちらりと目に入った。いつにない動揺っぷりを見せる私に違和感を感じていらっしゃるのだろう。

 いくつかある給仕室のうちの一つに向かっていると、自然と何かに追われるかのように小走りになってしまっていた。


 今しがた思い至ってしまったことについて、私はまだ考えたくなかった。

 お茶会が続いている限り、私の仕事も終わっていないのだから、今は早急に戻らなければならない。

 落ち着いたら、改めて吟味し直そう。部屋に戻る頃にはこの鼓動も少しは収まっていることだろう。

 ……確信するに値する証拠を掴んでしまったけれど、それでもまだ疑っていたいのだ。



 ハンカチを洗い、エプロンを替えて私は部屋の前に戻った。新しいカップを載せたお盆が震えている。布巾を握り締めて、扉を前に深呼吸をする。扉一枚隔てた向こう側では、先ほどの騒動などなかったかのようにまた楽しげな談笑が続いている。……良かった。


 ノックして入室し、テーブルの前に立って三人の視線が突き刺さるのを感じながら頭を下げる。


「先程は、本当に申し訳ございませんでした。大変な粗相を致しましたこと、どうかお許しください」


 緊張でこわばった声音になってしまう。恥ずかしさと恐れでどうにかなってしまいそうだ。

 平身低頭する私の耳に、王子の優しいテノールが入ってきた。


「気にしていませんから大丈夫ですよ。慣れてない場だったんですよね。誰にだってありますから、シュナさんもお気になさらないで」


 顔を上げると、陽だまりのような優しさ百パーセントの微笑みがそこにあった。人を宥めさせたら右に出る者はいなそうだ。


「……ありがとうございます。お話をお邪魔してしまって申し訳ございません」


 話を打ち切ってしまったことに罪悪感を感じて、話を続けて欲しいという旨を伝えると、リゼッタ様と王子が微笑みながら頷いて、会話に戻った。どうやら幼少の頃の思い出について話しているようだ。

 侍従殿に紅茶をお淹れしていいか訊き、コポコポと湯気を立てながら注がれていく液体を見つめる。先ほどのことと、私の中の暗い確信が邪魔をして顔が上げられない。

 ……新しいカップに注がれた紅茶に、私を注視する侍従殿が写り込んでいる。先ほどはリゼッタ様に向けていた類の目線だ。私の挙動を監視するように、見ている。

 ――勘付かれたのだろうか。


 目線を上げて侍従殿の顔を見つめ、どうぞ、と言ってカップを差し出す。

 小さくお礼を言ってカップに口を付ける侍従殿の顔を、今度は私が注視する。

 ぬばたまの髪、そして隣の王子よりも蒼い瞳。端正な顔立ちがさらりと揺れる前髪の合間からのぞく。

 今まであまり見なかったから気付かなかったけれど、よく見ると侍従殿の服装には若草色が多く取り込まれていた。マントの留め具の装飾の色、腕の袖からのぞいている、ぶつかり合うとシャリシャリと音を立てる装飾品。漆黒の髪の中で日の光にあたって輝くピアス。

 そのどれもが、事実を物語っている。

 侍従殿がカップを置いてこちらをちらりと見たため、見事に目が合った。……と思ったら、不自然な動作でいきなり目をそらされた。今度はリゼッタ様の方を向いている。主たちの会話を聞いているというアピールだろうか。


 ……気付いてしまえば、簡単なことだった。謁見の際に感じた違和感の正体は、つまりこういうことだったのだ。

 ――アレク王子殿下とクィルトという名の従者は入れ替わっている。

 何のためなのかは分からない。

 でも、静かに、ぴたりと自分と相手を重ね合わせて演じる二人には、何らかの強い目的があるとしか思えなかった。

 一体何の目的で、こんなことをしているのだろう。

 何のために私の主人は、騙されているというの。

 テーブルの下で小さく握った拳が、細かく震えた。



 主たちが会話に華を咲かせ、仕える二人がそれを見守るという先ほどと同じ図式がまた構築された。……いや、先ほどまでは微笑ましく見守れたけど、今は状況がかなり変わって見えた。

 目の前にいる侍従が王子の身をやつした姿だとするなら、この方はリゼッタ様と本物の侍従殿の会話を観察しているということになる。

 リゼッタ様の前に座る王子の身なりをしたクィルトという男に目を移す。絶えない微笑に柔和な目元が、演技とは思えないほど王子らしい品位を醸し出している。

 王子役のこの男も相当な手練だ。自分よりも高い身分の異性を目の前にしても、平然と演技を続けられるなんてどれだけ豪胆な人なのだろう。あの紹介も、自分で自分を紹介したということになるのか。ということは、騎士団での地位も真実なのだろう。

 ……確かに、よく考えてみればリゼッタ様と同い年と聞くアレク王子があんなに落ち着いているなんてあり得るだろうか。まあ、世界にはとても早熟な人もいるだろうが、それにしても落ち着きすぎているというか、食えない感がありすぎる。女性慣れしているとも言えるかもしれない。

 従者に化けた王子よりも少しくすんだ黒い髪。この国の近衛騎士団には、結べるようにと髪を伸ばしている者も多い。恐らく、それと同じ理由でクィルトという男も少し襟足が長い。

 謁見の間で見た通り、眼の色も純粋な蒼色でなくて紫色に近かった。この至近距離だととても確認しやすい。

 外見から見ても、二人が入れ替わっているというのはほぼ間違いないと言えるだろう。


 けれども、だ。

 ……この事実を知ったとして、私が出来ることと言ったらなんだろう。

 一介の侍女なんかが出る幕じゃない? 

 相手は明らかに自分より身分が上で、向こうの思惑で行っているのは明らかなのだから、例え気付いたとしても黙って職務を全うすべき?

 ……色々考えてみても、最後には何もしないべきだという結論にたどり着いてしまう。

 

 ――悔しい。

 何も出来ないのだろうか。本当に?

 いつバラすつもりなのかも分からない。主は騙されたまま、いつまで踊らされるというのだろう。万が一、リゼッタ様がクィルトという男に惚れ込んでしまったらどうするのだろう。

 いや、もっともっと予期せぬ最悪の事態が起こることも十分にあり得る。


 それを未然に防ぐために、私に何が出来るのだろう。



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