その1
「それじゃあ、行ってきます」
旭は焔の背中に声をかけた。返事もなければ、広げた文庫本から視線をあげることもない。焔は居間の畳に寝ころんだままだ。
まだ怒っている。
ずくっと旭の喉の奥が痛んだ。
焔とは、昨夜からずっと冷戦状態だ。真之介の家に、一緒についていくという焔を拒んだのだ。焔から無視されたことなどなかったから、堪えた。真之介の家へ行くのをやめるといえば、焔の機嫌も治るだろう。そちら側へと心が傾きそうになる。
でもそれじゃあ、だめなんだ。
ぼくがこの目で、二条を見極めなきゃ。焔は最初から二条を疑ってる。一緒にはいけない。一人で成し遂げなければならない。見極めるんだ。焔がいなくても、できる。きっと大丈夫。
自分自身にいいきかせる。
拒絶されたその背中を前に、しばらく立ちすくんでいた。焔を待っていた。がんばれという言葉とか、自分だけをみてくれる紫の瞳を待っていた。
焔は動かなかった。その背はぴくりとも動かなかった。
旭の足元を、小さな、形も定かでないあやかしたちが駆け抜けた。焔の身体にまとわりつくと、そこで丸くなり、子猫のようにすとんと眠りについた。
近づくことも許してくれない、そんな気がした。
でもこれだけは譲れないんだ。
旭は、焔へと伸ばしそうになる手をぎりっと握り込んだ。もう一度、行ってきますと小さな声で告げて、家を出た。
玄関の戸が閉まると同時に、焔は読んでいた本を力任せに放り投げた。壁にあたって、ぱさりと落ちる。眠っていたあやかしたちが、大あわてで部屋の隅へと散らばった。
「焔」
背後から声がした。寝ころんだまま、視線だけを向ける。
「ばあちゃん」
旭の祖母、日向が焔を見下ろしていた。
「旭なら大丈夫です。おまえもあの子の能力は知っているはず」
日向は焔のそばに座った。焔がむくりと起き上がる。ばざばさの髪の毛を整えもせず、組み合わせた指に視線を落とす。
「おれらがいくらあいつの能力を知ってても、あいつに自覚がなければ意味がない」
「旭もいつか、自分の能力に気づく日が来るでしょう」
「それまで待てってのか。いま危険なんだよ」
「旭が? それとも旭に関わるあやかしが?」
焔が返答に詰まると、日向はふふっと笑った。
旭の持つ潜在能力は、計り知れない。それは焔が生まれたばかりの旭を見たときから、いや、旭の母、陽桜のお腹の中にいるときから、溢れてくる波動に気づいていた。言葉を覚えたころに「焔」と強く呼ばれただけで、身体が動かなくなることがあった。言葉だけで、焔ほどのあやかしの動きを制御する。けれど、旭自身がまだその能力を自由に使いこなすことができない。
旭に危険が迫れば、潜在的に隠された能力が爆発して、その身を守るかも知れない。その場合、旭にちょっかいを出す妖怪など、一瞬のうちに吹き飛ばされてしまうだろう。しかし旭は相手を信用しすぎる。自分が信じ切っている相手の前で、旭がその能力を十分に発揮できるだろうか。旭は自分の信じた者を最後まで信じる。信じて疑わない。そのとき、旭の身は、最大の危険に晒される。
「どっちもだよ」
「おまえも陽桜たち同様、過保護ですね」
日向が立ち上がり、部屋を出て行った。
過保護なんじゃねえよ。おれが後悔したくないんだ。一緒にいないときに、旭になにかあったら、おれは自分を呪う。なんで手を放したんだと、自分を痛めつけなければ気が済まないだろう。もし、旭を失ったら、おれは存在している意味もないんだ。死ぬことも、消えることもできない。旭のいない世界で、ただ在り続けなければならない。
堪えられないだろ、そんな世界。
日向が消えた障子に向かって、想いだけぶつけてみた。
視線の先に、白い小さな紙が一枚、落ちていた。さっきまではなかった。日向が落としていったのか。わざと置いていったのか。手に取ってみる。
「岩手県T市O町93ー1?」
住所だ。
焔の頭の中を、ぴしっと電気が走る。二条真之介の住んでいた場所か。手の中の紙切れをくしゃりと握り込んだ。
「心配なんてしてないって顔して、おれにはちゃんとフォローさせるわけね。まったく天の邪鬼なんだから」
くっくと笑いがこみ上げる。
焔のくちびるが声なき声を発し、指が印を結ぶ。かつてはその姿を山神と称された、白く長い毛の大きな獣、大狐へと変化する。大きな耳で、銀の輪が二つ触れ合う。かちんと澄んだ音をたてた。
日向の残した紙切れをそっと咥え、庭に出る。瓦屋根の上へ軽く飛び上がった。鼻を動かし、旭の出かけた方角を、そのにおいで視る。
「おれが戻るまで、無茶するなよ」
焔は旭のにおいの糸を断ち切るように、強く瓦を蹴った。一気に青空の中へと上昇し、そして大気に溶けるように消えた。
東北へ。
焔の白い身体は、風になった。
(第五章「黒い歌」その2へ続く)