その2
「ただいま」
玄関の戸をがらりと開けると、奥からパタパタとスリッパの音が聞こえた。長い廊下の先にかっぽう着姿の女性が現れる。若すぎもせず、かといって年寄りでもない。真之介の母ともいえなくないその女性は、真之介に軽く頭を下げた。
「おかえりなさい。真之介ぼっちゃま」
「ただいま。早池さん」
にっこりと笑ってみせる。
「お父さまがお呼びですよ。帰ったらお稽古場にいらっしゃるようにと」
「やっぱりぼくが陸上ばっかりやるのが気に入らないのかなぁ」
「真之介さまは大切な跡継ぎでいらっしゃいますから、お父様もいろいろお考えがあるのでしょう」
「跡継ぎね・・・」
真之介がふっと笑い、早池の差し出した手にスポーツバックを預けた。制服の袖口から、黒いものがちらりと覗く。細く黒い筋が数本、その手首に巻き付くように染みついている。早池の視線がその腕に落ちる。真之介がその痕を、すっと指でなぞる。
「あと一本ですね」
「わりに早かったね。早池さんのおかげだ。ありがとう」
真之介は、父の待つ稽古場へと足を向けた。その後ろ姿を見守る早池が、そっと微笑んだ。その眼差しの中で、小さな赤い火がちろりと揺れた。
(第五章「黒い歌」その1へ続く)